遠い声
南に広がる入り江には夏の陽の光が白く輝いています。葦の葉を払って裸で海に飛び込んだ栄一は、ひたすら沖へ泳いで行って、疲れると仰向いて顔だけ海面に浮かべつつ、ボーッと汽笛を鳴らして遠く行き交う船の気配に耳を澄ませています。
「栄ちゃーん!」と遠く呼ぶ声に瞳を巡らすと、葦の間で弟の鉄二が近所の松子と共に手を振っているのです。「そっちは危ないって、母さんが言ってたぞー」
「分かってるー」と手を振って、栄一は岸に向かって水中で体をひるがえし、日の光が砕けて光る水飛沫を受けながら、松子が見ているだろうと力いっぱい泳ぐのです。
岸に着いて波から立ち上がった栄一は、17歳の日焼けした黒い体を松子の前に曝すことに強い自負を覚えました。白い褌を巻いた股間が痛いほど、思わず男を感じて、
「鉄は泳がないのか?」とぶっきらぼうに弟を誘います。
「まだ母さんの手伝いが残ってるんだ」
「じゃあ、早くやれよ」
「わたしが連れて来てもらったのよ」と松子が麦わら帽子の広い鍔の陰で黒い瞳を輝かせるのです。「栄ちゃんと一緒に泳ぎたかったから」
「なんだよ、それ?」
すると麦わら帽子を放り捨てた松子は、胸のボタンを外して白い半袖シャツを脱ぎスカートも下ろして、胸元と腰回りにフリルの付いた白い水着姿になって、栄一の目の前で長い黒髪を風に靡かせながら笑うのです。
「昨日買ったばかりなの」と松子に言われても、栄一はあんぐりと口を開け、水の中に両脚を半ば浸して立ち尽くしたままです。
「栄ちゃん、何か言ってやれよ」と鉄二にそそのかされても、
「……」と栄一の気持ちは言葉になりません。
幼い頃から一緒に遊んで来た15歳の松子は、もう見た目以上に成熟した女に変身していたのです。むっちりと白い脚を水に下ろして素足に痛い粗石を避けながら、丸い尻から細腰へと静かに水中に沈めて、ザアッと豊かな胸を水面にぶつけるように飛沫を上げて海に体を預けた松子は、
「栄ちゃんも来てね」と言って、両手で巧みに水を切って沖に向かって泳いで行きました。
「おれ、母さんの水汲みの手伝いに行く」と鉄二はさっさと葦の向こうにザワザワと葉ずれの音を残して去って行き、振り返ると、松子は沖に小さく黒く頭を浮かべています。
「そっちは危ないぞー」と栄一が口に両手を当てて叫んでも、松子の頭はますます小さくなるばかりです。
「ええい!」と業を煮やした栄一は、ザブンと海に向かって飛び込んで、白い水脈を残して見る見る松子に追い付いて行きました。
「危ないじゃないか」と松子のすぐ背後に迫った栄一が改めて諫めると、
「平気だわ」と長い髪を水面でゆらゆらと揺らしつつ、青く光る波の下で白い手足をカエルのように伸び縮みさせながら、松子は言うのです。「だって栄ちゃんも来てくれたし」
「おれ、さっき泳いだばかりだぜ。疲れてるんだ」
「恐いの?」と振り向いた松子の瞳は未知の光を帯びて栄一を見つめました。「わたしと泳ぐの、恐いの?」
「どうして?」と何かを感じながらも、栄一にはまだ松子の瞳の深さが測れません。
「ずっとわたしと泳ぐの、恐いの?」
「どうして?」
しかし笑うばかりで松子は答えません。ますます沖に向かって泳いで行って、栄一はただ後を付いて行く他ありませんでした。
……
「この辺りを昔、潮土手と言ってたんです」と小さな道を自転車を押してわたくしに付いて来る鉄二さんが言うのです。かつて、その小道から住宅を含めて国道までが潮土手と呼ばれ、今は平地だけれども、当時は2、3メートルの高さで築かれ、その上に1000軒ほどの家があったといいます。
