心の対話
 
 キンコーン、カンコーンと放校を告げるチャペルの鐘の音を聞きながら、秋山さんは、「失礼します!」と挨拶するクラブ活動中の女生徒に軽く頭を振り振りグラウンドを横切って、金網の間をひょろりとした長身でスッと抜けて学校の裏手に広がっている墓地を縫って、法蔵寺の境内に降りました。F市の東の高台にある境内に立つと遠く南に延びている丘の向こうに製鉄所の煙が幾筋も見え、夜はその丘から暗い空に向かって赤い光が春夏秋冬、絶えることがありません。また、近年とみに建て込んで来た住宅の上を新幹線の高架が貫き、白い車体をやや傾げて『ひかり』や『のぞみ』が疾走するのです。
 ちょうどミッションスクールの校舎の陰に夕陽が隠れ、法蔵寺の境内には日暮れ特有の憂愁を帯びた藍色の空気が漂っています。その上方ばかりがまだ夕光に赤く明るんでいる枝振りのいい松を仰いでから、秋山さんがドアホンを押すと、
 「どなたですか?」と法蔵寺さんの声がしました。
 「おれだ、秋山」
 「ああ、ようこそ」
 すぐに人の出て来る気配がし、小柄な法蔵寺さんが玄関の戸を開けて、
 「ようこそ」と秋山さんを招き入れました。
 法蔵寺さんは数年前に境内の大改修を行なって、本堂の瓦を葺き替え、庫裏を会館に改造し、その後ろに新しい庫裏を建てたのです。
 「便利になったねえ!」と会館と本堂の間にある、かつて水があった空池を眺め廊下を通って庫裏の2階の座敷に案内されながら、秋山さんが言いました。「古いところと新しいところがうまく融合してるじゃないか」
 「結果論さ」と法蔵寺さん。「初めから計画して出来ることじゃない。第一、300年前の建物だろ。建物の発想自体、現代とまるで違うものね」
 「本堂があって庫裏がある。そして本堂には仏像を祭って庫裏には人が住む。その発想は変わりようがないだろうけどね」と言いながら、秋山さんが南の窓の障子戸を開けると、中2階造りの旧庫裏越しに広がっている街の南に延びた丘の間に秋の入り江が黄金色に輝き、製鉄所の高い煙突に時々ポッポッと吹き出す赤い炎も見えるのです。「2階からだとずいぶん遠くまで見えるんだなあ」
 「ぼくもこの2階が出来て初めて気が付いた」と法蔵寺さんは言いました。「50年近く住んでいても、気づかないままのことがいっぱいあるんだなって、改めて思ったよ」
 「何事であれ、気づくことはいいことだ」
 「はたしていいかどうか…。この街が工場に汚染されている光景が露わに分かるんだから」
 「それでも、知ることは大切だろう」
 「知っただけでただ手をこまねて傍観する他ないなら、知らない方がいいかも知れないけどね」
 「いや、知らないと未来永劫に変わらない。知っていれば、変わるチャンスもまたあるさ」
 「それはそうですな」と微笑しながら、法蔵寺さんは奥さんが運んで来たコーヒーを秋山さんの前に差し出しました。「まあ、どうぞ」
 「ありがとう」と秋山さんは座卓の前で長い脚を不器用に組み、コーヒーをすすりました。
 「どうですか、ミッションスクールの居心地は?」と法蔵寺さんもコーヒーをすすりながら尋ねました。
 「予想したほどの制約はなかった」と秋山さん。「むしろ、みんなノンビリしていて、それが自由の感覚につながっている。学力向上がきちんとノルマ化された予備校の方がしんどいかも知れないな」
 「よかったじゃないの」
 「それは微妙なところだ」と秋山さんはメガネの奥の細い目で笑います。「緊張感がなくなって、その日暮らしに陥る不安がある。それに雑用も多いしなあ」
 「学校は授業だけじゃないだろうね」
 「そう!」と秋山さんは大きく頷きました。「授業なんてほんの一部。校務運営とかクラブ活動とか、何より職員間の派閥とか、いろいろ面倒だ」
 「慣れられる?」
 「分からない」
 「慣れられなかったら、どうする気?」と法蔵寺さんはふっくらとした頬にまた微笑を浮かべました。
 「その時は個人塾でも開くさ」と秋山さんは気楽に構えています。「それがおれの最終的な進路になるかも知れない。時間的なズレがあるにせよ、いずれそうなる気がする」
 「永久就職の時代じゃないものね」
 「そういうこと!」
 「でも、それは秋山さんが独身だから出来ることかも知れない。女房、子供がいれば、そんなに自在には振る舞えない」
 「だから独身を通してるのさ」
 「違いない!」と法蔵寺さんは笑います。「妻帯と独身とでは雲泥の差だから」
 「しかし考えれば妙だね」と秋山さん。「仏教を奉じる法蔵寺さんが妻帯者で、社会人のおれが独身なんだから。むしろ仏教徒こそ独身を通すべきじゃないの?」
 「仏教にもいろいろあって、ぼくの宗派の場合、妻帯を否定していないんですよ」
