静かな生活
 
 目覚めると、境内に出て朝の空気と道行く車の騒音に包まれた街の広がりを見渡してから、法蔵寺さんは東の空に昇った太陽に向かってナムアミダブツと称え、もちろん、山門の前で本堂に向かって合掌し、ナムアミダブツと称えるのでした。斜めに黄色く射し込んでくる日の光は霜の粒子をキラキラと輝かせているようで、低い塀に沿って横に枝を延ばした松の緑も、白砂を縁取る苔の緑も、冷たく光っているのです。小柄な法蔵寺さんは草履の裏からジワッと伝わる冬の地面の寒さを覚えつつ、まっすぐ平地までつづく急な石段を、真ん中に新しく取り付けた鉄の手摺りを頼りに降りていきました。
 石段の下には山号と寺号を刻んだ、風化して彫りの和らいだ石碑が建ち、駐車場が広がっています。向かいの美容院の奥さんがドアを開けて新聞受けの新聞を手にし、
 「おはようございます」と頭を下げ、
 「おはようございます」と法蔵寺さんも挨拶しました。「まだ寒いですなあ」
 「ほんとですね。今年はけっこう寒うございました」
 「寒暖の差が激しかったですね」
 「本当にそうでございました」
 「風邪が流行っているらしいから、お気を付けください」
 「和尚さんもお気を付けください」
 「ありがとうございます」
 「失礼します」
 頭を下げて美容院の奥さんと別れると、今度は車の登る急勾配の車道を歩いて境内に帰り、庫裏に入って新聞を広げて目を通しながら、パンとミルクとサラダの朝食を取ってしばらくしてから、法蔵寺さんは本堂の濡れ縁を雑巾掛けしなければなりません。近年建てられた本堂はたいてい堂内を大きく囲って濡れ縁は回廊部分だけですが、300年間維持されてきた法蔵寺の本堂は正面の縁が広く、従って拭くのも手間でした。毎朝拭くわけではなく、行事がある時、参拝者の予定がある時に限っていましたけれど、今日は月々の法話会の日です。2〜30人集まることもあれば、2〜3人の月もあり、いずれにせよ、当分拭いていない縁は目線を下げて調べてみると、うっすら白く埃を被っています。どうしたって拭かないわけにはいきません。風呂の蛇口から出る温水をバケツに盛って30分ほどかけてほんのりと湯気の立つ雑巾で縁側を拭くのは、いざ始めると快い作業なのです。確かに掃除には心を磨く効用があると、法蔵寺さんも認めていました。もっとも、だからといって毎日やる気は起きませんでしたけれど…。
 内陣正面の阿弥陀如来の前に饅頭と果物を供え、外陣に下がって、照明器具に照らされ光っているさまざまな仏具の金色と、饅頭や果物や花などの白・赤・緑とのバランスを確かめ、ちょっと焚いてみた、奮発して買った沈香の香の心地よさに満足げに独り頷くと、法蔵寺さんは合掌し、ナムアミダブツと称えました。
 午前中の冷え込みは日の光が溢れると共に見る見る暖まり、街の北西に流れ込んでいる大きな川の面を渡った寒風が、白い天守閣のある城跡の周りに林立したビルの上を通って吹き付けることもなく、春の予感の露わな午後でしたけれど、2時からの法話会に集まったのはたった4人でした。いずれも70才前後の婦人で、2人は椅子に腰かけ、他の2人もガラス障子にもたれかかって、法蔵寺さんが本堂に入って来ると、
 「失礼いたします」と頭を下げ、
 「よくお参りくださいました」と法蔵寺さんも頭を下げて、正面に坐り、合掌・念仏・礼拝をして、まず正信偈をみんなで唱えるのです。多くの経典と違って、正信偈は親鸞聖人の作ですし、節回しもけっこう複雑で、初めての人は字面を追うのも大変でしたが、慣れてくると一種独特の音楽に酔い痴れるような感覚にも襲われ、殊に終段でナムアミダブツ、ナムアミダブツと繰り返すあたり、法蔵寺さんはしばしば忘我の境地に陥ったものです。
 それから高名な仏教学者の法話をテープで30分ほど聞いて、茶菓が配られ、ストーブの周りでの談話となりました。
 「神棚を祭ることをひどく嫌われる人がおられるんですが、ご院さんはどうお考えですか?」と、常にノートを持参して法話の最中、気付きをメモする藤川の本家の奥さんが問うのです。
 信行寺さんのことだな、と法蔵寺さんは直感しました。というのも、藤川さんは信行寺の法話会にも熱心に出かけていましたし、盆参りで信行寺の近くの門徒を訪れた時、『信行寺さんは神さんをひどく嫌ってじゃ。氏子の会費を払ってくれんし、祭りの注連縄も張らしてもらえん』と聞かされていたからです。
