川は流れる
 
 K川の東沿いの通りをバスに乗って川上に上っていくのも、黒田氏にとって20年ぶりのことでした。石垣を組んで護岸され、シャベルカーで毎年丁寧に地ならしされる流れの速い浅瀬が小躍りしながら川底の丸い小石を透かしつつ、キラキラと波間に散る日の光をきらめかせています。その川土手は格好の散策コースで、まだ葉を付けていない柳の枝が風に揺れ、眩しい朝の光を浴びた陽炎のような人影が往来しています。夏の夜ともなると、川上の山々から吹き下ろす涼風を浴びに来たアベックたちが川岸に長く黒い列をなす光景は、今も見受けられることでしょう。
 ちょうど対岸が繁華街の入口辺りに差しかかり、川原を上がったところにあった、学生時代に通った居酒屋がまだあるかどうか、黒田氏が身を乗り出し幾ら目を凝らしても、確認できません。街は確かに高層ビルが増え、明らかに変貌しつつもあったのです。
 どこまでも渋滞が続くためにノロノロ運転を余儀なくされたバスは、K川に架かった幾つもの橋の前を通過し、2つの川が合流して1つになる三角地帯に茂った神社の森を前にして右折し、大学の時計台が木立の上に聳えている四つ角に到着しました。
 その近くにあるイタリア会館を指し示して、
 「フランス会館やドイツ会館もこの近くにあるはずだ」と黒田氏は氏に続いてバスから降りてきた娘の遼子に教えました。「だけどイギリス会館は記憶にないなあ。きっとどこかにあるはずだから、下宿生活が落ち着いたら自分で探してごらん」
 「うん」と見知らぬ街の日の光に眩しげに目を細めたままの遼子は答えました。「分かった」
 四つ角の向かいの通りは大学の石垣に囲まれ自由奔放な立て看板が昔ながらに並んでいます。今日は入学手続きの日でしたから、新入生はもちろんのこと、その親たちや、下宿の斡旋やクラブ紹介の学生たちで雑踏し、空高く伸び広がり大きく風に揺れている楠の木立の向こうにY山が低く連なり、その上にH山の峰々が折り重なって、それぞれの緑が映えています。
 「もう下宿はお決まりですか?」と不意に隣に寄ってきた学生に、
 「まず入学手続きをすませないと」と黒田氏は答え、無理やり渡されたパンフレットを手にY神社の参道にもなっている、若者の往き来と話し声に満ちた通りを娘と共に歩いて、朱の鳥居の前でキャンパスに入り、目前の大空にヌッと突き出している赤褐色の時計台を仰ぎながらその横を巡って法経学部の堅牢な(ある人に言わせれば監獄のような)建物の後ろにある文学部の建物に向かいましたけれど、旧館はなく、その北半分に新たに7階建ての建物が建ち、南半分は高い柵が巡らされて工事中でした。
 その7階建ての建物の1階フロアに新入生らしき若者たちが集まっていたので、娘も加わって入学手続きをすませる間、黒田氏が新館の中庭を覗いてみると、かつての新館は旧館と称したいほどに老朽化していました。その玄関先にテーブルが運び出され教授が立たされてうなだれ、ヘルメットを被った学生たちが取り囲みメガホンを持って激しい批判(あるいは罵倒)を浴びせていたことが、まるでウソのような秘やかな日の光が木立を洩れ、茶枯れた芝生にも白いベンチにも静かに降りそそいでいるのです。
 小柄で目の大きな可愛い女子学生が、いわば無法者のような連中と同じヘルメットを被ってやはり大声で「日本帝国による植民地支配を断固阻止する!」などと叫ぶ光景は、当時の黒田氏にとってまことに不可解でした。まだ成熟しているとも思えない女の子がメガホンを手に胸を張って堂々と大学批判できる自信は一体どこから来るのか、氏には見当も付かなかったのです。
 『ブルジョアジーの退廃した生活に慣れ切った人間には分からないのよ』と、コタツ台の前であぐらを掻いてタバコをふかしながら和美は断言しました。『あなたはそんな自分に疑問を感じたことさえないんじゃないの?』
 『あるさ』と氏は軽くいなしました。『ただ、学生ってキャンパスに保護された中で革命々々と唱えているわけだろ。それって単なる甘えじゃないか?』
 キッと大きな瞳で見すえた和美が、
 『わたしたちは真剣よ!』と激高しました。『侮辱することは許さないから』
 『おれには箱庭で遊んでいる子供にしか見えないけどね。だって、いくら日本帝国主義打倒とか資本主義断固反対とか叫んだところで、4回生になると、長い髪を切って七三に分けて油で固め、大手の会社を回って就職して、出世コースをめざすわけだから』
 『そういう人もいるからと言って、同志全体をバカにすることは許さない』
