魅せられて
 
 向かいに大きな島のあるO市は、潮の流れが穏やかな古くから開けた港町です。海に臨んだ斜面に家々が建て込み、神社仏閣も多く、公園になっている山頂からの眺望は実に絶景でした。海岸線に沿って続くわずかばかりの平地に商店街が連なり、他の地方都市のようにその周辺に大きな駐車場を伴なった大店舗が進出できるスペースがないだけに、今でもアーケードの下に多くの店が軒を並べているのです。それは観光に訪れた人々の郷愁を誘う光景でしたけれど、どの店も経営が苦しく、大きな負債を背負うことがないから続けているというのが実状でしょう。たとえ全国の景気が回復しても、O市は取り残されていくだろうと、街の人々自身、もっぱら悲観的でした。そもそも新幹線が開通した30年前、停車駅を隣のF市に奪われた時点で、そういう運命に陥ったのだと街の識者は評するのでした。15年後に地域出身の国政議員に働きかけて新幹線駅の開設に漕ぎつけましたけれど、15年間の後れは取り戻しようがありません。大企業が進出したF市が、その威光のもとに地域の中核都市として躍進しつづけていく一方、O市は後退しつづけ、やがて高度成長期が終わって自然との共生が叫ばれる時代となり、O市の観光資源に改めて注目が集まった結果、確かに新幹線の駅は出来たのですけれど、如何せん山ひとつ越えた盆地にあるのです。風光明媚な海岸線に到着するまで、日本中どこにでも見受けられる道路や田畑や白っぽい住宅ばかり見ながらバスやタクシーに揺られていくのは、相当なハンディキャップに違いありません。
 陸地の傾斜面を埋めている瓦屋根のリズミカルな模様、島の蜜柑畑や造船所の赤いクレーンの数々、20年前に街はずれの山の中腹から島に向かって架かった大きな吊り橋の青い胴体と白亜の支柱やケーブルとの鮮やかなコントラスト等々、新旧の名所が揃ったと喜ばれたのも束の間のことでした。本州と四国を結ぶ巨大な橋が他の地に次々と架けられると、それまで巨大なものに人の目に映っていたO大橋はそれらのミニアチュアにしか見えなくなり、近年ようやく他の橋も架かってO市からも島伝いに四国まで繋がりましたけれど、市にもたらされた経済効果は微々たるものでした。
 「景観のいい街だけど、それだけでは繁栄できないということだろうね」と狭い坂道を上りながら達夫は語りました。「昔からあるものにただ単に頼っていてはダメなんだ。それにいかに付加価値を付けて人々にアピールしていくかを常に工夫していかなくちゃ、すぐに取り残されてしまう」
 「待って」と意外に小さな加奈子の呼び声に驚いて振り返ると、彼女は折れかかった坂道の角に現われたところでした。「タッちゃん、もう少しゆっくり歩いてよ」
 「ごめん、ごめん」と立ち止まって待つ達夫のもとまで、明るい日の光を避けるようにうつむき加減に白い肩の露わな、体の線のくっきりと分かる水玉模様のワンピースを着た加奈子が上って来て、白魚のようにヒヤリと細い手で達夫の手首を握ると、
 「わたしは登山の経験はないんだから、ゆっくりと歩いてといつも言ってるのに!」と拗ねるのでした。
 「ごめん、ごめん」と達夫は加奈子の手を握り返し、引き寄せた細い腰に腕を回してその白いうなじに唇を寄せましたけれど、
 「今はイヤ」と加奈子は顔を反らせました。
 「誰も見てないよ」
 「あの家の窓から誰か見てるわ」
 「えっ?」と驚いた達夫が加奈子の指さす方向を振り返り、黒いトタン笠の付いた板塀の上に伸びている、形良く剪定された松の木を透かして古い大きな家を仰いでも、2階の窓は閉じられたままです。
 「誰もいないんじゃないのか?」
 「フフフ」とイタズラっぽく笑って達夫の腕をスルリとすり抜け坂道を上った加奈子は、
 「ウソに決まってるじゃん」と今度は大きな声で笑いした。「タッちゃんには何度も同じウソが効くから、楽しいな」
 フッと苦笑した達夫の目に坂道の脇に掘られた排水溝が映り、排水管の1つから小さなネズミがキョロキョロと顔を出しているのが窺えました。
 「ねえ」と、なぜかそれを加奈子に語るのがためらわれた達夫は、いささか哀願する口調になるのでした。「どうしてそんなに急に冷たくなったんだい?」
 明るく柔らかかった加奈子の表情が俄かに硬くなると、陶器のように白い肌をした切れ長な眼差しの美人だけに、その冷たさは達夫の胸をグッと突き刺します。あれは雪女だ、心地よい夢をむさぼる代わりに命を盗られないように気を付けろよ、と達夫に忠告してくれた友人もいたのでした。
 「もう決めてくれたの?」と加奈子が問いました。
 「覚悟は出来てる」
 「覚悟?」と加奈子はまた鮮やかな声で笑うのでした。「まるで戦地に赴く兵士みたいじゃん」
 「似たような心境だよ」と達夫は苦笑しました。「今の自分をいったん否定しなくちゃならないんだから、死ぬようなものさ」
 「大げさね。お父さんはもちろん、反対よね?」
 「そりゃそうさ」
 「一人息子を盗るわけだから、わたしは疫病神に思われてるんじゃないの?」
 「図星だよ」と達夫は笑いました。「宗教教育をした覚えはないのに、どうして急に宗教がかったのか分からないと愚痴ってる。カナちゃんの魅力に一時的に参って出家までして、それで一生を棒に振っていいのか、しかも親を取り残して行くことになるんだぞ、と脅かされたり泣かれたり、大変だ」
