奇妙な下宿
 
 「そらよ!」と大磯が鍋にマツタケを放り込み、水島と西崎は「わおっ!」と叫びました。
 「大磯さんには感謝感激だなあ」と水島。
 「気にしない、気にしない」と、いつもの癖で今日もまたタオルで鉢巻きをした大磯は、手元の買出し袋を無造作に広げて、「肉もたっぷりあるし」と言うのです。「パチンコ様々だ」
 「大磯さんはパチンコで生活できるんじゃないかなあ」と水島。
 「現にしてるでしょう」と大磯。「ところで、あんた、飯、できた?」と問われ、
 「ああ、そうか」と西崎は自分の部屋に戻って、もう炊き上がっていた電気炊飯器を持って来ました。「先日、家から送って来た米だから、うまいと思う」
 「じゃあ、オレ、醤油を持って来よう」と水島が自分の部屋に戻ると、
 「好き焼きに何で醤油が要るんだよ」と大磯が低くつぶやきます。「要するに、タダ食いじゃねえか」
 「酒、持って来ようか?」と西崎が尋ね、
 「あるの?」と大磯。
 「友達と飲んだ残りがまだ半分以上あるんだ」
 「頼む」
 水島が小さな醤油のを手にまた現われ、すぐ後から西崎が今度は一升瓶を提げて現われて、
 「オレ、ほとんど貢献してないなあ」と水島が頬を赤らめると、
 「食べることで貢献すればいいさ」と大磯。
 「それには自信がある」と水島。
 8畳ある、南に面した2階の大磯の部屋の窓は東の山の峰々が映り、山の裾に住宅街が静かに広がっているのです。ちょうど窓の外に枝を伸ばした柿の木の実が赤く熟れる頃で、大空は見る見る宵闇に染め上げられていくのです。
 水島と西崎は冷や酒をコップに酌み交わして、携帯コンロの火にぐつぐつと湯気を立てている好き焼きの鍋を箸でつつき、大磯は余り飲まず、鍋をつつきながら大盛りの飯を食い食い、
 「やっぱり新米は違うなあ」と言い、「うまい、うまい」を連発するのでした。
 翌日の正午過ぎ、
 「いるか?」と寝惚けまなこの大磯が西崎の部屋の戸を叩きました。
 「どうぞ」
 「昨日はご苦労さん」
 「いえ、ボクこそご馳走さまでした」と西崎は灰皿を差し出し、あぐらを組んで座り込んだ大磯はタバコに火を点けて、
 「頭が痛い。昨日は飲み過ぎた」
 「食べ過ぎたんじゃありません?」
 「いや、あれくらいの飯は何ともない。ただ、オレ、酒は余り強くないんだ」
 「まさかマツタケが出るとは思いませんでした」
 「ははは!」と大磯は笑います。「昨日のパチンコ台は絶好調だったからなあ」
 「今日も行くんですか?」
 「まあな」と大磯はタバコの白い煙を吐き出し、「彼は?」と廊下を隔てた北向きの水島の部屋を指し示します。
 「大学でしょう」
 「彼、大学院の試験に落ちて、今は聴講生だと言ってたよな」
 「ええ」
 「おかしいと思わないか」
 「どういう意味ですか?」
 「あの顔、去年まで見たことある?」
 「そんなの、分かりませんよ」と西崎は笑いました。「だって何千人といるんですよ」
 「あんたと同じ学部だぜ」
 「年も違えば、専攻も違いますからねえ」
 「同じ建物の中をウロウロしていれば、一度くらい会っておかしくなかろう」
 「さあ、どうかしら」と言いながらも、西崎の胸に俄かに疑念が広がりました。つい先日、学生食堂のメニューにニシン蕎麦が新しく出ていた、うまそうだから食いに行かないかと水島に誘われ、まるで新入生みたいなはしゃぎようだと西崎は感じたものです。歩いて20分近くかかる大学まで行くのが億劫で、『バカらしい』と思わずぞんざいに言い放った時の、ギクッとした水島の表情がひどく印象に残っていたのです。
 「ま、いいさ」と大磯。そして、「ちょいと行って来る」と言い残して、いつもの鉢巻き姿をして、昨夜そのまま寝たに違いない薄汚れたカジュアルウェアに下駄履きという服装で下宿を出て行ったのでした。
 夕方帰って来た水島が西崎の部屋にやって来て、
 「ニシン蕎麦、うまかったよ」と言いました。「今度、食べてごらん」
 「ああ」
 「だけど、オレたち、どうなるのかなあ」とあぐらをかいて、厚いメガネをかけた細面の水島は、西崎がティーパックにお湯をかけて作った紅茶をすすります。「世の中に取り残されていく気がする」
