二階の下宿生
バスを降りた真希は、歩道に漏れる本屋の明かりを輪郭の整ったその横顔に淡く受けつつ歩み、馴染みの主人が顔を上げた時にはもう通り過ぎていました。交差点を往き来するヘッドライトやテールランプを火照った顔をしてぼんやりと眺めていて、また吐き気を催したのは、アルコールのせいばかりではありません。課長の赤い唇が微妙に開くさまを脳裏に描いてブルッと身震いした真希は、緑の信号に気づいてスラリと伸びた脚を踏み出し急いで横断歩道を渡り、丸石で固められた川底を飛沫の音を吹き上げながら浅瀬が流れる小川沿いの路地に入りました。そして左に曲がると、ビルや商店の建て込んだ大通りの一つ南の、昔ながらの格子戸の家々が並ぶ静かな通りです。
軒灯にほのかに照らされた石畳道にハイヒールの靴音をコツコツと残しつつうつむき加減に歩を進めた真希は、叔母の家の戸を叩きました。
「誰?」と奥から声がし、
「わたし」と真希が答えると、
「ああ、あんたか」と安堵の声と共に畳を素速くいざる叔母の音がし、すぐに鍵が開きました。「どないしたんや、こんなに夜遅く?」
玄関の上がり框にキュッと締まった丸い腰を下ろした真希は、
「泊めてくれへんか」と頼みました。
「そりゃかまわんで」と叔母は言い、「だけどこの酒の匂い、何とかならんかいな」と大仰に顔をしかめて手で振り払う真似をするのでした。
「課長に勧められたら、断われへん」と、真希はベージュのスーツの上のボタンを1つ外して、熱気のこもる胸の空気を追い出しました。
「飲めんものは飲めんと言えばよかろうに」
「そうは行かん。うちはOLやさかい」
「会社ちゅうとこは難しいところやなあ」
「そやで」と真希は黒い大きな瞳を向け、形のよい唇を突き出すのでした。「難しいところや。叔母ちゃんにはとてもムリやな」
「うちはどこもムリや」と叔母は自嘲的につぶやきましたが、あきらめを含んだその表情は真希にとって幼い頃から馴染みのものでした。両足が萎えた叔母は立ち歩きができず、50年近い人生をずっと家の中を膝行して生きて来ていたのです。
茶の間に上がった真希はおなかが空いたと言ってお茶漬けを食べた後、
「信行はいる?」と問いました。
「あの道楽者、また友達と遊び呆けてるわ」
「また落ちたんやてな」
「今年で3年目やで。もうあきらめさせんとあかんやろう」
「うちとしては頑張ってほしいけどな」
「母親とあんたがそないに甘やかすから、ダメなんや。このままだと、あの子はいつまで経ってもぐうたら息子のままやがな」
「どないしたらええ?」
「小遣いを渡すの、もうやめ。そしたらイヤでも働くようになるわ」
「大学は?」
「あの子の頭じゃムリやろ。入れるもんなら、とっくに入っとる」
「どこでもいいんなら、いつでも入れると信行は言うけどな。獣医学部のあるところは少ないから、難しいんやて」
「ふん!」と叔母はせせら笑うのでした。「どこまでほんまか分からへん」
「矢野くんはどないやった?」と真希が声を低くして尋ねると、
「あの人は入りはった」と叔母もまた声を低くして答えました。
「それはよかったやんか」と真希は声を高くし、
「信行とは大違いや」と叔母もまた声を高くするのでした。
「信行の部屋に泊まってええか?」
「だけど、隣に矢野さんがいるえ」
「隣にいても、一緒にいるわけやない」
「そりゃそやけどな」
「うちと一緒に寝たら、叔母ちゃん、酒臭うてかなわんで。それなら、うち、しんどいから先に寝させてもらうわ」
「お風呂は?.残り湯だけど、まだ暖かいで」
「今日はええ」と言って立ち上がった真希は、狭く急な階段をトントントンと上がって南の8畳間に入り、電気を点けました。部屋の隅に机があり、真ん中に炬燵台があって、窓の手摺り越しに外に乗り出してみると、1階の居間から漏れる明かりが坪庭の木立を黒く浮かび上がらせています。黒い庇に仕切られた夜空を仰ぐと星がまたたき、薄雲がかすかに動いていましたから、上空は風が激しく吹いているに違いありません。この小さな空間は昔のままにひっそりと静かなのにも関わらず、一昨年までと同じはずの夜空が、居場所を変えただけでこうも違って心に映るものかと、それが真希には驚きでした。
変わったのは居場所だけではない、と真希は思い返すのでした。わたしの全てが変わってしまった。課長がマンションの世話をしてくれたのも、もちろん、単なる親切心じゃない。信行の就職を斡旋しようと申し出てくれたけれど、それを受けるともう、課長の気持ちに応えざるを得なくなる。『送るよ』と今晩も課長は言ってくれたっけ。
『いえ、今日は叔母のところに寄らなくちゃならないんです』
『こんなに遅くに?』
『でも、まだ10時前ですから』
『女の子にとっては遅い時間だよ』
『わたしはもう女の子じゃありません。1人の女です』
『だから送りたいんだ』
