蓮根畑
O市に行くか、県境を越えてK市にするか、空を仰いだ時の気分で決めていた新三郎さんは、その朝、西に向かってO市をめざし、125CCのオートバイの荷台に取り付けた1メートル四方の板の上に100キロほどの蓮根の束を山なりに括り付け、でこぼこ道にバランスを失わないように気を付けながら、F市街の西を流れるA川に架かった橋に向かいました。北の山々の麓で大きく蛇行したのち真っ直ぐ南の海に流れ込んで来る川に橋はまだ2本しかなく、川口に出来ると噂されている河口堰が早く出来ればよいと、新三郎さんは心待ちにしていました。と言うのも、O市に向かうために遠回りをする必要がなくなり、10分は時間が短縮できるからです。
10分短縮できれば10キロ分は余分に売れる、千円は儲けが多くなる、というのが新三郎さんの目算でしたけれど、もう10キロもあんたのオートバイに載せられるのか、と隣人に冷やかされ、それはやってみないことには分からない、と小柄な新三郎さんは大声で笑ったものです。載るかもしれないし、載らないかもしれない、だが今は載せてもさばき切れないから、それだけの蓮根が畑の中で腐っている。だけど、それが来年の養分になっているんだよ。来年の畑の養分より、今年の自分の口を養う方が大切だ、と新三郎さんが反論すると、違いない、と隣人は頷いたものでした。
河口の向こうに広がっている、朝日に光る青い海の気配を頬に感じつつ橋を渡った新三郎さんは、オートバイを駆りつづけ、峠を越えて、昔は入り江だったという山の合間の狭い田んぼの中を走って、秋の空にくっきりと山々が稜線を描いているY島が迫る海岸に出るのです。そして、畦囲いされた田畑と稀にある家との間を右に左に続く道を器用に、背中が隠れるほど荷台に蓮根を乗せた新三郎さんはオートバイを操縦するのです。
「おーい、1本譲ってくれや!」と畑に出ていた顔なじみが楽しそうに声をかけても、
「1本というわけには行かんなあ」と新三郎さんもまた、楽しそうに応えるのです。「荷を全部はずさにゃ取れんからな。全部要るなら、売るぞ。わざわざO市まで行かんでもええから」
「そんなには要らん。頑張って売って来いや」
「残ったらタダでやるわ」
「期待しとるで!」
「そうなったら、わしゃ寂しいで!」
海岸通りは風向きが変わるたびにプンと潮の香が顔に吹き付けて、キラキラと魚の鱗を翻すように日の光の輝く海面に浮かぶ釣り舟を目で追って、毎日釣りで過ごす生活は楽しいだろうと、新三郎さんは思うのです。漁を生活の糧にするのは大変ですけれど、魚釣りは魚が針に掛かってテグスがピンと張り、釣り竿の先がしなって海の中に沈みかけ、確かな手ごたえを感じ海面にキラリと光って跳ね返る、生命そのもののような魚を釣り上げた時の興奮を思うと、新三郎さんは思わずゴクリと生唾を呑み込みました。
よし、今度の土曜日は兄貴と夜釣りに行こうと心に決めて、鼻歌交じりに1つの島が遠退きまた1つ新たな島が海の上に現われて来る道をバタバタと排気ガスを吐き吐き行くと、突如、海に突き出たカーブの向こうから白い砂塵を巻き上げたトラックが姿を現わしました。
「ちぇっ、またか!」と思わず新三郎さんは舌打ちしたものです。「どうして最近、トラックが多いんじゃろ。こんな田舎道を走ることはなかろうに…」
オートバイを停めて荷台の蓮根のバランスを崩さないようにしっかりと2本の脚を突っ張って新三郎さんが待機していると、すぐその鼻の先まで接近して停まったトラックの運転席から真っ黒に日焼けした男が顔を出し、
「おい、あんちゃん、どけてくれねえかな」とドスの利いた声をかけるのです。
「バックできんかのう?」と新三郎さんがニコニコ顔で応じると、
「バカ野郎!」と、予期した通りに男が怒鳴りました。「見てただろうが!.こんな狭い道をこっちが下がれるわけがねえ。だいたい、てめえがでかい荷をそんなちゃちなオートバイに載せてウロチョロしてるんが迷惑なんだよ!」
予期以上の罵倒にムッとした新三郎さんでしたが、トラックと争っても勝ち目はありません。仕方なくオートバイを道端に寄せ、海に向かった斜面に半ば降りて、斜めになった100キロ余りの荷台の蓮根を両肩と両手で支え、砂煙を上げ「あんちゃん、ありがとよ」という声を残して走り去っていくトラックを見送るのでした。
そして1時間ほどかけてたどり着いたO市の市場だと、F市で1本100円の蓮根が200円にも300円にもなるのです。新三郎さんは産地直販の強みをオートバイを駆って活用していたのですが、
