リクライニングシートの男
一郎が目を開けると、妻の聡子が彼の顔を覗き込んでいました。
「どうしたんだ、こんなところまで?」と言う自分の声のか細さに一郎は驚き、「ここはどこだ?」と顔を上げました。
「飛行機の中よ」と聡子の声は涙ぐんでいます。「何にも覚えていないの?」
そう言われても、一郎の脳裏には何にも蘇って来ません。長期に渡る下腹部の鈍痛がようやく思い起こされ、右手を腹に伸ばしかけると、
「ああ、ダメ!」と聡子は切ない声を上げて彼の手を払いのけ、力なく振り払われたその手を今度はしっかりと握りしめました。「ごめんなさいね。でもまだおなかの傷が完全には縫い合わされていないから、無防備に触っちゃダメなの」
おなかの傷?.そうか、おれは盲腸が破裂したんだった、と一郎は思い至り、ロンドン王立病院のベッドに載せられ手術室に運ばれていく一郎に付き添った聡子の蒼白した顔面が想起されました。
「手術は成功したのか?」
「当たり前じゃないの」と、一郎の手を両手で何度もさすりながら、聡子は無理やり笑顔を繕うのでした。「イギリスで一番権威のある病院なのよ。有能な日本の商社マンを殺しちゃ、日英関係にヒビが入るわ」
「そうありたいね」と次第に記憶の糸がほぐれていくのを覚えつつ、一郎はイギリス人に対して込み上げてくる嫌悪感を抑え切れませんでした。「いくら文明人の顔をしていても、所詮、海賊の子孫さ。世界中からかっぱらってきた金銀財宝を利用して紳士ぶるんだから、チャンチャラ可笑しいや」
手術は成功したと宣言されましたけれど、右脇腹の縫い糸は抜かれることがありませんでした。指の腹でソッと撫でると、合成樹脂の繊維が皮膚と皮膚を縫い合わせているのがはっきり分かります。体内に残る膿が化膿して腹膜炎を起こす危険性もあり、再手術を提案されましたけれど、
「No !」と一郎は拒絶しました。「I want to go back !」
「飛行機で帰らなくちゃならないのよ」と聡子は不安げでした。「十数時間の空の旅に今のあなたの体力で耐えられる?」
「ここで死ぬよりましさ」
「わたしは初めてだけど、素敵な街だと思う」と聡子は言いました。「みんな自分の生活を大切にして互いに優しく、人生をエンジョイしてるみたい」
「野蛮人だ!」と一郎は吐き捨てるように断言したものです。
「そんこと、ない気がするけどな…」
一郎は確信した者の頑固さで、
「手術3日後にはもうこんなに厚いビフテキを食わすんだぜ」とベッドの脇にワゴンで運ばれて来ていた夕食の品々を顎で指し示すのでした。「みんな平気で食ってるけど、おれはそんな野蛮人じゃないや」
それでも絶食するわけにも行かず、厚切りのまずいビフテキを4分の1ほど口に付け、野菜をかじり、後は新鮮な水が何よりの御馳走なのでした。ガランと広い病室の壁に添って幾つもベットが並び、高い天井から吊るされた照明が白い光を静かに降りそそいでいます。その天井まで達している、蔦模様の鉄枠のある長方形の窓にどんより低く灰色の雲が垂れ込み、枯れ葉の落ちつくした黒い枝々が絡み合っているのでした。
しかし今、小さな丸窓の外は高度10000メートルの地球と宇宙との狭間を轟音に包まれたジェット機が太陽を追って東の方角に飛行しつづけているのです。エメラルドグリーンの地中海を越えると赤茶けたサハラ砂漠が広がり、ナイル川に沿って緑豊かな野が蛇行しつつカイロをめざす光景を目にすると、一郎の胸に山と森と雨に恵まれた日本の自然が鮮やかに夢想されるのでした。石油の宝庫の中近東もまた、見渡す限り砂漠が広がる、火星のような荒涼たる光景です。
「見ろよ」と一郎は窓の外を指さしました。「石油がいっぱいある国だ」
「サウジあたりかしら?」
「そう。ここで暮らしたいか」
「エアコンでもなくちゃ、とても夏は過ごせないでしょうね」
「一年中夏だもの」と一郎は思わず大きな声で笑い、下腹部を襲った鈍痛に顔を歪めました。
「あなた、大丈夫?」と慌てた聡子がまた覗き込むと、
「病人をそんなに笑わすもんじゃない」と一郎は穏やかな微笑を浮かべました。「おれもまだ利用価値があるはずだろ?.違うか?」
「どうしてそんな皮肉を言うの?」と聡子はまた涙声になりました。「タカユキがこれから受験を控えているのよ。私1人じゃどうにもならないでしょ」
「子供がおれたちのカスガイだよな」と一郎は自嘲するのでした。「おれが世界中を飛び回っている間、きみはねぐらを暖かくしてくれる相手を常に求めてきた。朝を告げるきみの鳴き声で男はスゴスゴと寝床を飛び立ち、餌をくわえたおれが帰ってくるという寸法さ」
「お願い、もうそんな嫌味を言わないで」と聡子は一郎の横たわるリクライニングシートに顔を伏せ泣き出すのでした。「寂しさを紛らわしたかっただけなの。決してあなたを裏切るつもりはなかったのよ」
「そりゃそうだ」と一郎は自らを抑え切れませんでした。「最終的に資本主義が勝利したのも、人は損得勘定で動く動物だからだろうさ」
すぐ目の前で肩を震わせている聡子を冷ややかな目で眺めていた一郎は、やがて優しくその背をさすりつつ、
「ごめん」と謝るのでした。「病気なのか薬のせいか分からないけど、今日のおれはどうかしてるんだ。おれにきみを責める資格はない。一夜妻を侍らせてきみに復讐した気でいたのも、結局、一夜の快楽を求めていただけなのかも知れないしね」
「やっぱりわたしも一緒に行くべきだったのよ」
「いや、きみの判断が正しかったさ。タカユキをおれたちの人生の犠牲にはできない。あいつがおれと一緒に世界中をうろつき回ったんじゃ、それこそ無国籍の根無し人になっちまってたよ」
黙って一郎の手をさすりつつ再び安堵感が蘇っている総子を「売女!」と心の中で罵る自らのエゴイズムに、一郎自身、ウンザリするのでした。そもそも愛があって結婚した相手じゃない。おれにとって適当な家柄の女で、その容貌や学歴から察して子供に苦労させられることはなかろうと、おれなりの打算が働いた結果じゃないか。聡子には聡子の打算があったとしても、そして打算を大きく上回った心の空虚を埋めようと男から男へと渡り歩いたとしても、それをおれは批判できるか?
