法名は不要か?
 
 総代の1人、大沢さんは豪放磊落の人で、座が興ずると、しばしば切断した自らの右脚の話に及ぶのでした。
 「本山の納骨堂に出かけて、『これはわしの分身じゃから、丁重に供養してくださいや』と頼んだら、受付の者が妙な顔をして、『読経はいかがされますか?』と聞きよった。『本人と言ってもほんの一部じゃから、1万円程度のをお願いします』とわしは申し出たで。自分のための読経を聞くのは、何とも奇妙な体験よのう。まるであの世から眺めとるような心境じゃった」
 しかし、酒好きが災いしたためか、胃をすべて切り落とし、それから半年後の法事の席で、「少々の酒はかまわん」とビールを飲むので、法蔵寺さんは驚きました。病気を酒で治していると常日頃豪語していたその性格は、大手術をし体重が半減してつやつやとした丸顔が渋柿のように細くなっても、変わりようがなかったのです。
 大沢さんが胃を切った翌年、同じ総代の栗本さんもまた胃を切り取り、奥さんは医師から五分五分だと告げられましたけれど、何とか日常生活に復帰できました。
 本家の谷岡さんは繊維会社が斜陽の一途を辿っていましたが、町の有力者であることに変わりありません。多くの土地をいろんな企業に貸して高い賃貸料を取ることでも有名でした。「谷岡産業は不動産屋になってしもうた」と陰口を叩かれても、「それも1つの経営じゃろう」と恬淡と受け流していましたが、社長職を息子に譲って以来、その立ち居振る舞いにめっきり老いの影が濃くなりました。
 80過ぎの分家の谷岡さんが6人の総代の中で今や一番の年輩にもかかわらず、前述した70代の3人よりはるかに元気です。また寺に一番関心が深く、学校の事務長を長年勤めただけに金銭面に細かく、法蔵寺さんは苦手でした。しかし、総代長の大本さんが亡くなって若い息子さんが新たに加わり、もう1人の岩崎さんはまだ働き盛りの60代の医師であることなど考慮すると、次の総代長は分家の谷岡さんにせざるを得ません。
 まあ、仕方なかろう、と法蔵寺さんは半ばあきらめていました。10数年前、前々総代長が亡くなった時、いやがる大本さんに無理やり頼み込んで総代長になってもらい、本当はなりたかった分家の谷岡さんの着任を阻止していたのですから。
 それも会議の流れ次第だ、と法蔵寺さんは達観もしていました。ここ当分、寄付事の予定がないから、総代が前面に出ることはあるまい。気楽に構えよう、と考えて、2月上旬、年1回の総代会を呼びかけたのです。
 午後3時から寺で行ないたいと電話で連絡して、遅れると告げて来た本家の谷岡さんも3時過ぎには現われ、前年度の収支報告の後、いよいよ総代長の選考です。
 「そりゃあ、話し合うまでもなかろう。このメンバーからすれば、分家の谷岡さんしかおらんが」と大沢さんが断を下すと、栗本さん、岩崎さん、大本さんとも大きく頷き、分家自身、まじめな表情を装って頷き、本家も押し黙ったまま反対をしません。本家の方が年も若く、また総代会の遅刻や欠席の常習犯だったことが微妙に影響したのかも知れません。
 「よし、決まった!」と大沢さんが言い、
 「ちぇっ、総代にも定年制を設けようや」と言いながらも、分家の谷岡さんの表情は明るくゆるみ、結局、総代長は実に呆気なく決まりました。
 法蔵寺の奥さんが仕出し弁当を配って、猪口に酒を注いで回り、
 「戒名料をもう取らんと仏教界が決めたなあ」と弁当を箸でつつきながら分家の谷岡さんが言い出しました。「戒名もいい加減なものよのう。著名人の間ではもらわん人間も増えとると聞くぜ」
 「墓に刻む名前が要ろうが」と本家が言うと、
 「実名を使えばええ。その方がみんなによう分かる」と分家はそれが当然だと言わんばかりの表情です。「なにも坊さんを儲けさすことはない」
 「ありゃ商売か?」と大沢さんが大きな声で問いかけ、岩崎さんは法蔵寺さんの反応を気にするようにチラッと横目を使いましたけれど、
 「真言は葬式が幾ら、戒名が幾ら、法事が幾らと、ちゃんと請求してくれる」と分家が言うと、
 「そりゃいいことですねえ!」と岩崎さんは大賛成でした。「われわれには相場が分かりませんから」
 「ご院さんが言いにくいのなら、総代に任せればええんじゃ」
 やれやれ、と法蔵寺さんは閉口しました。この人の感覚だと、寺も会社もお金という共通項によって同じものらしい。その上、寺に関心があるから、御しがたい、と思いながらも、
 「お布施は気持ちの問題ですから」と法蔵寺さんはふっくらとした頬に穏やかな微笑を浮かべて言いました。「一律というわけには行かんでしょう」
 「そういうご院さんもいるが、そうでないのもおる」と谷岡さんは法蔵寺さんの言葉を打ち消すような太い強い調子で言いました。「要するにバラバラなんじゃなあ。それが一般門徒には一番困るんですらあ」
 「法蔵寺は法蔵寺流を通せばええが。浄土真宗法蔵寺派を作るんよう」と本家は澄ました顔をして過激な発言をしました。「そこのところはご院さんに任そうや」
 「その通り!」と、分家よりさらに大きなだみ声の大沢さんが賛成し、「寺のことに余りゴチャゴチャと口出しをせんことよ」と断言して、小さな猪口の酒をぐいとあおりました。
 「足らんじゃろうが?」と本家がからかうと、
 「いや、胃がないと、これで十分じゃ」と大沢さん。「三途の川の渡し賃が払えなんだおかげで、また舞い戻っただけじゃからのう。そんなに要らん」
