熱いシーツにくるまれて
 
 そもそも仏教は宗教と言えるのでしょうか?.それはむしろ人生哲学とも呼ぶべき哲学だった、少なくとも釈迦の時代はそうだったのではないでしょうか。この場合、宗教とは死を語ることだという定義が想定されているわけで、そのような宗教として仏教が広く受け入れられたのは、いわゆる浄土教以降のことでしょう。
 浄土真宗を考える際、悟りはどこにあるのか、悟りを語らない仏教がはたして仏教と言えるのかという疑問が、あるいは浮かぶかも知れません。ところが、浄土教典でも親鸞聖人の著作でも、むろん、悟りについて縦横に語りつくされているのです。それが、「浄土」あるいは「極楽」と呼ばれる世界なのです。
 現世で悟ることの出来ない人間にも、死後の悟りが確約されていて、たとえ不信心の者であっても、極楽の蓮の花の中に化生して、花に包まれて長い年月を隔てて信心を抱いた時、蓮の花が開き、本当の極楽に生まれるのだという美しい比喩が、しばしば語られているのです。そのことが、きわめて露わに語られているにも関わらず分かりにくいのは、読解力の問題もさることながら、それ以上に、その信心の在り方が不意打ちのような意外性を秘めているからに違いありません。
 死後悟っても仕方がない、生きている時が大切なのだという反論が、至るところから聞こえて来そうですが、それに対して浄土真宗では、死後の悟りが確信された現在を生きる豊かさを説いているのです。それはもう自ら体験する他ない世界、それこそ宗教的体験と言う他ないところでしょう。
 死後は有るか・無いかのいずれかでしょうが、その有る・無しを自分の頭で判断しようとしても、それは結局、「理性」に基づく判断に過ぎません。つまり、「生」の側に立って「死」を見極めようという、ある意味、きわめて恣意的な観点に陥ってしまいます。
 「死」はむしろ、自ら主体的に受け入れる他はないのではないでしょうか。古風な言い回しをすれば、実存的な賭けなのです。それを理不尽だと感じるのは、今を生きている自分を大前提にしているからで、しかし古今東西、自らの誕生を自ら決定できた人は誰一人いません。つまり、生まれて来たこと自体、全く偶然の所産であったみれば、死に行くこともまた、偶然の結果なのです。いや、生という不確定的な原因が、死というこれまた不確定的な結果を招来しているのだと、仏教は説いてやみません。
 仏教の根本原理の「生老病死」、とりわけ「生」が四苦の1つに数えられているのは、それが「苦」の根本原因だからでしょう。誰も、生まれて来ない限り、苦しむことはないのですから。
 それはしかし、生まれて来ない方がよかったという意味ではありません。先ほども述べた通り、生まれる・死ぬは絶対の事実であって、受け入れるべき現実であり、理性の範疇を超えているからです。
 「そうかしら?」と悦子はベッドの中で寝返りを打って、白い背中を広志に向けました。「子供を作るか作らないか、わたしたちで決めてるじゃない。だから、生もまた人間が決めるものなのよ」
 「それは肉体を指してるわけだろ」と広志は悦子の柔らかい肩に手をかけましたが、悦子はホテルの窓を染め付けている暗い夜を見つめたままでした。「どんな子供が産まれるか、ぼくたちには決められない」
 「あなたとわたしの子供が産まれるのよ」
 「その子がどんな子供か、今から分かる?」
 「1つ1つ具体的には分からないにせよ、大きなレールは敷かれてるじゃない。黒人や白人が生まれるわけじゃないし、多分、運動能力の優れた子でもないはずよ」
 「自分たちで大きな枠をこしらえたのだから自分たちのものだというのは、不遜じゃなかろうか」
 「要するに、精神論に帰着させたいわけね」
 「いやいや」と広志はグイと悦子の肩を強く抱き寄せて、再びこちらに向かせると、悦子は白い豊かな胸を露わにし、キラキラと光る目で窺ってるのです。
 「わたしたちの楽しみの結果、子供は苦の世界の生まれて来ると言いたいわけ?.苦楽は綯い交ぜた縄の如しと言うように」
 「この世の全てがそうだろ」
 「でも、それでは子供が可哀そう」と悦子は広志の体に両腕を回しました。「わたしたちの犠牲になって生まれて来るようなものだもの」
 「だから親の義務が生じるんだ」と広志は熱く火照った悦子の体を抱くのです。「それでフィフティー・フィフティーさ」
 「結局、この世の掟を誰一人、逃れられないのよね」
 「そして最大の掟が、生まれたら必ず死ぬってことなのさ」
 「だから今が楽しければいいのよね」と悦子は柔らかい脚を絡ませて来るのです。
 「いやいや」と広志も脚を絡ませながら、少し冷めた口調を装うのです「だからこそ、楽しみの次には必ず苦しみが来るって強く意識しておくべきなんだ」
 「今のあなたにそれ、出来る?」
 「ちょっとムリだ」と広志はさらに強く体を絡ませました。
 「理屈倒れの人!」と悦子もまた、その柔らかい体に広志の体を受け入れました。「言行不一致って、世の常のことだけど」
 「昼の思想と夜の思想は違うから」と広志はまだ心のどこか、冷静な部分が残っているのです。
 確かに、ガラス窓の向こうに、昼間は日の光にその姿を消されていた暗い宇宙が露呈し、星々が無数にきらめいているのです。その沈黙の深さの前には、ホテルの小さな窓灯りなど、毛穴ほどの存在感もないに違いありません。それでもテーブルランプの淡い光に浮かび上がったベッドの熱いシーツにくるまれて、広志と悦子は子供作りに余念がありません。小さな喜びが大きな苦しみをもたらすとしても、人はそこから立ち去ることが出来ないのです。しかしそこに、「これでよし!」とつぶやくことのできる世界がいつの日か立ち現われるかも知れません。
 「世界は美しい。生命は蜜のように甘美だ」と語った釈迦の80年の生涯に、何の後悔があったことでしょう!.そんな釈迦の足跡に切り結ばれていく縁が、ナムアミダブツの称名に違いありません。ホテルの窓から射し込む朝日に目覚めた広志はきっと、ナムアミダブツと低く心にささやくことでしょう。シーツのくるまり眠る悦子の美しい横顔にもきっと、その余韻は届くことでしょう。