「ねえ、ここはロイヤル・クラスなのよ」ともう猫撫で声を取り戻した聡子が言うのでした。「いくら食事制限があるからと言っても、素うどんだけじゃ余りに勿体ないでしょう?」
「きみが食べればいいさ」
「2人分はムリよ」
「どうせ運賃は会社が支払ってくれる。せいぜい無駄に使おうじゃないか。おれは世界一高い素うどんを食べただけで十分だ」
「会社はほんとによくしてくれたわね。わたし、今回、しみじみとそれを感じた」
「ふん!.仕事中に死なれたときの補償に比べりゃ微々たるものさ」と一郎は鼻で笑い、雲海の広がっている丸窓に顔を近づけるのでした。「シートをもっと立ててくれないか。まもなくエベレストが見えるはずだ」
「ほんと?」とノブを回してシートを立てた総子も一郎と共に窓に顔を寄せて見下ろすと、激しく震えるジュラルミンの主翼の彼方で白く静かに波打つ雲の上に、ヒマラヤの峰々が鮮やかに聳えているのでした。
「あそこが地球の屋根だ」
「今わたしたちはさらにその上を飛行しているのね」
「やり過ぎの気もするけどな」
「でも、こんな景色を見る感動を昔の人は知らなかったのかと思うと、わたしたちは幸運よね」
「おかげでおれは地球の裏側の野蛮国まで出かけて、その手術台に載せられたわけだ」
「そして無事に帰国しているわけでしょ」
「無事に?」と一郎は苦笑しました。「こんな体になってか?.たかが盲腸で、おれは生涯、爆弾を抱え込む羽目になったんだぜ」
「大丈夫よ」と聡子は優しく請け合いました。「日本に帰れば再発しないし、たとえ再発しても、きっと治せるわ」
会社を辞めない限り、また外国暮らしを始めなけりゃならないんだ、と一郎は心の中でつぶやくのでした。成田には会社が救急車を寄越しているだろう。都内の専属契約の病院に直行して、おれの体の隅々を検査し異常なしという結論を得て、そのあと再発してもそれは自己管理の問題であって会社に責任はないと通告するにちがいない…。
「聡子」と金属質の丸天井を見つめながら半ば独り言のように一郎はつぶやくのでした。
「何?」
「タカユキが大学を卒業したら、会社を辞めてもいいか?」
ちょっと表情のこわばった聡子はすぐに笑顔を取り戻し、
「また急にどうしてそんなことを言い出すのよ?」と無邪気さを装うのでした。「そんな先の話、病気が回復した後でゆっくりと相談しましょ。今はあなたが無事に日本に帰って、元の体に戻ることが先決よ」
「あと4年だ。そんなに先の話じゃないさ」
「でも、その時あなたはまだ50才よ。それから先の人生をどうするつもり?」
「さあ…」と窓の外に目をやると、太陽を追って東に飛行していたジェット機は北に向きを変え、見る見る日の光が薄らいでいく紺碧の太平洋上に黄昏の色が何か遠い誘いに似てざわめいています。銀河と星の露呈している夜空を隠して大きな弧を描いた海面にやがて島影が浮かび上がり、中央の峰々ばかりまだ夕日に赤く明るみ、その南端のひときわ赤く染まり白銀の雪を頂いているのが富士山にちがいありません。
そして、暗い海と山に囲まれ夜の底に無数の光が宝石のようにきらめく首都圏を眼下に認めると、
「おれの人生はあんなに輝く必要はないのさ」と一郎はつぶやくのでした。「朝になると起きればいいように、夜は眠ればいいんだよ。おれはずっと起きっ放しだったから、これからしばらく眠りたいんだ」
「あなた、まだ疲れているのね」と聡子はまた不安げに一郎の手を握りしめました。「もうすぐ着くから、頑張って」
「頑張って…か」と一郎は溜め息のような言葉を吐くのでした。「おれはもう休みたい。シートを倒してくれないか。全く夢を見ない眠りがどういうものか、やっと分かった気がするんだ」
不安げな手でノブを回してリクライニングシートを倒して見守っている聡子の目の前で、たちまち一郎は死んだ者のように深い眠りに入り込んでいきました。
「あなた!」とギョッとした聡子が叫びました。「空港まであと少しだから、安心して。もうすぐ到着するから、ほんのちょっとの辛抱なのよ」