 「わたしの寺は出家主義じゃないのよ」
 「ホント?」
 「仏に仕える身になるだけ。だから結婚もするし、寺に入れば分かることだけど、剃髪しているお坊さんがむしろ少数派なんだから」
 「そうか!」と無邪気な喜びの表情を見せて達夫は自らの髪の毛を撫でるのでした。「これを剃らなくてもいいのか。何だかちょっとホッとした。もっとも、どこか気勢を削がれた気もするけどね」
 「もちろん、丸坊主にしても、わたしは構わない」と加奈子はイタズラっぽく笑いました。「タッちゃんの坊主顔、結構かわいいと思うもの」
 「いや、遠慮しとくさ」
 「仕事、いつ止めるの?」
 「それは10年後でよくないか?」と達夫はゆっくりと言葉を選びながら言いました。「カナちゃんのお父さんもまだお元気だし、10年先のことだからと親父やお袋を説き伏せているんだ。今すぐ会社を辞めて養子になって寺に入りますと宣言したら、それこそ2人とも卒倒しちゃう」
 加奈子の表情が再びこわばり、その心が瞬時に100キロ先まで遠退いたのが、達夫には痛切に分かりました。
 「おれは約束を守る男だよ。10年と言ったってすぐじゃないか。子供を作ってその子が小学校に上がる頃になれば、教育に専念するためにもどこか1カ所に落ち着かなきゃならないから、それがたとえ寺であっても、おれは構わない。その頃、カナちゃんのお父さんも70半ばだろ。仕事を譲るのにちょうどいい年頃じゃないのか?」
 背中の大きく開いたワンピースの裾を風に翻しながら加奈子は黙って独り坂道を上がっていき、山に慣れているはずの達夫の方が、かえってセメントで固められた砂利石の出っ張りに蹴つまずくのでした。
 坂の傾斜がさらに高まり道幅も狭くなって、家並みが絶え、振り返ると、空を遮って伸びている松林の間にO水道の青い波頭が臨まれ、白い水脈を残して船が往き来しています。さすがに歩き疲れた加奈子は斜面に無造作に転がされた、風雨にさらされ丸まった岩の1つに腰を下ろすと、脇に立ち尽くしている達夫に目もくれず、形良く膨らんだ胸を大きく上下させて呼吸を整えるのでした。
 「おれは覚悟してるんだよ」と達夫が再び『覚悟』を口にすると、
 「覚悟しなきゃならないような恋なら、わたし、要らない!」と加奈子は遠い海をジッと見つめたまま、切れ長の目からポロポロと大粒の涙をこぼしました。「大きい姉ちゃんも小さい姉ちゃんも寺を継がないと子供の頃から言ってたから、わたししかいないと小さい頃から決めてたの。それを理解してくれる人がきっと現われると信じて今まで生きて来て、やっとタッちゃんに巡り逢えて、やっぱりわたしはまちがっていなかったと喜んでいたのに、まちがいだったのね!」
 「どうして?」と達夫はオロオロする他ありません。「10年後には寺も継ぐし、養子にもなるんだぜ。カナちゃんのお父さんもそれで結構ですって承知してくれてるじゃないか」
 「わたしはイヤ!」
 「どうして?」
 「イヤイヤ生きていくのはイヤでしょ?」と加奈子は赤く腫れた目で達夫を振り仰ぐのでした。「上手に計算された人生には、上手に計算された死に方しか残らないのよ。でも、そんな死に方ってある?.望み通りの死に方ができる人って、殆どいないんだから。だからせめて生きてる間は、望み通りに生きたいの。タッちゃんにもそういう風にわたしといつまでもラブラブの関係でいてほしいのよ」
 加奈子の心情は達夫の胸にも熱く届きましたけれど、今ひとつ具体的なイメージが結び付きません。
 「じゃあ、カナちゃんはどうしてほしいの?」
 「すぐに結婚しましょ」
 「もちろんさ」
 「そして一緒に仏教学院に行きましょ」
 「すぐに?」
 「うん」
 「今の仕事は?」
 「仕事は辞めて2年間学院で一緒に仏教の勉強をして、寺に帰って、父を手伝ってほしいの。タッちゃん、寺は会社と違うのよ。5年10年かけて門徒の人と親しんで行かなきゃならないの。父が退いた翌日からタッちゃんが引き継げるようなものじゃないのよ」
 ポンポンポンと蒸気を吐きつつ海を行く船が、ポーッと乾いた汽笛の音を天に響かせました。かすかに騒ぐ木々の葉に添って風の跡を追う達夫の胸に、その先の茂みに潜んでいるかも知れない、黒い隈のある目をしたイタチの姿がなぜか夢想されます。いつの間にか寄り添っていた加奈子の白い肩から胸元にかけてのふくよかな肌の香りがキュッと彼の視覚を刺激し、慌てて振り仰いだ空はあくまで青く晴れわたり、二重三重に交錯した緑の松葉越しに白雲を吹き飛ばしつつどこまでも広がっています。
 「カナちゃんの言うとおりだ」と達夫は自らに言い聞かせる風でした。「先延ばしにしておいて、どこかで身を翻すチャンスを窺っていたのかも知れない。それじゃあ結局、カナちゃんを騙すことになる」
 加奈子は華奢な肩を縮めるようにうつむいたままでした。
 「よし、分かった!」と達夫はぐいと加奈子を抱き寄せ、「おれ、明日、会社に退社届けを出すよ」と言い終わらないうちに、熱い息のまとわった薄紅色の唇が達夫の唇に吸い付き、苔生して柔らかい岩間の地面に折り重なって倒れ込んだ2人の頭上にチチチッとメジロが飛び出して、ピンクに燃えるツツジの花々の中に尾を振りながら逃げ込んでいきました。