殺人ゲーム
 
 暗い竹林の中で、健一は血糊のべったりと付着した学生服とズボンを脱ぎ、白のジージャン、黒いズボンに着替え、白いスニーカーに履き替えて何度かしくじったあと靴紐を結びました。金槌を握りしめていた右手はもう自由に開き、手首にいささかしこりが残るばかりです。ジージャンの内ポケットの財布を探ると、確かにあります。2万円あるはずだから、数日間は自由に生きられます。膝の関節にどこかぎこちないところを感じながら、熊笹の擦れる音を秘やかに闇の中に残して竹林をあとにした健一は、田圃に沿った道に出たのでした。
 暗いその道の前方から静かなヘッドライトの光が瞬く間に接近し、雨の気配を含んだ空気を吹き付け瞬く間に遥か後方に走り去っていきます。そして今度は後ろからまた、健一に何ら関係のない車が迫って来て、一瞬の間その窓ガラス越しに人の気配を見せて、すぐに黒い路上にテールランプの光の筋を残して消えていきました。振り返ると、暗い竹林の上を渡る風の気配がし、その上を山々の影が覆っています。山に雲が懸かり、雲間の星は今にも落っこちそうに不安定に光っています。
 再び歩き始めた健一は、どこまでもこの道が終わらないことを心のどこかで願っていたのかも知れません。やがて家々が軒を並べるようになり、シャッターを下ろした商店があり、馴染みのコンビニエンス・ストアの白い窓明かりを目にすると、胸にかすかな痛みを覚えるのでしたから…。
 「あら、建ちゃん」と、コンビニエンス・ストアの前に差しかかると、中から出て来た近所のおばさんが声をかけました。「そっちは駅よ。今頃、どこへ行くの?」
 黙って頭を下げて通り過ぎていく健一の背中に向かって、
 「ああ、そうか。塾なのね。最近の高校生は大変よね」と陽気に語るのでした。
 小さなロータリーを中心にした駅前広場の周りに駐車場と駐輪場があり、自動販売機が幾つか並び、道端に2台、赤い大型車とベージュの小型車が停まっています。小型車の窓の中に子供を迎えに来たらしい若い母親の顔が窺え、大型車の運転席でタバコを吹かす男は、まだ20才前のようでした。不快げに健一に視線を送った表情に幼い影が露骨だったのです。自分のすぐ傍に2人も人間がいることに疲労感を覚えた健一は、しかし駅の階段を上りながらすれ違った人にはもう無感覚になり、自動販売機で切符を買って、改札口で駅員に差し出してスタンプを押してもらい、階段を下りて2本のレールが冷たい光を映しているプラットホームに降りて行きました。
 向かいのプラットホームに降りている階段の後ろに見えるスーパーマーケットはすでに明かりが消え、緑濃い街路樹に水銀灯の光が音もなく降り注ぐばかりです。1匹の犬の黒い影がその水銀灯の下にさまよい、くんくんと地面を嗅ぎ回したあと、諦めたように尻を下ろし、黒雲が広がる中にわずかに残った星を仰ぎました。健一は俄かに寒気を覚えて思わずブルッと肩を震わせ、ジージャンのファスナーを上げ背中を丸めました。すると同じベンチにアベックが腰かけに来て、男は優しく女の肩を抱き、女は甘えて男の胸に抱かれるのでした。
 雪を冠してまだ白い峰々の麓を大きく迂回したN本線は、住宅を包み込んだ闇の中からバラスを敷き詰め枕木の上を走るレールになって現われ、そこにやがて鈍い音と共に光がゆらめき、無表情で堅い車体を降らしつつ電車が接近し、鉄製のブレーキの軋る音を夜の駅に響かせるのでした。
 健一は乗客のまばらな車内に入り窓に沿った長いシートの1つに座り、目を上げると向かいのシートに先ほどのアベックが腰を下ろしました。警笛を鳴らして一揺れし、やがて走り始めた電車の床の明るさに戸惑いながらも、その硬質感が健一の目に懐かしく映ります。それはどこか、毎晩机に向かって見つめていたコンピュータ画面の明るさに通じていたのです。なるほど、確かにコンピュータはキーボードを叩けば画面を自在に変化させられますけれど、それは車体の揺れによって生じる床の光の揺れ動きとどれほどの違いがあるでしょう。深い夜から守られている空虚さは同じことなのです…。