「それも国道が出来るまででしたなあ」と懐かしげに語るのです。「広い国道が昭和30年代にできて物の流通が加速されてから、とんとダメになりました」
「その国道というのは、この裏の道路のことですか?」
「そうですがな」
「すると、ここの道路は出来てまだ3、40年しか経ってないんですか?」
「そうです。それまでの国道は、田舎の田んぼ道と変わりゃせなんだ」
「なるほど!」と法蔵寺さんは新三郎さんの差し出す徳利の酒を受け、ぐいと飲むのです。「昔あった物がなくなると、それまでのことがまるで分からなくなるものですね」
「人でも同じことじゃが」と新三郎さんは言うのです。「兄貴が亡くなったから、これでこの家を守らにゃいけんとうるさく言う人間がいなくなった。もうここは立ち退くべきなんじゃ。補償金をたっぷりくれることじゃしな」
それは77才で亡くなった健一郎さんの四十九日法要の後の膳席でした。法蔵寺さんの隣の新三郎さんは、大きな声で昔語りをして周囲の耳目を集め、時代に即して生きて行くべきだという持論を繰り返していたのです。
「ここは国道が2つ交差してるんですぜ」と新三郎さんは言うのです。「人間が住むところじゃありませんよ。いくら先祖伝来の土地だと言っても、時代と共に環境が変わって、他の人はみんな大金を貰ってよそに引っ越して行ったのに、兄貴だけが小さな店を守ると言って聞かなんだわな」
「そのおかげで、わたしらはここで生活できてるんですけどね」と、法蔵寺さんの酌に来た、健一郎さんの養子の正巳さんが穏やかな声で言いました。
「あんたらは寝てても暮らせるが」と新三郎さんは大声で言うのです。「四つ角のモータースから月々50万が入って来るし、駐車場収入も20万あるが。わしゃ知っとるんで」
すると正巳さんは小さな声になり、
「3人の子供の学費だけでも大変ですが」と弁解するのです。「とてもそれだけじゃ足りません」
「3人とも年子で生んだあんたが悪い!」と新三郎さんが大声で断言すると、ドッと笑いが湧き、正巳さんは顔を赤らめながら、
「それはわたしだけのせいじゃありません」とつぶやいて、ますます笑いを誘いました。
いま2人の娘が大学に在学中で、しかも東京の私学に通っていて、毎月40万円かかると正巳さんは言うのです。同じアパートに住めば経済的だといくら勧めても、結局、同じ沿線の2つ違いの駅の近くに別々に暮らし、長女は専門課程に入って実験で遅くなり出したとせがむものだから、今春、中古の軽自動車まで買ってやったと言います。しかし、そんな正巳さんの打明け話も、
「子供のためにせいぜい稼ぎや」と新三郎さんに笑い飛ばされただけでした。「土地があるから、金もあろうが。わしは土地も金もない家に養子にやらされたから、いつまでも兄貴の蓮根畑で食いつないで来たもんな」
「そういえば、ここらは蓮の花が至るところで咲いてますよね」と法蔵寺さんが言いました。「あれは蓮根を栽培してたわけか」
「風流人は花を愛で、わしらは根の出来に一喜一憂するんですわ」
「仏教と蓮とは深い縁があって、仏教思想はしばしば蓮の花にたとえられるんです。つまり、世俗という泥沼があるからこそ、仏教という花が咲くんです。悟りというのも、単に孤独に人生を観想するだけじゃありません。確かにお釈迦様は孤独と瞑想の中から悟りを開かれたけれど、仏教にそこに止まるものじゃない。人々への説法を決意された時から、また新たな1歩が始まったんです。それはお釈迦様1人に止まるものでもまたなく、時と所を超えて、さまざまな形で展開されて来たんですよね。
悟ることから救うことへ、救うことからさらに救われることへとポイントが移動して、救われるとはどういうことか、つまり救われる側・在家の側に徹底的に立った思索と実践を重ねたのが浄土教ですし、とりわけ親鸞聖人でしょうね」
「と言うことは」と酒気を帯びて赤ら顔の新三郎さんが大きな声で頷きました。「親鸞さんは、蓮の花じゃなくて根を見てたわけですな?」
「そうそう!」と法蔵寺さんも大きく頷きました。「その通りです」
「わしらと同じ見方をしてたわけじゃ」
「そうですね」と法蔵寺さんは嬉しそうにふっくらとした丸顔をゆるめるのです「花も大切だけど、根も大切なんです。茎も葉も大切だし、もちろん、泥沼も空気も太陽も動物も何もかも、大切でないものなんて1つもありません。一見、関わりないようでいて、実は全てが関わり合っているんだと、仏教は説いて止まないんですよね」