 『それが大半だろ』
 『数の問題じゃないのよ』
 『じゃあ、キミはどうなんだ?』
 『そんな失礼な質問をわたしに向ける権利があなたにあるの?』と言いながら、和美はタバコの先に延びている灰をせわしげに指で叩いて灰皿に落としました。
 『あるさ』と氏は答えました。『だってキミがいるから、わざわざこの大学まで来たんだぜ。1年経って会ってみると、キミは高校時代とまったく違っていた。まるでキツネにつままれたみたいな気分だよ』
 『人は変わるものよ』と応えた和美の口調はどこか、高校時代の優しさが感じられました。
 ベッドの端に腰かけていた氏が改めて和美の部屋を見回すと、机の脇の小さな書棚の一角を占めた文庫本の中に太宰治の小説が何冊も並んでいます。『ヴィヨンの妻』のような生き方が理想なのだとかつて語っていた和美の気持ちは今も変わらないのだろうかと氏は心の中でいぶかり、その書棚の下の段にカミュの『反抗的人間』を見つけて、カミュはキミらのような無政府主義者じゃないと注意を促すと、カミュはわたしたちとは関係ない、友達がくれたから飾っているだけだ、と和美は言いました。
 『本当に変わったのか、変わったつもりになっているだけなのか、自分では分からないものさ』と氏は語りました。『ちょうど川の水は流れているのか流されているのか分からないようなものだ』
 『わたしたちは大きな流れに逆らっているのよ』
 『しかし大学という確かな流れの中に身を置いて幾ら大学批判を口にしても、世の中の人は納得しない』
 『わたしたちの目標は大学そのものの解体なのよ』
 『何のために?』
 『権威の象徴だからじゃないの!』と和美は憎々しげに氏を見上げました。『あなただって、結局、大卒という肩書きが欲しくてわたしの後を追いかけてきたわけでしょ?』
 『そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない』と氏は独り言のようにつぶやきました。『それは今後、一生をかけて検証する他ないことなんだ』
 和美はフンと鼻を鳴らすだけでした。
 『もし大学が解体したとして、それで本当に権威がなくなるわけ?.方向性のない破壊は単に無秩序をもたらすだけだろ?.キミらの組織にすでにその兆しがないか?.内なる理想に裏打ちされていないいかなる試みも、結局、現実の厚い壁にぶち当たって砕けるだけだとオレは思うな。敗北の美学というロマンチックな幻想は、日本人に喜ばれるところだけど…。つまりさ、キミらのヒロイックな自己陶酔は、キミらがまさに典型的な日本人であることの証しじゃないのか?』
 『とにかく放っておいてくれない!』と和美は苛立ちました。『あなたには関係ないんだから』
 『そうかも知れない』と立ち上がった氏は、高校時代は長かった黒髪を短く切って赤く染めている和美の華奢な肩を見下ろしながら、
 『もう来ないよ』と言いました。
 ドアを開けると、秋の夜空は深く冷たく小さな星々を湛えて澄み渡っています。そして、鉄の階段をカンカンカンと靴音を立てて降りていた時、バタンとドアが開き、暗い闇の中に飛び出した和美が確かに子供のような眼差しを向けているのを背中に感じつつも、氏は2度と振り返ることはありませんでした。
 「パパ!」と呼ぶ声にハッと夢想を破られた氏が顔を上げると、そこには娘の遼子が立っていました。
 「何だ、もう終わったのか?」
 「待ち合わせた場所にいないから、遼子、心配しちゃった」と遼子はふくれっ面をして訴えました。
 「ごめん、ごめん」と氏は笑顔でごまかす他ありません。「思い出に耽っていて、つい時間が経つのを忘れてたんだ」
 「そんなに学生時代が懐かしい?」
 「うん」と氏は素直に答えました。「これからはリョウちゃんの時代だな。パパにはパパの時代があったはずなのに、試行錯誤ばかりで結局不毛のままに終わった気がする。だから、リョウちゃんには後悔のない学生生活を送ってもらいたいな」
 「寂しいこと言わないで」と遼子はまだあどけなさのいっぱい残る顔を曇らせました。「パパにそんなこと言われると、わたし、下宿する気がなくなっちゃう」
 「もちろん、冗談さ!」と黒田氏は陽気さを装って白いベンチから立ち上がりました。「入学手続きが終わったのなら、これから下宿を探しに行こう。パパがいいところを知っているんだ」
 「うん!」と遼子が頷き、2人は新たな若者たちの往き来の激しい、早春のキャンパスを後にするのでした。