 「そういうの、一般人には言い訳にしか響かないよ。親鸞が肉食妻帯を公然と敢行したことは有名だけど、やっぱり頭を剃って、妻を娶らない、肉は食べずに専ら精進料理をたしなむという方が分かりやすい。ある意味じゃその方が楽じゃないの?.だって、形で表わした方が単刀直入だ。信心などという精神論を振り回すと、要領を得ないし、恐くもある。ファッショにつながる危険性があるものな」
 「秋山さんの言いたいことは分からないでもないですよ」と法蔵寺さんは頷きました。「でも、それは近代社会の論理であって、そもそも、精神を論じない宗教は宗教じゃないでしょう」
 「だから、その方が楽じゃないかと言ったんですよ」
 「儀式に徹した方がいいと言いたいわけだ」
 「現に徹してる人も多いでしょう。いや、大半の坊さんがそうじゃないの?」
 「伝統仏教はそれでいいとぼくも思う」と法蔵寺さんはふっくらとした頬に微妙な笑みを浮かべました。「だけど、1人の人間として仏教を生きる時、それだけでは物足りないんですよ」
 「それはどこか別のはけ口を求めればいいんじゃないの」と言う秋山さんの口調に微塵の皮肉の影もありませんでした。「長い世紀に渡って築き上げられた習俗は1人や2人の力ではどうしようもないからなあ」
 「まあ、聞いてください」と言う法蔵寺さんの切れ長の目に真剣な光が宿りました。「ぼくたちの宗派ではナムアミダブツだけで十分だ。ナムアミダブツと称えれば救われると説きますけれど、それはなぜか?.ただ称えるだけでは、ナムアミダブツもアーメンも、アダブラカダブラもハンニャハラミータも、本質的な違いはないですよね。いずれも呪文の一種ですよ。ぼくたちは聴聞ということをやかましく言って、そこでナムアミダブツの意味を説くわけです。ナムアミダブツと称える時にその意味が、いわば体内に染み込んで行くんです。ぼくたちの知らないぼくたちというか、ぼくたちの本質というか、無意識の世界というか、そこまでナムアミダブツに徐々に染め上げられて行くんです。
 それは何も格別のことじゃなくて、どんな内容であれ、発言しているその時には発言者は自分を忘れているでしょう。言いたいことを言ってるつもりで、いつの間にか話の方向が自分の意図したところから逸れるのはしばしば経験することじゃありませんか。そうした極めて普遍的な言葉と心の在り方を利用したのが、浄土真宗の信心なんです。だから易行なんですよね。また、だから分かりにくい、かえって難しいとも言えるでしょうけどね。
 聴聞というのは、何も寺で話を聞くことばかりじゃなくて、経典を読むこと、あるいは広く人生体験そのものも含まれると、ぼくは考えています。そして自ら感じ、考え、それをナムアミダブツと称えていったん忘れて行く。というか、ナムアミダブツと称えることで本物にするんです。
 空即是色、色即是空という有名な言葉がありますけれど、一即是多、多即是一もまた、同じ思考から導き出された論理ですよね。ナムアミダブツ即聴聞、聴聞即ナムアミダブツのダイナミックな往来が真宗の信心の本質だと、ぼくは解釈しています」
 「それはまだ理屈だと言うと、法蔵寺さんは怒るかな?」と秋山さんが笑います。「もっとも、それを理屈だと断ずる資格はおれにはないけどね。それは、どこか高い地点に自分を仮に置いて人を批判するという、最も卑劣なやり方だから」
 「理屈には違いありません」と法蔵寺さんは穏やかな笑みを浮かべました。「ただ理屈と信心との絶えざる往還運動こそ、ぼくの求めるところですけどね」
 「なるほど!」と秋山さん。「ところでぼつぼつ出かけませんか?」
 「そうですな」と法蔵寺さんは窓の外に静かに降りている宵闇を仰ぎました。「車はどこに停めてるんですか?」
 「学校だ。だから帰りは丘の西の道に回ってほしいんだ」
 「分かりました」
 今晩は昔の仲間と久しぶりに集まって飲もうと言うのです。かつて、秋山さんは父親が年1回の戦友の集まりを楽しみにしていたことが理解できなかったものです。年々参加者が減る一方の集まりがなぜ楽しいのか訝しく思われたのですけれど、自ら父親と同じ世代になって初めて、同世代ゆえの共通感覚を覚えるようになりました。10代、20代には挨拶もしなかった幼な馴染みの顔に刻まれて来た細かい皺を目にし、自らもまた同じ変貌を遂げていると思う時、秋山さんは人間の運命に思いを馳せざるを得ません。生老病死は決して他人事でも絵空事でもなかったのです。
 「ほう、いい車を買ったなあ!」と、ライトを点けた車を境内に回して助手席のドアを開けた法蔵寺さんに秋山さんが言いました。「今はワゴン車が流行ってるから」
 「子供が買え、買えとうるさかったんだ」
 「やっぱり家庭は束縛の元だ」と助手席に乗り込んだ秋山さんが言うと、
 「いやいや」と法蔵寺さんが笑います。「子供にかこつけて自分の希望を通すこともできますよ」