ナムアミダブツは呪文か?
 
 「ただ念仏するだけで救われると言ったところで、現代の人々には通じないでしょう」と法蔵寺さんは言うのです。「アミダの願いを信じろと言っても、シャカと違って、アミダは実在の人物でもないし…」
 「法蔵寺さんの意見はもっともだ」と秋山さんは言います。「だけど、あなたの立場としては不穏当じゃないの?」
 「自己満足的な発言を身内の中だけで繰り返していても、始まりませんよ」と法蔵寺さんはキッパリと言いました。「アミダを親のように語ること、あるいは実在の人物のように語ることは、所詮、時代錯誤です」
 「でも、次の一手があるの?」
 「そうですねえ…」と法蔵寺さんはふっくらとした頬に微笑の影を閃かしました。「たとえば、人に会った時『こんにちは』って言いますよね?」
 「近ごろ、言わない人間も増えたけどな」と秋山さんはその細面に似合わぬ豪快な笑い方で笑いました。「もっとも、おれもその1人だけど」
 「アメリカ人ならハロー」
 「だろな」
 「中国人ならニーハオでしょう」
 「たぶん」
 「鳥は英語でバードだし、川はリバー、水はウォーターで、太陽はサン…。数え上げ出すと切りがないけど、要するに、言葉と言葉の指示するものとは何ら必然性はありませんよね。だって日本語と英語と比べただけでも、同じものを全く違う呼び方で呼んでいるんだから」
 「ごもっともですな」
 「言葉にどれだけの重みが加わるかは、その言葉にその人がどれだけの思いを込めるかに拠るわけでしょう。たとえば、戦争を実際に体験した世代は『戦争』という言葉を聞くだけで、数多くの思い出が蘇るでしょうし、また『平和』という言葉からも強いメッセージを受け取るにちがいない」
 「そりゃそうだ」
 「山で育った人は山を見た時、海で育った人は海を見た時、他の人とは違う懐かしさが湧くはずですよね。それがまた、山や海という言葉に対する格別の感覚につながっていくわけでしょ?」
 「うん」と秋山さんは頷くのです。「言葉とは、そもそもそうした本質があるよね。単に辞書的に使われた言葉には、全然、魅力がないもの」
 「ナムアミダブツも言葉の1つには違いないですよね」と言う法蔵寺さんの切れ長の目に柔らかい光が宿るのでした。
 「それで?」と秋山さんはいささか身を乗り出す風でした。
 「そこにどれだけの意味が込められているか知れば知るほど、ナムアミダブツが信じられ、称えられるんです。つまり、称名と聴聞との往来こそ、信心の要だと思うんです。それはちょうど、言葉と意味との関係に相当するんじゃないでしょうか?」
 「君の主張は分かるけど、わざわざナムアミダブツの意味を探ろうという気にはならないんじゃないの?」と秋山さんは笑います。「誰も、そこまでナムアミダブツに関心はなかろうさ」
 「結局、第一歩は自ら踏み出す他ないんですよ」と法蔵寺さんはフッと吐息しました。「そこは強制できませんね」
 「つまりさ、そこに人の目を向けることが一番難しいわけだ」
 「そうですね」と法蔵寺さんは苦笑しながら、デザートの冷菓を掬いました。「堂々巡りして、結局、元の地点に戻ってしまいましたね」
 それからコーヒーを飲んで2人が仰いだ大きな窓には、すでに夜の帳が降りていました。個室で食事を終えた後、秋山さんと法蔵寺さんは丘の南斜面に張り出した、大きな六角形の部屋に案内され、その奥に3つ、そして段を降りて窓際に3つあるテーブル席の、窓際の1つに着いていたのです。
 「うまい店だっただろ?」と秋山さんが問い、
 「ええ」と法蔵寺さんが答えました。
 「おれの楽しみはもっぱら食事なんだ。うまい食事を食べ、うまい酒を飲みつつ、気心の知れた仲間と共に素敵な時間を過ごす。これにまさる楽しみはないさ」
 「分かりますけどね」
 「分かるけど、自分は違う?」
 「いやいや」と法蔵寺さんはふっくらとした頬に無邪気な笑みを浮かべました。「だけど、1日24時間、食べつづけるわけには行きませんよ」
 「だから、ますます1〜2時間の食事が貴重なのさ」
 「それは確かですね」
 「さっきの話に戻るけど…」と秋山さんはコーヒーカップの柄をつまんでカップを小さく回しながら言うのです。「法蔵寺さんには失礼だけど、仏教の将来は念仏にはない気がするな。これは単なる素人の臆測だけど、仏教はまず自力に立ち返る必要があるんじゃないの?.原点に戻るというか…。そこから新たな意匠をまとって再出発しない限り、現代人には受け入れられないよ」
 「でも、秋山さん」と法蔵寺さんはその柔らかい光を宿した目を上げました。「その現代人というのはどんな人々のことですか?」
 「そりゃあ、いろんな定義が可能だろうさ」
 「いずれにせよ、少なくとも自意識のある人間たちであることは確かでしょう。そこから競争意識も出まれるし、欲望の火に煽られてもいる。そして夢を抱いて人生の成功をめざすことが、社会的にも強く要請されている。科学と経済がそれを支援し、今や巨大な現代文明が構築されたわけでしょう」
