ストーカー物語
 
 大学病院の夜でした。巨大な病棟が深い闇に向かって沈み込むように幾つも聳えています。黒い静けさは所々光る窓の明るさにかえって強められ、ジャンパーのポケットに両手を突っ込み背中を丸めて砂利を踏むカオルをさらに孤独にさせるのです。南の通りにまだ開いていたうどん屋でカオルが先ほど食べた狐うどんの温かさはとっくに去り、ハッハッと吐き出す息がかすかに白く目の前で凝るかのようでした。
 桐の葉が落ち尽くして黒い枝が四方に広がっている、フェンスの奥の何かの廃屋を利用したクラブハウスで、芽衣子は今、明るく可愛くチャーミングな友達と(そこには男友達も混じっていましたが!)、ギターを奏でているのです。ギター&マンドリン・クラブの冬の定期演奏会が年明けにあり、大半の学生が帰省した年末もまだ、夜の9時〜10時に至るまで練習は終わりそうにありません。
 確かに星が銀河を流れていると思えるほどに宇宙が身近に感じられ、雲か星雲か、仄かな色彩を帯びて見える頃、バタンとドアが開き、どやどやと出て来た若人たちの交わす別れの言葉の懐かしさに、カオルの五感はたちまち研ぎ澄まされました。「今夜こそ!」との思いがまた熱く胸を塞ぎ、病院構内の生垣に隠れ隠れ、白い外灯に照らされ明るく弾んだ声を夜の静寂に散らしつつ帰っていく芽衣子たち3人の後を追ったのです。深夜もまだ車の往き来の絶えない大通りに出、にこにこ顔で手を振って友達と別れた芽衣子は、途端に引き締まった表情に戻り、コートに入り込んだ長い黒髪を首を振って払い出し、北にある下宿に向かって独り、小柄ながら速い足取りでスタスタと歩きます。
 ずっと大学の石垣が続く道は車の往来はあっても人通りは滅多になく、広い交差点を渡って、シャッターを下ろした小さな商店の並ぶ界隈の信号灯のある四つ角を、芽衣子は暗い狭い住宅街の道に折れ込みました。スタスタスタと夜の路面をすべるように進む芽衣子の足取りに、スタスタスタとやっと歩幅を合わせたカオルは、スタスタスタとしばらく2人の歩む同じ道行きを心の隅で楽しみ、
 「こんにちは」と1歩歩みを速めて、芽衣子を覗き込みました。見上げた芽衣子のアッと驚いた顔が可愛く、大きな黒い瞳がそのままカオルの心に飛び込んだのでした。
 「これ、上げるよ」とラブレターを渡したカオルはすぐにヒラリと踵を返し、冷たく暗い夜の空気が張りつめた農場の見渡せる大学構内に走り込みました。そこは、真っ直ぐ1本延びている道の上の何ひとつ遮るもののない夜空に熱く深く、先ほどと同じ銀河にたゆたう星たちが光りを落としているのです。正門近くの冬枯れしたプラタナスの並木道の路面に水銀灯の静かな光が降り注ぎ、研究棟の白い壁に囲まれてまだ実験の終わらない学生たちは自分の世界と無縁なのだと、カオルはその時、誇らかに感じたものでした。
 年が明け、夜の通りで待ち伏せていたカオルが、
 「こんにちは」と挨拶すると、
 芽衣子はちょっと頭を下げてその傍を通り過ぎようとし、カオルは素速くその横に並んで、
 「遅いねえ」と言いました。「いつまでやるの?」
 芽衣子は黙って歩きつづけます。
 「演奏会は2月だったよね?」
 ちょっと頷いた芽衣子を覗き込むように、
 「おれが聴きに行ってもいいのかな?」とカオルが確かめると、芽衣子はまた小さく頷きました。
 「その日に行けば入れるんだろ?」
 「当日券がありますから」と答えた芽衣子の声は意外に低く、夜の街にもよく響くほどハスキーでした。「前売り券もありますけど」
 「前売り券を貰える?」
 「本当ですか?」と芽衣子はまだあどけない、ポッチャリとした頬いっぱいに喜びを表わしました。
 「ああ」とカオルの声も高くなりました。「友達と行くから、4枚欲しいな」
 「助かります!.ノルマがあるんです」
