初詣で
 
 マンションの玄関にあるドアホンが鳴って、熊野神社に行かないかと粟木原良子が誘います。先生は一人で寂しいだろうから誘うのだと言われ、ボサボサの髪を洗面台の前でとりあえず整え、ブレザーを着てエレベーターで降りて「やあ!」と手を振りながら玄関に現われた秋山先生は、
 「粟木原さん、一人なのか?」と問いました。「誰か友達と一緒かと思ったよ」
 「美女が二人も来ると、先生が困るでしょう」と小柄で目の大きい、唇の赤い良子は、赤いチェック柄のコートを着ていて、ますますその派手な顔つきが目立つのでした。
 「いや、困らない」と秋山先生は笑いました。「美人は多いほどいいけど、要するにヒマつぶしにおれのところに来たんだろ。またタダでコーヒーをおごって貰おうと魂胆しても、そうは問屋が下ろさないよ」
 「まあ、失礼な!」と良子は楽しそうに赤い唇を突き出しました。「先生、もうわたしの年賀状を見た?」
 「いや、まだだ」
 「あら、ここはまだ来てないの?.遅いのね」
 「郵便受けにあったけど、見る前に粟木原さんがやって来たんだ」と秋山先生は言いながら、自動ドアを抜けて外に出ました。「自転車で来たのか?」
 「そう。どこに置いとけばいいかしら?」
 「おれが車を出すから、そのあとに入れてくれ」と言って、先生はマンションの南の駐車場にある自分の車を表通りに回し、良子はその駐車場に自転車を置いてから助手席に乗り込んで来ました。
 「今日の神社は人でいっぱいだろう」と先生は言いました。「おれは苦手だな」
 「今日行かなくちゃ意味ないわ」
 「どうして?」
 「『一年の計は元旦にあり』よ」
 「それは家でも出来ることじゃないの?」
 「家じゃ雰囲気が出ないもの」
 「まあね」と言ってJRの高架を抜けて街の真ん中を貫いている広い国道に出た秋山先生は、普段と違ってまばらに疾走する車の往来を目にしつつ西に向かい、街はずれを流れているA川に架かった橋を渡って南に延びる土手に入るとすぐに参拝の車の列で渋滞になり、川岸の空き地に設けられた臨時の駐車場に到着するまで三十分近くかかりました。車を出ると、薄い雲の棚引く大空が水を湛えて膨らんだ川面の上に広がり、中世の町の遺跡が発掘されたという川洲には冬枯れの葦が茂っています。そして、冷たく吹き行く風に淡い日の光がかすかな温かみを添えているのです。駐車場の周りは人の出入りでごった返し、派手な柄のコートを着た若い女の子や、子供連れの夫婦や、笑顔で皺くちゃの老人など、いろんな人が土手に上がってもう一つ流れている狭い川に架かった二連なりの朱色の太鼓橋を渡り、山の中腹に展望用に新たに作られた朱の鮮やかな、新年の人々で雑踏している社殿を有する熊野神社の赤い鳥居をくぐって、境内に向かって不規則に揺れる人波を作っているのです。
 「やっぱり凄い人出だな」と秋山先生が言うと、
 「だって先生、神社は三ガ日で荒稼ぎしなくちゃならないもの」と良子がませた口を利きました。「お正月が雨になったら、神社は困るでしょうね」
 「雨に左右される程度の信仰とは情けないけどね」
 「でも、先生」と赤い唇を尖らせて、良子は秋山先生を仰ぎました。「雨にも風にも負けない信仰というのは、恐くありません?.雨が降ったら傘をさし、風が強ければ家にいて静まるまで待つ方が、わたしは平和でいいと思うな」
 「若い割には老成した考え方だなあ」と秋山先生は笑いました。「何だか夢がないよ」
 「先生はまだわたしたちの学校に来て日が浅いから、分からないんです」と良子は俄かに優越感を表わすのです。「いくら先生が人生の先輩でも、わたしは小学校から聖マリア女学院に通ってるから、神の愛には詳しいんです。一言で言えば、神の愛って窮屈ですね、先生!」
 「それは要するに女学院の先生たちがしつけに厳しいってことじゃないの?」と秋山先生は依然、笑い顔でした。「生徒々々と生徒中心主義の学校が多い中で、神を中心に語る学校は、おれには新鮮だけどね」
 「だから先生にはまだ分からないんです」と良子の優越感は揺らぎません。「一つの価値観を押し付けられるのは、わたし、いやだ」
 「だけど、そんなに宗教教育をやってるとも見えないけどね」
 「先生はもう大人だから、免疫が付いてるじゃん。わたしたちはそうは行かないもの」
 そうかも知れないと思いながら先生は拝殿の前の天井から下がった大鈴を太い綱で鳴らし、賽銭を投げ込んで柏手を打ち、良子もそれに習いました。そして良子は絵馬を買って「○○大学○○学部に合格できますように!」とマジックインクで書いて絵馬掛けに掛け、おみくじを引いて今年を占うと、「中吉」と出ていました。『多くの願い事が叶えど、やや不満の残る事もあり』とあって、
 「先生、これどういう意味?」と問われても、
 「読みようで何とでも解釈できるなあ」としか秋山先生にも答えられません。「可もなく不可もなくだから、ちょうどいいんじゃないの」
 しかし、「大吉を当てたかったのに!」と良子は本当に残念そうでした。「受験生は藁にもすがりたい気持ちになるんですよ、先生!」
