夢のつづき
 
 白い別荘の裏手に広がる芝生の向こうに湖が青く豊かに水を湛え、大空の果てに低く棚引いている雲の上にかすかに白く、雪を頂いた山脈が光っています。ピンと張りつめた空気はとても透明で、肺まで透き通っていくかのような爽快感を、タツオもメグミも味わっていました。サアッと風が通る度に空いっぱいに木立の木の葉が舞い上がり、秋がここ1週間、足音を立ててやって来ていたのです。もう肌寒い木陰の白いベンチに腰かけて肩を寄せ合ってキスし、
 「明後日はもう日本なのね」とメグミ。
 「いや、まだ飛行機の中だ」とタツオ。
 「まるで夢のような2週間だったね」
 「また来るさ」
 「だってタッちゃんの商社、そんなに長くお休みをくれないじゃん」
 「出世して、休みたい時に休めるようにするよ」
 「それって、いくつになった時の話?」
 「50半ばかな。うまく行けば、40後半でなる人だっている」
 「ああ、わたし、もうお婆ちゃんじゃない」とメグミは嘆息し、またタツオの肩に両腕を回してキスを求め、「専業主婦やめて、また通訳のお仕事しちゃおかな。お小遣いをためて、若いうちにまた来たいもの」
 「おいおい、もう契約違反かよ」
 「ウソよ」とベンチの上でタツオにのしかかり、二人は熱い抱擁を交わすのでした。
 空の青さを湛えて鏡のように透明な湖面には白や赤や黄色の帆を立てたヨットが群れ浮かび、白い山脈から吹きおろす北風によってサアッと広がる波紋に乗って、一斉に同じ方角に傾きます。木の葉が舞い散る木立を透かして白い別荘が幾棟も赤い屋根を見せ、あちらこちらに据えられたベンチで滞在客が安らいでいるのです。
 そんな別荘の玄関の戸をカランコロンと鳴らして開けて、
 「最後の買出しに行きたいな」とメグミ。
 「おれ、家に残ってて、いい?」
 「あら、わたしに100マイル、運転させる気?.ここは女性上位の国よ」
 「夜に備えて英気を養いたいんだ」
 「そしてわたしをグロッキーにするわけ?」
 「そうさせたいね」と言いながら、タツオはリビングルームのソファにどんと腰を下ろします。
 いったん決めたタツオの気持ちは変えられないことを知っていたメグミは、
 「行って来ます!」と陽気に言って、幌を張った赤いスポーツカーで100マイル先の街外れにあるスーパーマーケットまで、多分使い切れないだろう丸太のようなハムや、特大袋入りのスナック菓子や、数々の冷菓など、アメリカ滞在の最後の思い出を飾る食料を買い求めに行きました。……
 その夜、ベッドの中でメグミはタツオを押しのけ、ムッとしたタツオが、
 「どうしたんだ?」と聞くと、
 「疲れちゃった」とメグミ。
 「これしきでか?」
 「タッちゃんが悪いのよ!.なぜ付いて来てくれなかったの!」とメグミは背を向け、涙声です。
 「どうした?.何かあったのか?」
 「何にもない」と言いながら、メグミは泣き出しました。
 「泣いてちゃ分からない」と、もう2晩しかないアメリカの夜を思うと、タツオは舌打ちしたい気分でした。
 「だってさ、わたし一人に買い物に行かせるなんて、わたし、寂しいじゃん」
 「メグミってそんな性格?.違うだろ」
 「時と場合によるの。だってこれ、新婚旅行よ。いくら名ばかりの新婚生活とはいえ、せっかく公認された旅行の時くらい、家庭サービスに努めてもいいじゃない」
 やれやれ、もうヒステリーか、とタツオは心の中でつぶやきながら、
 「ごめん」と優しくメグミの肩を抱きました。
 「いいのよ」となお泣きながら、メグミは肩に掛かったタツオの手に自らの手を重ねます。「分かってくれたら、いいの」
 ……