「この南はずっと入り江だったのですか?」と、わたくしは住宅の間に所々田畑の残る一帯を指しながら問いました。
「そうです。ずっと葦が広がって、その向こうに海が光っていました。夏など、みんな海に出て泳いだものですよ」
「それが今ではあれだけ入り江が狭まって、街でいちばん変化し続ける地域になったんですねえ!」
「戦後、国道が出来てからです」
ちょうど栄一さんの家が入り江に架かった大橋から延びて来た産業道路と国道との交差点に位置したために、さまざまな土地売却の勧誘がかかりましたけれど、栄一さんはガンとして聞き入れませんでした。
「ああ見えても、兄貴は頑固でしたから」と鉄二さんは言うのです。「先祖伝来の土地を手放すわけにはいかないと言って、結局、国鉄を停年退職した後、自分で酒屋を始めたんです」
「わたしは初めから酒屋さんだったとばかり思っていました」とわたくしはいささか意外の感を受けました。「ああ、それで分かった!.葬儀の時のご遺影がどこか公務員風でキリッとしたお顔だったのは、そのためですね」
「あれはまだ兄貴が勤めていた時分の写真でしょう。だから、20年以上、昔のものです」
「どうしてまたそんな古いお写真を使われたんですか?.まさかそれしかなかったわけではないでしょうに」
「お松さんがこれがいいと譲らなかったんです」と鉄二さんは笑いました。「何しろ大恋愛をして連れ添った2人でしたから」
「ほう!」
「若い頃のお松さんは背のスラリとした、それは美人でした」
そう言われても、背中が曲がって両肩が張り四角い顔に皺の寄った今の松子さんからは、わたくしはどうしても美形が連想できません。まもなく車の往来で激しく騒音の立ち上がる交差点近くの、酒屋の裏にある栄一さんの家に着き、鉄二さんから連絡を受けていた松子さんと養子さん、養子さんの娘さん、それに2、3歳の幼児に迎えられ、白い中陰壇に祭られた栄一さんの遺影とお骨のある座敷に上がりました。
わたくしが読経をすますと、何も分からない幼児は娘さんの手を放れてヨチヨチと畳を渡って中陰壇の前で立ち止まり、危なっかしい手つきでチーンと鉦を鳴らし、みんなが喜ぶとさらに壇上のお供えに手を付けかけて、あわてた娘さんが急いで抱きかかえるのです。
「曾爺ちゃんにアンアンしなさい」と松子さんに言われ、娘さんの胸の中で小さな掌を合わせる風の幼児に、また一座の者は喜びました。
「お爺ちゃんにとって初めての曾孫でしたから、本当に可愛がっていました」と、目鼻立ちの整った可愛い娘さんが言うのです。「よくおれの生まれた頃とそっくりだって言ってましたけど、生まれた頃を覚えてる人なんていないじゃありませんか。そう言うと、いや、おれは覚えている。昔の人間は何でも覚えているんだと言い張っていました。ねえ、お婆ちゃん!」
「わたしも昔の人間ですからねえ」と松子さんは皺だらけの顔に人の良さそうな表情を浮かべました。「いろんなことを覚えてますよ。いずれお爺さんのところに行って、昔はああだった、こうだったと語り合うのが、今から楽しみなんです」
「そういう再会を楽しみに出来る人は本当にいいですねえ!」とわたくしは心から感心しました。「わたしもそういう風に老いたいなあ」
「わたしらはこの世に何の未練もありません」と松子さんは笑うのです「物心が付いた頃からあの人と一緒でしたから、2年や3年、別の世界で暮らしても、ほんのちょっとした別れにしか思われません。お爺さんもあの世に行く時、『長生きしろよ。おれに会いたくなったら、いつでもやって来い』と言ってくれましたから、生きられるだけ生きて、死ぬ時にはこの世に感謝して死にたいと思っています」