 後で振り返れば、その夜のたった1回の会話が、2人が最も近付いた瞬間だったのです。ギター&マンドリン・クラブの定期演奏会が無事終了した市民会館の2階フロアで、奥の準備室からいつもの2人の友達とギターを収めたバッグを肩に現われた芽衣子と、ソファに坐って3人の友達と談笑していたカオルとがすれ違った時、不意に振り返った芽衣子は黒い大きな目でじっとカオルを見据えるのでした。
 どうして挨拶しなかったのだ?.と友達に咎められても、どうしてだかカオルにも分かりません。なぜなんだ?.とカオルは自問自答し、彼女、驚いていたぜ、と友達に駄目押しされても、彼は足元のフロアに艶やかに映っているシャンデリアの影に見入るばかりです。
 それから夜、クラブから帰る芽衣子と道で待ち合わせても、芽衣子は押し黙って歩き、下宿に曲がる路地で頭を下げてさっさと別れるのです。後に取り残されたカオルの心にはポッカリと穴が開き、桜並木の花が散りつつ夜の路面を波打つように流れてゆき、花びらの淡い白さが切なく心に映るばかりです。
 それでも2日経ち3日経つと、やっぱりカオルは夜の道に出て行きました。下宿の坂を下り、たいていの店は閉じ、喫茶店のコカコーラの看板だけがまだ明るい、静かな学生街の路地を歩いて病院構内まで出かけていくのです。冬見た桐の木々に新たに若葉が萌え出しているクラブボックスから、しかし芽衣子たちは男友達と連れ立って現われて、大通りの交差点で女友達と別れてからも、芽衣子の横には1人の男が残るのでした。
 おれにもチャンスをくれたっていいじゃないか!.とカオルは怒りました。他の男は他のチャンスが幾らでもあるんだから、夜の帰り道くらいおれに残してくれたってよかろうに!.ニセアカシアの木々が夜空を隠すほど道いっぱいに茂った道を2人の後を追うと、淡い外灯を浴びて緑深い木の葉から白い豊かな花房が無数にこぼれます。そして、2人が別れた直後、芽衣子が下宿に入る前にカオルが「こんにちは!」と切なく訴えても、その鼻先でバタンと戸が閉められたのでした。
 まるで野良犬のようだと自虐しながらも、まだ菜園の残る芽衣子の下宿の周りを、夜になるとカオルはウロウロしました。芽衣子のいる2階の窓明かりを仰ぎながらロマンチックな夢想に耽るつもりでやって来たある日の夕方、玄関先に出て来た芽衣子の前に1人の男が立っているではありませんか!.しかも、今まで見たことのない男が!.素足にサンダルを突っ掛け、頭の上に束ねた黒髪に赤い飾りの付いたかんざしを挿して胸のふくらみの目立つ袖無しのカジュアル・ウェアにミニスカート姿の芽衣子は、今までにない、ざっくばらんな姉御風情です。
 「おっ!」という風に相好を崩した男は多分まだ学生でしょうが、まるでサラリーマンのように白いワイシャツに折り目正しいズボン、革靴といった服装で、寄り添って手振りを交えて語りかける芽衣子との、静かな住宅街の夕刻のデートを独り楽しんでいます。2人は北に向かって歩いて行って、やがて街の東の山沿いを貫いている、ケヤキ並木に涼しい風の吹く大通りを南に引き返し、クラクションを鳴らしながら車が激しく往き来する交差点を渡って、夜の路面に色とりどりの明かりが漏れる商店街に赤い暖簾を垂らした中華飯店に入りました。
 道向かいのパチンコ店の前の電柱の陰で、パチンコ玉がジャラジャラとこぼれ出る音やBGMの軍艦マーチを明るい照明ともども背中に浴びながら、2時間余り、カオルは立ち尽くしていたのです。2人が再び暖簾を払って表に現われた頃、歩道を行く人は少なく、2人とカオルを隔てた広い車道を次から次へと車ばかりが変わりなく疾走していました。
 芽衣子の下宿の方角に帰ろうとした男の腕を引っ張って芽衣子が遠回りしようと誘い、男はもちろん体を反らして喜び、従います。たいていの家に生垣があり、庭には手入れの行き届いた樹木の茂る静かで瀟洒な住宅街です。ひっそりと人通りの絶えた道が深い宵闇に紛れかけて外灯にほのかに照らされ、暗い夜の気配を感じつつも、電柱伝いに後を追うカオルの目には、背が高くて不自然に尻を振る男の後ろ姿と、ミニスカートの裾を振り降りしきりに語りかける芽衣子の小柄な姿とが寄り添って鮮明に映ります。