 帰国してタツオは商社勤めの毎日に戻り、まもなくメグミの妊娠が分かりました。タツオの母の吉川夫人は初めての孫が心待ちでしたけれど、それにつけメグミの浮かぬ顔が気に入りません。セックスはしたいが子供は望まない、現代娘の典型的な反応に思われたからです。そもそも、実質的な夫婦生活に入ってから了承を求め、披露宴も自分たちの思い通りに行ない、都合のいい日程で新婚旅行と称してアメリカまで出かけて行った二人のやり方が一から十まで、夫人の神経を逆撫でしていたのです。
 「それが現代の恋愛だろうさ」と夫に言われると、「あなたの変な自由主義がタツオを甘やかしてしまったんです」と夫人の不満の矛先は夫に向かったものです。それゆえ、子供が出来ると二人の生活感覚も変わるだろうという、夫人なりの下心も働いていたのです。
 「子供が産まれた。男の子だ。ただ、重大な問題が生じたから、すぐ病院に来て欲しい」と言うタツオの沈痛な調子に、夫人は咄嗟に未熟児か障害児にちがいないと察知しました。そして、出産予定日に近いのだから未熟児ではあるまい、障害児だったのだろうと覚悟して、産婦人科の病院に乗り込み、分娩室に向かったのです。
 赤ん坊は五体満足に無事、出産していました。ただ、全身が真っ黒で、明らかに黒人の血が混じっているというのです。「ええ?」と夫人は訳が分からず、どういうことかとタツオに尋ねると、タツオも分からないと言います。ただ、おれの子供でないことだけは確かだ。見たの?.もちろん、見たさ。どこ?.そこだ、とタツオはぞんざいに分娩室のドアを指し示しました。
 ドアの奥からフギャーフギャーと泣く声が聞こえ、信じられないままに夫人は覗いて、困惑した表情の看護婦の胸に真っ黒い塊が赤い口をいっぱいに開けて泣いているのを目撃しました。そして、その顔がチラリとこちらを向いたと感じた途端、夫人は卒倒してしまったのです。
 興奮したメグミは何を聞いても泣くばかりです。体調を崩す心配があり、静かに部屋で養生するようにと医師に指示されたけれど、1日の大半をシーツにくるまって泣くばかりでした。
 アメリカでひとり買出しに出かけ、買い物を車に載せていた時、メグミは突如、誰かにハンカチを口に当てられ、そのまま意識を失っていたのです。ハンカチには麻酔薬が滲み込まされていたのでしょう、自分の車の助手席で目覚めたメグミは明らかに犯された後でしたけれど、タツオには言えなかったのです。そして10カ月後、黒い赤ん坊が誕生したのでした。
 黒い赤ん坊は孤児院に預けられても、いくら月日が経ってもメグミは泣くばかりです。タツオもまたメグミに優しい言葉がかけられませんでした。
 「おれたち、これを乗り超えられないよ」とタツオは泣きやまないメグミに言いました。「二人でいると、常に不幸な思い出が挟まっちゃう。別れてやり直そう」
 メグミは泣くばかりでいやだと言えません。そしてその後、病室のドアの取っ手にガウンのベルトを垂らして、体重をあずけて坐り込んで首吊り自殺してしまったのです。
 タツオもまた立ち直れないまま、今は会社を辞め、自宅にこもりっきりの毎日を送っているのです。
 ……
 「本当はわたしが二人を励ましてやらなればならなかったんです」と吉川夫人はさめざめと泣くばかりです。「それを、メグミさんを疫病神のように考えて、二人を離すことばかりに執心しました。人間は業が深いものだと常々聞かされてきましたけれど、今回ほど自分の業の深さを思い知らされたことはありません」
 そんな夫人の姿を目の前にすると、
 「しかし、本当に人の幸不幸を地球規模で考えなければならない時代に入ったんですねえ」とわたくしは見当外れの言葉をかける他ありませんでした。「日本人の間で通じていたものが、世界に通じるとは限りませんからねえ。現代の日本は夢の国のようなものだから、外国に出かけても夢のつづきを見てしまう。ところでそこで突っ拍子もない現実にぶつかって、慌てふためくことになる。お二人には誠にお気の毒でしたと言うほかないけれど、そういう現実も肝に銘じておかなければならないと言うことでしょう」