そう言って手を伸ばした課長に白い細い手を握らせても、真希はそれから先を全身で固く拒否したのでした。
『分かったよ』と課長は引き下がったものです。『そこがきみの魅力なんだから、いよいよおれはぞっこんだ。一体きみはおれにどうしてもらいたいんだ?』
一体わたしは何を望んでいるのかしら?.幸福な結婚?.でも、相手は誰?.わたしの体に視線を投げかける男は多いけれど、わたしの心を覗こうとする人はいない。それに恋をするには夢中になれるタイプでないとダメ。わたしのように常に気持ちが一歩退いていたんじゃ、燃えようがないもの。太陽のように明るく周囲を照らして、他の星をみんな隠すほどでなくちゃいけないのに、わたしはいつも夜空の星に惹かれている…。
襖を開けて、
「矢野くん」とそっとささやくと、
北向きの窓辺の机に着いていた矢野くんが振り向きました。
「大学合格、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ちょっといい?」
迷う表情を見せたあと頷いた矢野くんの部屋の中に真希はすべり込み、畳の上に形のよい腰を下ろしてスラリと白い両脚を揃えて投げ出し、周りを見回して、
「懐かしいな」と言うのでした。「ほら、押入の襖のあちこちに花形の色紙が当ててあるやろ。あれはうちの小さい頃からの楽しみでな。花柄模様を増やしたくてわざと襖を破ったこともあるし」
真希の指さす方向を彼女と共に向いた矢野くんは、どう答えていいか分からず、黙ったままです。
「今、何してはったん?」
「本を読んでいました」
「何を?」
矢野くんが中腰になって机の上の文庫本を取って真希の前に差し出すと、それはゲーテの『若きウェルテルの悩み』でした。
「面白い?」
「これ、あなたが薦めてくれた本ですよ」と矢野くんはポッと顔を赤らめて語るのでした。
「そうだったっけ?」と真希が瞳の大きな、鼻筋の通った、陶磁器のような光沢をした顔を不思議そうに向けると、矢野くんは眩しげに身を引きました。
「四つ角の本屋でたまたま会った時、恋愛小説の元祖だって、教えてくれたじゃありませんか。浪人生活が終わったら読もうと、ボク、あれからずっと決めてたんです」
「思い出した!」と真希は思わず手を叩きましたが、すぐまたヒソヒソ声になりました。「下の叔母ちゃん、昔気質の人間だから、気づかれないようにせなあかん」
「上がってきてもよかったんですか?」と矢野くんもヒソヒソ声になると、途端に2人の間に親密な空気が流れ始めました。
「うちは構わん。今日は隣で寝るさかい、よろしゅう」
矢野くんがギョッとしてまた身を引くと、
「襖だから鍵を掛けられへんけど、矢野くん、妙な妄想を起こさんといてな」と真希はイタズラっぽく微笑みました。
そしてたちまち部屋に充満した重苦しい空気を振り払うように真希が立ち上がり、ガラッと窓を開けると、ちょうど家の前から真っ直ぐ北に延びている路地の向こうに大通りが窺え、サッと見え隠れする車のライトが光るたびにその騒音が押し寄せるのでした。矢野くんのさらに近くにまた腰を下ろした真希が、
「これでお酒の匂い、しなくなったやろ?」とささやくと、
「初めからしてませんよ」と矢野くんは答えました。「香水の匂いしかしてません」
「それは鼻が悪いやんか」と、矢野くんの顔の前で真希はピンクの紅を引いた唇を丸め、フッと息を吐き出しました。「分かった?」
「はい」と矢野くんはいささか緊張した面持ちで頷きました。
「人間はもっと現実に敏感にならなあかん。現実いうんは、何よりも相手の気持ちや。もっとも今の矢野くんは夢で胸がいっぱいやろから、なかなか相手が見えんわな。夢はいったん覚めた後でもう一度見る時が本物なんだと、聞いた事ある?」
「いえ、ありません」
「有名な言葉やで」
「誰の言葉ですか?」
フフフと笑った後、
「わたし」とまた唇を突き出して、真希はイタズラっぽく教えるのでした。「矢野くんはこれから大きな夢を見はるわ。だけど、わたしはこれから大きな現実にぶつからんとあかんのや」
「どういうことですか?」と矢野くんが身を乗り出して来て、2人の目と目がすぐ傍で妖しく燃えるのでした。
「矢野くん」
「何ですか?」
「うちをどう思う?」
「どう思う、とは?」
「年上のおばちゃんだと思うてへん?」
「まさか!.真希さんはとても美人です」
「美人だけどおばちゃんやと思うてるでしょう」
「違います」
「5つ年上やで。若い頃の5つの年の差は大きいわ」
「そんなことありません」
「証明できる?」
「…」
「ただし、静かにやで。叔母ちゃんが下で今きっと聞き耳を立てて、箒を手に身構えてるはずや。2階でイタズラをすると、箒の先でトントンと天井を突くのが、昔からの叔母ちゃんの癖やった。そういう現実の中で夢を貪ることができたら、矢野くんも大人になった証拠やわ」