 「まあ、もう1杯くらいよかろう」
 「ありがとう」
 そして、それぞれ静かに弁当に箸を付け酒を酌み交わしていた時、
 「わしは戒名は必要じゃと思いますなあや」と栗本さんが、それまでずっと考え込んでいたのでしょうか、突然ボソッと発言しました。「ご院さんはどうお考えですりゃあ?」
 「必要じゃ言うに決まっとる!」といかにも不快そうに分家が言い、
 「あんたは住職じゃなかろう」と本家がたしなめました。「住職の話を聞こうじゃないか」
 「浄土真宗では戒名と言わずに法名と言うんですけどね」とまず前置きしてから、法蔵寺さんは語りました。「他の宗派のように戒律を守ったから付けるのではなく、仏法に帰依した証しとして付けるからです。また、法名料などもともと存在しません。
 それはさておき、ちょうど2つの命の在り方が俗名と法名に呼応していると、ぼくは受け止めてますけどね。その1つはいわゆる命、現に自分が今ここに生きていることです。その命は当然、自分のものでしょうし、喜怒哀楽を繰り返して人生体験を積み重ね、恋もすれば家庭も持ち、社会的地位の向上をめざして一途に働いていくもので、親が付けてくれた名前=俗名が表わしています。
 ただ、命はそこにとどまらない。命の働きはわたしを超えて、古今東西に渡って無限の輝きを放っているんです。仏教ではそのことを不可説・不可称・不可思議と称したり、義なきを義とすと説いたり、色即是空・空即是色と唱えたり、宗派や教義によって千差万別ですけれど、それは要するところ、わたしの知らないわたし、わたしを超えたわたしとも言い得るのではないでしょうか。法名はそういうわたしのシンボルでしょう。だから死後も自分の名前を通すというのは、ぼくの目にはずいぶん自我の強い、しかしそれは所詮生きている間のものですから、従って空しい行為に映りますね。
 出家すれば当然、戒名がもらえるけれど、浄土真宗は在家仏教の立場ですから、この世での出家はあり得ない。というか、この世で出家できない、いわゆる一般の社会人が仏法に与る方法が、アミダに導かれてあの世、つまり浄土で悟りを開くことなんですよね。それは、大きな命の世界に戻ることでもあるんです。
 『名は体を表わす』と言われるように、名は大切ですよ。ナムアミダブツも1つの名に違いなく、その意味を聞き及んでより深く味わっていくことがその本質、さらに仏教の本質に至る道でしょう。法名もそのための大きな一里塚でしょうね。
 だからぼくは、法名にはできるだけ仏法を反映した名、それにできれば生前中の故人の面影が添えられた名を付けるように心がけています。
 ただし、院号および院号料はまた別の問題です。そこには寺院経営やその維持発展という別の要素が絡んできますから」
 「われわれ一般人はそこが一番知りたいところですがな!」と言って、大沢さんは豪快に笑い飛ばしました。「じゃが、もうよかろう。わしはあの世が近いから、もうこれ以上言わん。ご院さんに葬式を出してもらわんと困るからのう。若い人は傍若無人でもかまわんかも知れんが、この席にそんな人はおらんぞ」
 みんなドッと笑い、分家の谷岡さんも苦笑するばかりでもう言及しませんでした。
 数日後、法蔵寺さんが本家の谷岡さんの宅を訪れると、門前の石段から格子戸を開けて玄関に至る広い御影の敷石をわざわざ奥さんが打ち水を打ってくれていて、
 「ちょうど主人が帰って来たところです」と、上がるようにしきりに勧めるのです。
 玄関先で捺印を頼むだけのつもりだった法蔵寺さんはそうも行かなくなり、真ん中にグランドピアノが据えられている、広い1枚ガラスの窓の外に白砂の庭が見える応接室に案内されました。
 「本当はこちらに総代長になっていただきたかったのですが、諸般の事情から今回はご分家に行ってしまいました」と、まず法蔵寺さんは弁明しないわけには行きません。
 「今回はあれで良かったでしょう」と谷岡さんは『今回』という語に力を入れながらも淡々と頷きました。「分家の兄貴も寺に熱心だから、1度は総代長に据えておかんと、収まりがつかんでしょう。わしは若いから、次でいいですわ」
 次の総代長は本家しかないと感じつつ、
 「当分、大きな事業はありませんから、今回は純粋な名誉職なんです」と法蔵寺さんが言うと、谷岡さんはチラリと横目で見て微妙な笑みを洩らしたものでした。
 谷岡さんの家は間口が狭く奥行きがどこまでも深い、宿場町の名残りをとどめた造りです。そして、その裏の地続きに新宅を増築し、立派な門構えの玄関を作っていたのです。路地を隔てて隣が分家で、その奥行きは本家の半分程度でしたけれど、その横の広大な酒屋跡が更地でしたから、そこを駐車場代わりに使っていると谷岡さんは言い、法蔵寺さんにもそうしてくれと伝えていました。というのも、その元酒屋の3男と谷岡さんの娘とが結婚していたからです。
 昔、本陣のある宿場町として栄えた面影はもうどこにもありません。取り壊された旧宅の跡地がここかしこ駐車場に変貌し、昼間もめったに車の通らない旧道沿いの家々に静かな午後の光が降り注いでいるばかりです。
 栄えた時代がいいか、今がいいか、気持ち次第だな、と独りつぶやいてから、バタンとドアを閉めて車に乗り込むと、法蔵寺さんは何百年にも渡って命の営みの跡を刻みつづけている寺の方角に引き返していきました。