 「まあね」
 「そもそも仏教は無我を追究しますから、どうしたって、その根本のところで現代と対立せざるを得ないんですよ。というか、出家仏教はどうしたって社会の外にありますよね。だから意義があると言えば、確かにそうなんだけれど、そうした生き方は大半の人間には不可能でしょう」
 「それはいつの時代でも言えることだろうけどね」
 「ただ、自我が強く肯定されている現代は、特にそうなんですよ」
 「つまり、自我の存在を前提とする浄土真宗は、今やその存在価値が増して来ていると言いたいわけだ?」と言って秋山さんはまた、その細面に似合わぬ豪快な笑いを発しました。「我田引水の気味もあるけど、法蔵寺さんの立場とすりゃあ、当然かも知れないや」
 「念仏は確かに易行なんですよ、口で称えるだけで済むんだから」と言う法蔵寺さんの口調には確信した者の強さがありました。「また、さっきも言った通り、意味を込めれば込めるほど、自分に跳ね返って来るものが確かにあるんです。たとえ一瞬であっても、そこには自分を忘れた自分がいるんです。仏と出会えた自分と言ってもいいし、あるいは仏に救い取られた自分と言ってもいい。そして、それは確かに、自分のなした業じゃないんですよね。なぜなら、その後すぐに元の自分に戻ってしまいますから。
 最近つくづくと感じることなんですけれど、よく言われるところの信心正因・称名報恩というのは、いかにもステレオタイプに過ぎるんじゃないでしょうか?.それは、信心こそ浄土に行く原因であり、念仏は浄土に導いてくれるアミダに対する感謝の念を表わしたものだ。だから、信心が定まった後も念仏を続けなければならない、という考え方です。いったん信心が定まれば、もう念仏を称える必要はないという論理に対する、巧妙と言えば巧妙な反論なんですね。蓮如上人が手紙の中で繰り返し説いているところです。
 確かに親鸞聖人の考えをまとめればそうなるのかも知れませんが、余りにマニュアル化されすぎていないか?.それは信心の理想ではあっても、現実ではないのではないか?.というのが、現在のぼくの率直な感想です」
 「専門的になって来たなあ…」と言いながらも、秋山さんは聞く姿勢を崩しませんでした。「で、信心の現実ってどういうことなの?」
 「念仏と信心を峻別して、キリキリと純粋な信心を絞り出していくやり方は、少なくても現代的じゃありませんよ。そもそも、念仏自体に強い抵抗感があるんだから!
 合掌することは、どこかで仏教に関わることでしょ?.同様に、ナムアミダブツを称えれば、それだけで浄土教、あるいは真宗に関わることになりますよね。その第一歩をできるだけ多くの人が踏み出せるように、ぼくはぼくなりに頑張る他ないと思っているんです。
 ぼくはみんなに、一瞬でもいいから自分を捨てる時間を持ってください、そこに広がっていく世界を感じてください、と言いたいですね。念仏の意味はそこにあるし、念仏が単なる呪文と違う理由も、そこにあるはずだから。なぜなら、念仏は仏教という大きな体系につながっているからです。そこには2500年間に渡って受け継がれてきた、生死を超える確かな知恵が輝いているんです。
 むろん、仏教にはいろんな宗派があるけれど、在家の者、つまり救われる者の立場に立った教えが浄土教、とりわけ浄土真宗なんですね。
 それを信じかつ語ることが、寺に生まれ寺を継いだぼくの務めでしょう。聞くことはもちろん、語ることもまた聴聞の1つでしょうから、ぼくはそういう形の聴聞を志向したい。そのためにも、読み・聞き・考えるという営みが欠かせませんけどね」
 「はあ…」と何とも形容しがたい溜め息と共に、秋山さんはその長身を深々と椅子の背もたれに沈めました。「それがあなたの生きがいであり、夢でもあるわけだ」
 「そういう表現には馴染めませんけどね」と法蔵寺さんは独りつぶやき、
 「そうねえ」と秋山さんもどこか独り言の風でした。
 2人のテーブルを映している、天井まで届く大きな窓ガラスは深い闇を湛え、窓を被う木立の影を透かして見える夜の底はネオンサインに彩られているのです。縦横に繋がっている水銀灯の列の間を車の群れが、黄色いヘッドライトや赤いテールランプを揺らめかしつつ、遠く静かに往き来しています。そして、暗くどこまでも延びている夜の街と、昼の光を失った海とが接する辺り、工場地帯の煙突の火が明滅する上方に、三千大千世界にも通ずるであろう銀河が夜の吐息のような輝きを放っているのです。
 ひととき黙って夜景を眺めていた2人でしたが、灰皿の端でタバコの火を揉み消し、
 「帰ろうか」と秋山さんが立ち上がりました。「今日はおれが奢るよ」
 「それは困ります」と法蔵寺さんがふっくらとした頬をポッと赤らめました。「ぼくの気持ちに負担が残りますから」
 「どこかいい店を見つけて、いつか奢ってくれればいいさ。奢ったり奢られたりするのもまた、食事の楽しみの1つなんだから」とテーブルの上の勘定書をサッと手にすると、秋山さんは独りレジに向かいました。