谷に住む人々1
 
 秀子さんはつぶらな目をした元気のいいお婆さんでした。昔から低血圧で、朝晩寒くなって来ると、東の空を遮っている山の上に遅い陽が昇る頃、パチリと目を開け、よく通る声で、
 「和夫、和夫!」と息子さんを呼ぶのです。
 台所で食事中の息子さんがモグモグと口を動かしながら顔を出し、
 「何な、婆さん、いま飯を食っとるところじゃが」
 「もう霜が降りとるんか?」
 「まだそんなに寒うはないが。この秋は桜が咲いたところもある言うぜ」
 「わしゃ寒い」
 「年のせいじゃろう」
 「ほんまに寒いんじゃ。どうしたもんじゃろ」
 「寝とりゃええが」
 そう言われると、
 「そうも行くまい」と秀子さんは布団をはぐって、肩を落としてハアハアとしばらく体調を慣らしてから、ゆっくりと着替えるのです。そして台所に出て来て、
 「お早うさん!」と元気な声で言い、
 「お早うございます」と流しに背を向けたまま嫁が言い、
 「婆ちゃん、お早う」と高校生の孫が言い、
 息子さんは茶碗の飯を掻き込みながら軽く頷くのです。
 秀子さんにはもう1人、孫娘がいましたけれど、去年結婚し、今年になって出来た子供(つまり曾孫)の世話を頼みに毎朝、仕事の前に谷に立ち寄るのです。嫁にもまだ仕事があり、出産した孫娘が職場に復帰しようかどうか迷っていた時、
 「働きゃええが」と秀子さんが勧めたのです。「働けるところがあるんなら、若いうちは働きゃええ。子供の面倒はわたしが見てやるがな」
 「じゃけどお婆さん、もう80を越えとってんですよ」と嫁(と言っても60近いのですが)は半ば諫める口調です。「ご自分の健康と相談してやってんないと、取り返しのつかないことになりかねませんが。どうしても良子が働きたいと言うんなら、わたしがパートを辞めますよ。家でせんといけんこともたくさんありますから」
 「あんたも続けりゃええが!」と秀子さんは目をパチクリとさせて真っ直ぐ嫁を向いて大きな声で言うのです。「働けるうちは働きゃええ」
 「畑もありますよ」と嫁は新たな方向から秀子さんを説得しにかかります。「畑の面倒は誰が見るんですか。畑も子供もじゃ、そりゃお婆ちゃんの身が持ちません」
 「畑は和夫に助けてもらう」
 「ええ?」と、隣の部屋でのんびりテレビを見ていた息子さんが振り返りました。「わしゃ忙しいで。仕事と田んぼの上に畑も加わったんじゃ、それこそ身が持たん」
 「やってみてやれなんだら、それからまた考えりゃええが」
 「はあ…」と息子さんは溜め息をつき、誰ももうそれ以上、秀子さんに異を唱える気になれませんでした。
 「お婆ちゃん、ありがとう」と孫娘に涙声で言われ、
 「平気じゃがな!」と秀子さんは明るい大きな声で断言したものです。「わたしゃ100までがんばるで」
 だから、いつものように孫娘が子供を預けに来て仕事に行って、息子さんも嫁も出かける間際、トイレから出て来た秀子さんが「痛い、痛い!」と胸を押さえて廊下にしゃがみこんだ時、2人はビックリしたのです。そのただならぬ表情に、
 「こりゃいけん」と息子さんは直感し、かかりつけの医師に連絡すると、診療時間前だった医師は車で駆け付けて、布団の中で青い顔をして息絶え絶えの秀子さんの手首の脈を計り胸に聴診器を当てて、
 「こりゃいけん」と慌てました。「窪田さん、すぐ救急車を手配してください」
 「手配しろ言われても、どうすりゃええんですか」と息子さんは右往左往するばかりです。
 「そりゃそうだ」と医師は頷き、「電話はどこですか?」
 「こっちです」
 まもなく医師の連絡で救急車がやって来て、担架に乗せられて秀子さんが運び込まれ、医師と息子さんが付き添って、ピーポピーポと警報を鳴らしながら隣町の総合病院に向かったのでした。
 そして集中治療室で24時間態勢の看護を受けた秀子さんは、2、3日で快復に向かい、