 「自分の努力を信じるしかないだろうけど、ま、その気持ちは分かる」
 先生と良子はコンクリートで固められた、社殿の堅牢な階段を上り、太い朱の欄干に寄りかかって多くの参拝者と共に、茶色っぽい葦が風に靡くA川の向こうに広がっているF市のビルの林立を望み、高架を走り去る新幹線の白い列車を眺めました。
 「四月になれば、粟木原さんもバリバリの大学生だな」と秋山先生に言われ、
 「目前に迫ったセンターテストのことで、頭の中がいっぱいなの」と良子はひどく素直になりました。「先生にしつこく忠告されて、推薦入試は当てにしてなかったつもりだけど、落ちた時はやっぱりショックだった。小学校からずっとエスカレーター式に高校まで来たから、落ちるショックを初めて経験して、次は失敗できないなって、とても強く感じたんです」
 「でも、もうこの段階になると、あんまり意識過剰にならない方がいいよ」と、長年指導して来た受験直前の生徒と同じ良子を目にし、秋山先生の心に大いなる余裕が生まれました。「まず健康管理が第一だ。早寝・早起きを励行して、風邪などひかないように気をつけ、テストで十分に実力を出さないとね。たかがテストだ、これで人生の全てが決まるわけじゃないと開き直る姿勢の方が望ましいけど、なかなかそうも行かないだろうしね」
 「そんなこと、分かってるんです」と良子は大きな瞳で先生を振り仰ぎました。「でも、やっぱり神経がどこか過敏になっちゃってるんです。誰だってそうでしょ?.先生だってそうだったんじゃありません?」
 「そうだった」と秋山先生は笑いました。「三十年昔を思い出したよ」
 「先生の人生にとって、本当に受験は些細なことでした?」
 「いや、大きかった!」と真摯な目で見上げている良子の訴えに染められて、先生の心はいささか透き通って来ました。「よく言われることだけど、受験と就職と結婚とが人生の方向を大きく決定付けると、おれも思う。大学に入ってそう感じたから、就職と結婚というあと二つを先送りにして来たのかも知れないな」
 「好きな人はいなかったんですか?」
 「いましたよ!」と、広々とした空と遠くざわめく街と広い空の下にどこまでも横たわっている峰々とを眺めながら、先生の心はいよいよ透き通って行きました。「粟木原さんは人に好かれて迷った経験はない?.女子校だと恋愛は難しいかも知れないけど、大学に行けばきっと恋愛の一つや二つは経験すると思う。好かれて迷うこともきっとあるだろうけど、迷うということは、ある意味で好きだということと同じなんだ。だって嫌いな人間は初めから嫌いだもの。ハッキリ嫌いだと言えるし、またそうした方が相手のためにもなる。
 ところが、迷っている人を待つだけの心のゆとりが、おれにはなかったなあ!.それはつまり、自分がなかったってことだ。だから、好きになるとベタッと相手に寄りかかることしか出来なかったんだよね。もちろん、それじゃダメだと心のどこかがささやいてたけど、それでどうなるものでもなかった。
 ただね、待つことは苦しくて、その蓄積が何かをおれに与えてくれたのは確かだね。そりゃその間、それなりに必死に本も読んだし、考えたりもして、おれなりのギリギリの努力をしたのさ。だから、相手がやっと心を開いてくれた時、『おれはおれだ!』とつい口走ってしまったんだ。そして、それで全てがジ・エンドとなってしまった。
 よく一度は失恋を通過する必要があるって言われるけど、単なる恋の繰り返し、失恋の繰り返しは何物ももたらさないだろうな。ダイヤモンドのように素敵な思い出を残してくれてありがとうなどと流行歌でよく歌われるけど、単なる思い出を積み重ねてみても、人はいずれ死ぬだけだ。
 生まれて来たからには死ぬ準備をする。一つ一つがそういう方向に向かわないことには、はかないだろ?.いずれ、夢のような人生だったと思うようになるだけさ。そうじゃなくて、夢は夢でそのまま人生なんだと確信できることが大切じゃなかろうか?
 しかし、夢って不思議な言葉だよね。若い頃は希望の象徴でありながら、年老いると今度ははかなさの象徴になるんだから!」
 「先生は暗いんですね!」と、良子はむしろ共感したような口調です。「だから結婚もしないんですか?」
 「それは時機を逸しただけさ」と秋山先生はメガネの奥の細い目を無邪気に光らせて笑います。「自分を見つけて、次には見つけた自分を捨て去る。その作業に手間取ってるうち、四十才も越えてしまったんだよ」
 「自分は見つかりました?」と良子が茶目っ気たっぷりに大きな瞳で尋ねると、
 「見つかった!」と秋山先生は大きく頷きました。
 「まだ捨ててはいないよね」
 「それは難しい」
 「先生…」と、また東京方面に疾走していく新幹線の白い列車を目で追いながら、良子が静かに語りました。「わたしは自分がある、それもかなり個性的だと小さな頃からずっと思って来たけど、ひょっとしたらそれは単なるわがままだったのかも知れませんよね。素敵な恋をして、でもその恋に溺れなかったら、きっと見えて来るものがあるだろうなって、先生の話を聞きながら思いました。そうなったら必ず報告しますから、楽しみにしててね」