 「文学部って元々そんなところでしょう」と西崎。
 「そりゃそうだけどさ。やっぱり4年でスッと就職すればよかったかなって思うこと、ない?」
 「ないですね」
 「西崎はまだ若い」と水島は笑い、「ところで、大磯さん、いるの?」と声をひそめて問うのです。
 「まだパチンコから帰らない」
 「彼、ほんとに法学部の大学院生かよ」
 「違うんですか?」
 「だって、法学部の大学院に進めるのはほんの一握りだぜ。毎年せいぜい2、3人じゃないの」
 「誰かが行くわけだ」
 「そりゃそうだけど、あんなにパチンコにばかり行っててさ。いつ勉強してるんだい」
 そう指摘されると、確かに大磯が机に向かっている姿をこの半年間、2人は見た記憶がありません。書棚に法律関係の本もありましたけれど、その大半は書店で簡単に手に入るものばかりで、『専門書は研究室に置いている。こんな小さな部屋には入り切らないから』と大磯は言うのです。
 また、『今日は大学院の仲間が来るから、入らないでくれ』と大磯に言われ、下宿のおばさんの言付けだけ伝えに行った時の大磯の慌てぶりが、西崎の脳裏に蘇りました。その時、好奇心たっぷりに振り仰いだ、太り気味の彼の仲間はおよそインテリの風貌から程遠く、背広姿で、体力に自信のある商社マンみたいだったのです。だから改めて、
 「彼、大学に行ってるか?」と水島に問われて、
 「どうだろう」と西崎はつぶやくほかありませんでした。「だけど、学部が違うしなあ」
 「学部が違ったって、キャンパスで1度や2度会ったって、不思議はないさ」
 「会わなくても、不思議はないでしょ?」
 「そういう問題じゃなくてさ」と水島は立ち上がり、「まっ、パチンコで稼いでくれて時々ごちそうしてくれた方が、オレたちには好都合だけどね」と言って、自分の部屋に引き上げました。
 そして数日後、1つ年上の貝塚が出張の帰りに寄ったのだと突如、西崎の下宿を訪れ、
 「学生は気楽でいいよな」とあぐらを組んでネクタイを外しながら言うのです。「オレももう1年、大学に残ればよかった」
 「5年までは連れが多かったけど、6年目が来て途端にいなくなった」と西崎。「この下宿にいるのは、みんな、まともに行けばもう卒業している人ばかりなんだ」
 「そりゃ、どういう連中なんだい?」と貝塚は笑います。
 「法学部の大学院生と文学部の聴講生さ」
 しかし、文学部史学科を出ていた貝塚が、水島という名は記憶にないと言います。多分、他の大学の卒業生だろうと貝塚は推測したけれど、この半年間、西崎は水島からそんな経緯を全く聞かされていませんでした。
 「それより、法学部の大学院生とやらに見覚えがある」と貝塚。「さっき玄関ですれ違った時、どこかで見た顔だと直感したんだけど今、思い出した。ありゃ、オレの高校の2年先輩だ。オートバイを乗り回していた名うての不良でさ、確か2浪して大学に進んだはずさ。だけど、昔と目つきが全然違ってて、ギラギラと血走ったところがなくなってたなあ。だから初め、分からなかったんだ」
 しかし西崎もまた、大学5年目だと2人には語り、1年、目減りさせていたのです。要するに3人ともウソで固めたつき合いをしていたから、心のどこかが常に身構えていたのでしょう。ざっくばらんなつき合いが学生時代の特権だとすれば、3人はもうとっくに地位かウソか、何か頼るものがないと生きていけない大人の仲間入りをしていたのです。
 「決断する時にはしなきゃいけないな」と西崎は貝塚にお燗をして注ぎながら言いました。「人生に執行猶予なんてない。それでも『時は流れる』さ」
 「おいおい、急に老けたこと言うなよ」と貝塚はうまそうにコップを傾けました。「オレは学生時代が懐かしくて、わざわざ立ち寄ったんだぜ」
 「そんなもの、もうないよ」と西崎は苦々しげです。「自分に都合よく動いているものなんて何ひとつないと、今年になってよく分かった。自分を超えたところでこの世の歯車1つ1つが回転しているんだ。だからさ、それから目を反らせるためには、ウソでもつくほかないのさ」