 「ここのスリッパはわたしに合わん」などと語るようにもなったのです。「家のを持って来てくれんか」
 「そりゃムリじゃ」と息子さん。「ここは病院じゃから、清潔でないとなあ」
 「わたしのスリッパは清潔じゃがな。時々洗って日に干しとったんで」
 「相部屋に移ったら、先生に相談してみるわ」
 そう言われると秀子さんは黙りましたが、相部屋に移れるほど快復した時、
 「スリッパ、頼むで」と再び言い出して、息子さんを閉口させたものです。
 その息子さんが、町に戻って農協に出て職場仲間と談笑していた時、ブレザーのポケットがブルブル震え出し、携帯電話だと気づいて取って、病院から秀子さんが危篤状態だと知らされました。慌ててまた病院に引き返しましたけれど、すでに秀子さんの意識はなく、
 「最後は呆気なかったですなあ」と息子さん。「誰も最期を見とることが出来なかったんですわ」
 「直接の死因は何だったんですか?」
 「心筋梗塞ですわ」
 「そうだったんですか」と枕経に駆け付けたわたくしは、あの元気だったお婆さんがたった1週間の病苦の果てに亡くなられたと知り、人の世の無常を思わないわけには行きませんでした。寺に生きる人間にとって、それは皮膚感覚を伴なう実感なのです。
 つい数日前、寺で1000人近い参列者を集めて盛大な葬式が行われましたけれど、故人を偲んで同じ数の人々が集まることはもう二度とないことでしょう。盛者必滅、会者定離は何も源平の世だけの出来事、一部の人々だけの事態ではありません。
 それを思うと、死後かえって信奉者を増やしていく本物の宗教家、とりわけ釈迦の偉大さが改めて想起されます。哲学とは死に親しむことだとソクラテスが語っていますけれど、宗教もまた、「死」がその大きなキーワードに違いないことでしょう。芸術にもまたその側面があるはずですから、それらには、マネーによって価値観が統一された資本主義社会、すなわち自我=欲望=煩悩が肯定された社会を超えた「生きる意味」が指し示されているのだと、わたくしには思われます。
 いずれにせよ、人の「生死」はマネーゲームを超えた絶対的の事実です。古今東西、自らの生と死を自由自在に操れた人間は誰一人いません。それが「生死」の不思議であり、奇跡であり、それゆえ今を生きる感謝の念が、アミダに向かってナムアミダブツと捧げられていくのです。
 通夜の夜、飾り立てられた祭壇の中央に品のいい笑みを湛えた秀子さんの遺影が掲げられていました。集まった谷の人々と共に正信偈を読誦した後、わたくしはいつものように短い法話を試みたのでした。
 「窪田のお婆ちゃんはわたくしが知るようなったここ10数年、いつまで経っても変わることのない、お元気で、話していて実に気持ちのいいお婆ちゃんでした。90歳、100歳まで生きるのはこのような方だろうと常日頃考えていたところですから、亡くなったと昨日お聞きした時は本当に驚きました。しかし、一晩たって今日になって、改めてあのお婆ちゃんが亡くなられたのだと思うと、それはいかにもあのお婆ちゃんにふさわしい潔い最期のようにも受け止められるようになりました。
 生死はわたくしたちの手の届かない、み仏に任せる他ない人生の一大事です。今やお婆ちゃんは大きな命の源、それを仏教では仏の命とも、仏の願いとも申しますが、そのお浄土へと旅立たれました。ナムアミダブツのお念仏のみが、あの世のお婆ちゃんとわれわれとを結ぶ、たった1つの大切な絆となったのです。今は悲しみの中で称えるお念仏であっても、5年経ち10年経つうち、やがて今とは形を変えて、再びお婆ちゃんと巡り会える日が必ず到来することでしょう。そしてその時、本当の生きる喜びが見出されるでしょうし、そうした報恩感謝の日常こそ、お婆ちゃんの本当に喜んでくださる供養の道ともつながっていくことでしょう」