 フッと溜め息を漏らして向かいの窓の外を流れている夜景を眺め、暗い窓ガラスに映る自分に焦点の定まらない視線を投げかけていると、向かいの女の瞳孔が見る見る広がり、無邪気で怯えた目をして健一を凝視しました。健一がその視線の先を窓ガラスに映る自分の姿に沿って辿ると、ジージャンから覗いた白いワイシャツの首まわりの襟が赤黒く血に染まっています。「そういうことだったのか」となぜか安堵した健一はシートに深くもたれかかるのでした。すると女は顔を伏せ、大胆に曝していた白い脚をキュッと合わせて男に身を寄せました。
 小1時間ばかり電車に揺られ夜を走った健一は、各地から線路の集まるN駅にすべり込み、アナウンスの声を頭上に受けながら、数々の靴音の中をタイル張りの床を秘やかに踏みしめて進み、改札を抜けて中央出口を出ると、夜空に向かって数々のイルミネーションが物音のない騒がしさでくっきりと浮かび上がり、その下を車やバスが行き来し、歩道を人影が動いています。
 「そこの兄ちゃん、可愛いじゃん。遊びに行かない?」と、駅前広場に停車していた車の中から青く光るアイシャドーをした色黒の女の子が声をかけました。そして、背を向け歩き始めた健一に向かって、
 「何よ、一言挨拶くらいしたら。粋ぶっちゃって!」と底意のない声で怒鳴るのでした。
 横断歩道を渡って、まだ開いている喫茶店やレストランの前を通り過ぎながら、健一はまるで空腹感が湧きません。むしろ吐き気を催すほどの満腹感があり、しかも昼食以来、何も喉を通していなかったのです。老婆の頭蓋骨に金槌を振り下ろすまで去らなかった胸の渇きも今はなく、確かに喉はカラカラでしたが、水分を受ける気がしないのでした。そして、「こんなものか」というセリフばかりがぐるぐると健一の脳裏を駆け巡って止まりません。「簡単に生きて簡単に死ぬ。実に脆い」
 「おい、気を付けろよ!」と、健一と肩と肩とがぶつかった、千鳥足の酔っ払いの中年の男が振り返って叫びました。「酒は飲んでも飲まれるな。礼儀を心得ろって言うんだ」
 それでも黙って歩いていく健一の背中に向かって、
 「バカ野郎!」と罵声が浴びせられましたけれど、それも実に無邪気に健一の胸に響くのでした。そしていつまでも、「簡単に生き簡単に死ぬ。実に脆い」と頭の中で繰り返すのでした。
 信号待ちの車の前を、足の動きと靴音とを鮮明に心に映しながら横断歩道を渡り、シャッターの下りた巨大なデパートのショーウインドーを巡り、歩道いっぱいに張り出された庇の下を抜けると、道端にぽっかりと空いていた地下道入口の明るい何気なさに健一の目は引き込まれましたけれど、足はやはり歩道を南に向かうのでした。銀行や証券会社のビルの前は人影が少なく、街路樹の葉陰に降りた闇は秘やかで、駅前通りと国道とが交差する広い交差点を占めている夜をヘッドライトの光が素速く疾駆しています。また横断歩道を渡って、道が狭まり、さらに南に歩きつづければ、いつか海に達するはずでしたが、海もまた、暗い夜に包まれていることでしょう。白い波頭が幾ら遠く叫び立てても、雲が飛び風を孕んだ夜が明るくなることはないでしょう。
 暗い遠い海にさざめく白波を確かに見た刹那、健一は激しい虚脱状態に襲われました。そして、初めて心底から味わい得た疲労と倦怠こそ、実は物心も付かない遥か昔から求めていたものだと確信されるのでした。
 「そうだったんだ」と健一は独り頷きました。「おれは生きていないのかも知れないが、死んでもいない。それは確かだ。こんなに気だるいのだから…」
 それにしても実に大きな犠牲を払ったものだとは、健一は思いもかけませんでした。ただもう、心身ともに疲れ切っていたのです。もういい、もう夜に向かって歩きつづけるのはよそうと思い切った健一は、踵を返し、イルミネーションが無数に明滅する駅前広場に引き返していきました。
 駅構内には広く明るく清潔な、鍵が掛かる安全な公衆トイレが幾つもあるはずです。洋式トイレの便器にもたれかかって一晩過ごせば、きっと夜は明けることでしょう。そしていつも通りの朝が来た時、いつもと違ってまだ倦怠感が残っていたならば、自分の17年間の人生は無意味ではなかったのだ、と健一は考えるのでした。