 芽衣子はカオルが勝手に夢想したような、控えめで髪が長く、神秘的な瞳をした、小麦色の肌の女の子ではなかったのです。男にハッキリと自己主張できる、当たり前の現代っ子だったのです。だから、広壮な邸宅の築地塀の上に広がっている楠の夜の緑陰で2人の影が急接近し、爪先立った芽衣子の伸ばす両腕を男が抱き上げて熱い抱擁を交わしても、カオルは驚きませんでした。
 しばらくしてまた2人は歩き出し、突如立ち止まった男が振り向いて電柱にひそんだカオルを指さして芽衣子にささやき、芽衣子が驚いて振り返っても、カオルはうつむいて、路面に延びた電柱の淡い影が半ば隠しているキラキラと光る銀紙にじっと見入っていたのです。拾い上げると、それはチューインガムの包み紙で、指で押さえて分かる噛み込んだガムの柔らかさにカオルは涙し、桜の花が散り、通りに延びたその枝が夜空の星を隠したり透かしたりして風もないのに静かに揺れている庭の中に、その紙切れを思い切り投げ捨てました。
 それから実に多くの男たちと芽衣子は付き合い出したのです。喫茶店の青い窓際のテーブルに着いた芽衣子は、ジュースのストローをもてあそびながら話に夢中になり、コーヒーを飲む拍子に上目遣いになった向かいの席の男が、外灯の連なる表通りのプラタナスの葉陰にたたずむカオルに気づき、むしろそちらに気を奪われていたこともありました。
 カオルが夜の歩道を芽衣子を求めて歩いていて、ハッと気づくとすれ違った男の後ろに赤いベレー帽の芽衣子が連れ添い、ひどく潤んだ大きな瞳でじっとカオルを窺っていたこともありました。
 また、別の男と例によって夕刻、一緒に下宿を出て食事して、ヒマラヤ杉が太く高い幹を夜空に伸ばしている小さな公園のベンチに二人して腰かけ、男が腰に腕を回しかけるたびに芽衣子はバンと強くハンドバッグを叩いてにらみ上げ、やむなく男は彼女の肩に手を戻して、プラトニックな逢引きを強いられたこともありました。
 ある夜遅く、男を送り出した芽衣子の下宿に我を忘れたカオルが躍り込んで、淡黄色の照明に照らされ新鮮な木材の香りのする廊下に立ってドアをノックして、
 「こんにちは」と見当外れの言葉をかけたこともあります。
 「帰ってください」とドアの向こうの芽衣子は押し殺した声で答えました。「大声を出しますよ」
 「もうダメなのか?」
 不意にドアが開き、「誰か来て!」と芽衣子が周囲に向かって叫ぶや否や、次々と廊下のドアが開き出し、「分かった、分かった」と強い電気に触れて吹っ飛ぶように、カオルは夜の道に逃げ出しました。
 それでもまだ、カオルはストーカーまがいの行為を止められず、友人たちも溜め息交じりにあきらめ、犯罪行為に及ぶなよ、と忠告したものです。そんなことで新聞沙汰になったらお笑いぐさだものな。それでなくても十分、高橋はスキャンダラスなんだから。
 ただカオルに影響されたのか、いくら男を変えても芽衣子もまた、その1人に自らを委ね切れなかったのも確かです。それが分かっていながら、カオルもまた、1歩退いて待てませんでした。1歩踏み出してストーカーに限りなく近付き、その1歩がまた、芽衣子のプライドを妙な形でくすぐり、あるいは傷つけたのです。
 大学を卒業して九州に帰った芽衣子を追って1年後、福岡郊外にある彼女の実家を訪ねたカオルは、予告なく昼間、玄関のブザーを押しました。
 「はい!」とドアホンの奥から声がして、廊下を小走りに走る足音がし、ドアを開けてヌッと顔を出したのは、トンボメガネをかけた妹でした。かつて大学見物に来ていたその妹を、カオルは目撃していたのです。
 「お姉さんはいます?」
 「いえ、いません」
 「いつ頃帰りますか?」
 不審そうに顔を傾けた妹は、
 「結婚して今は東京です」と言いました。「あなたはいったい誰ですか?」