 『わたしも氏子にはなってませんよ』とその時、法蔵寺さんは笑いながら答えたものです。『もっとも、注連縄まで拒否してはいませんがね。ところで、信行寺さんの門徒の家には神棚がないんですか?』
 『ありますらあ!』と、法蔵寺さんの門徒は当然だと言わんばかりの表情です。
 『ははあ…』と腕組みをして、法蔵寺さんは仏壇のある座敷の鴨居の上に祭られた神棚を仰いだものです。ご神体の納められた小さな白木の社の横に小ぶりの俵が2つあり、2人の孫の名札が刺されていて、7年に1度巡ってくる7才までの子供の成長祈願の祭りが、今年行われたとのことです。その縁起を知る人はいないけれど、かつて途絶えたことはなく、地域の集会所で午前中に神主さんが来てお払いがなされ、午後には酒や食事の接待と共に神楽が舞われるというのです。
 そんなことを思い出しながら、
 「真宗の教えは阿弥陀仏一仏への帰依です」と法蔵寺さんは言いました。「ただし、それがいわゆる神道の拒否に繋がるのかどうか、微妙なところでしょうね。秋祭りは信仰というより風俗・習慣の類いでしょう。神さんを信じるから神輿を担ぐのだという人は余りいないでしょうから。
 ただ、親鸞聖人も鬼神に仕えずと言っておられますから、たとえば何かのご利益を期待して神社に参拝するというのは、真宗の信心に反しているでしょうね」
 「ですが、ご院さん」と、藤川の本家の隣に坐っていた分家の奥さんが言いました。「みんなご利益を期待してるんですよ。ご利益があると何となく思うから、みんなお参りするんです。ないなら、誰も行きませんよ」
 「だから寺に来てもらえないんかなあ」と法蔵寺さんが笑い、みんなもつられて笑いました。「別に寺に来ると病気が治るわけじゃないから。病気を治すためには病院に行ってくださいと人にも言いますし、わたし自身、そうしますものね」
 「病院へ行っても治らないから、神さんを頼るんです」と分家の奥さんがまた解説してくれました。
 その気持ちは法蔵寺さんにも理解できました。生まれて半年ほど経った次女に突如、食欲がなくなり、チューブを喉に挿し込んでミルクを注入しましたが、その大半を吐き出し、このままだと栄養不足で助からないし、助かったとしても寝たきりの植物人間にしかならない、と総合病院の医師に宣告された時、病院と通りを隔てて向かいにあった喫茶店の窓際の席に着いて、涙ながらの妻と善後策を練りながら、窓の外で白く眩しく輝いている堅牢な病院の上の、沈黙のまま青く広がっている空の彼方の何かにすがり付きたい気分に襲われたことが、法蔵寺さんの胸に強く想起されたのです。もっとも、総合病院から大学病院に移った途端、次女は食欲を取り戻し、今ではこましゃくれた口を利く中学生に成長していましたが…。
 「この世に対する執着がご利益を求める心に繋がるんでしょうね」と法蔵寺さんはしみじみと述懐しました。「また、それが生きている証しであってみれば、全く捨て去るのはムリでしょう。そうした一般人に最もふさわしい信仰の在り方を、浄土真宗は教えているとも言えますけどね」
 「わたしの母は信心深い人で、子供の時よく一緒にお寺に連れて行ってくれたんですよ」と分家の奥さんが言いました。「お寺に参る子はいい子に育つと口癖のように言ってましたけど、今ではありがたかったと思います。この年になると、寺に来ると何かホッとして、そんなに死ぬのが恐い感じがしませんもの。でも、実際に死の宣告を受けたら、どう感じるか知れませんけれど」
 「なかなか平静ではいられないものよ」と本家の奥さんが言い、去年の暮れ、主人が77才で亡くなる時、あれほどの篤信家だったにもかかわらず、とても心細い表情をして自分の手を求めてきたのが忘れられない、と打ち明けてくれました。
 それが本当でしょうね、と法蔵寺さんは頷きました。親鸞聖人自身、早く極楽に行きたいとはちっとも思わないと、正直に告白されていますしね。
 椅子に坐った2人の婦人も深い皺の寄った顔を寄せ合って大きく頷き、赤い西陽が深く本堂の中にまで射し込んできているのに改めて気づいた4人は、本当に暖かい日だったと喜び合いました。そして調子の悪い膝を庇うようにノロノロと本堂の階段を下り、山門をくぐって石段の中央に続く鉄の手摺りに1歩降りるたびにもたれかかって息を継ぎ、法蔵寺の境内と同じ丘の西側に聳えたミッション・スクールがすでに青い影を落としている狭い通りに下りていきました。