冥界散歩
「この三門の上から大言壮語を吐く主人公を描いた小説があったはずだけど、君に分かる?」と雨小路画伯に問われ、
「いいえ」と冴子は答えました。
「野間宏だったかあ、そんな気がする」と雨小路画伯は言いました。「創建当時、この三門の大きさに人々は驚いただろうな。しかし、今じゃミニアチュアの大きなやつ程度にしか見えない。少なくとも、都会の高層建築を見慣れた目にはそうだ」
冴子は黙って前を向いたまま、雨小路画伯がお気に入りの横顔を見せているのです。陶器のような白い肌に鮮明に刻み込まれた、額から鼻筋、そして唇から顎に至る輪郭の線を、画伯は常日頃から賛嘆し、「君はぼくのモチーフそのものだ」と語って止みませんでした。むろん、その裸体の曲線美にも同じ賛嘆の眼差しが向けられ、描き出された数々の絵画によって、冴子自身、自分の知らない自分に出会う神秘と恍惚を味わっていたのです。
「そもそも京都自体が、盆地に作られたミニアチュアだよ」と画伯は続けます。「奈良に比べてもはるかに狭いし、暗い。そこで1000年間、蓄えられた文化にも、当然、暗いところがあるさ」
「でも、先生はその京都に来られました」
「それが伝統文化というものだ」と画伯は皮肉っぽい口調です。「老いの果てには暗い世界が待っているからね」
「でも、先生はまだ若くていらっしゃる」とチラリと横目を使って冴子が言うと、
「たとえまだ若く見えても、それは若さそのもののじゃないさ」と画伯は素っ気ない表情です。「それは今の君にあるものだ」
「でも、私には自分がありません」
「それでもいいだろうさ」
「先生に見出された自分があるだけです」
「不満なのか?」
「いいえ」と冴子は微笑しました。「先生のお役に立てて、幸せです」
これまで2人の間に交わされて来たステレオタイプな会話がまた繰り返され、冴子の言葉が透明感を増す度に、雨小路画伯は満足の度を深めていたのです。画伯は「心」などという曖昧模糊としたものなど信じませんでした。「形」の方がはるかに確実であり、それを画布に捉えることで着実に「永遠」に近づくことが出来るのだと信じて疑わなかったのです。しかしそれもまた、いま眼前に広がる京都の街のように、長い時間の流れに晒され、やがて風化していくものだと、画伯は悟り始めていました。そこには確かに昔とは違う認識があり、それこそ「老い」の自覚に他ならなかったのです。
三門を降りると、南禅寺の庭はもみじの紅葉に真っ赤に輝き、フッと疎水を飛び立ち舞い降りた白鷺の、背を丸め長い嘴を突き出している姿勢からは、老いてなお思索に耽る哲学者の清潔感が匂い立ちました。「愛宕山入る日の如く赤々と燃やしつくさん残れる命」という高名な哲学者の歌が雨小路画伯の胸をよぎり、厚いコートを羽織って付き従って来る冴子に、
「寒くないかね?」と問うと、
「いいえ」と冴子はニコリとしました。
法堂、本堂、清涼殿など経巡って、境内の脇を深くえぐって流れる清水に沿って裏手に回ると、山あいを小道が続き、山の斜面に大きく枝を広げた楠の大樹が緑深い影を落としている小さな社の前を曲がると、流れ落ちるせせらぎの音が俄かに高まり、その上に頑丈な石橋が架かっていました。ちょうど西に開いた山あいから夕陽が静かに注ぎ、谷瀬の周りはすでに暗闇を孕んだ空気が忍び寄って来ています。
「この欄干に横になれるかね?」と画伯に問われ、視線を落とした冴子の目に、幅30センチほどの、風雨に晒されて色褪せ、角の丸まった石造りの欄干が映ります。
画伯の突飛な要求に慣れていた冴子は静かにハイヒールを脱いでから、まず欄干にそっと腰を落として、左の脚から冷たく平たい石の欄干の上に上げ、右脚を上げ、きっちり両脚を伸ばして仰向いて、後ろ手にした左腕を支えに静かに上半身を横たえて行きました。すると、今まで冴子が気づかなかった秋の空がすぐ目の前に高く青く澄み渡って行き、チチチと山を飛ぶ鳥の甲高い響きが耳たぶに跳ね返るのでした。
黙ったまま猛禽類の眼差しで観察していた画伯が素速く近付いて、コートの裾を払って冴子の白い太い腿を露わにし、コートのボタンを邪慳に外して、豊満な乳房が夕光に照り輝くさまをまた少し離れて凝視しながら、
「力を抜いて!」と命じ、「目を閉じて!」とも命じるのでした。
谷瀬に向かって両岸から斜めに崩れていく紅葉に明るく静かな夕陽が降り注いで、透き通った瀬の音が清冽な薫りを発散させている、晩秋の古びた石橋の欄干の上に、白い裸体を半ば露わにした女が深く安らいでいる構図に、画伯は激しく囚われていたのです。折り重なって逆光に暗く沈んだ山の合間から注いでいる日の光は赤く眩しく画伯の顔を明るませ、夜が猛烈な勢いで押し寄せて来ている真上の空にかかった一片の雲は、淡い黄金色に燃え尽きようとしているところです。
画伯と同じ興奮と安らぎを、石橋に横たわる冴子もまた共有しましたけれど、命じられたままに目を閉じていると深い解放感に酔って転げ落ちる不安に襲われて、薄目を開けて夕陽を浴びている足の爪先を見つめました。その先にちょうどさっき通り過ぎた山裾の小さな社が半ば見え、その陰から浮浪者まがいの中年の男が貪婪な目でこちらを窺っていたのです。男は時々振り返って向こうから近付いて来る、まだ若い、学生らしい男に、「帰れ、帰れ!」と激しく手で合図していましたけれど、冴子の心は何の反応も催しませんでした。画伯の意に従っている彼女の目には、ただ、遠い出来事として映るばかりだったのです。
暮れゆく西の空に向かって合掌して、画伯が、
「もうよろしい」と言って、
立ち上がった冴子が、裸体の上にじかに羽織っていたコートの襟を整えてから、
「先生が手を合わされたのを初めて見ました」と言うと、
「初めてかも知れない」と画伯が応えます。
「どうなさったのですか?」
「たくさん寺を見て回ったからね」と画伯は笑います。「ぼくもやはり日本人だったと言うことだろう。それに、家系が平安貴族の末流らしいから、結局、ぼくも先祖返りすることになるかも知れないな」
そして、2人は森の中にさらに分け入って行ったのです。カヤやモミやスギなど常緑の大木が真っ直ぐ伸びて空を覆っている森の小道のすぐ傍を山水が流れているはずでしたが、まったく音がしません。動きも香りもないままに、シンとした空気が肌にまとわり付いてはスッと離れてゆき、自らの呼吸の気配がするばかりです。
ほんのつい先を行く画伯の背中がまるで厚いガラスで隔てられた異質な世界にも見えて来て、
「先生」と冴子は声をかけずにはいられませんでした。
「何だね」と前を向いたまま答えた画伯の声は、どこか森の奥から届くもののようです。
「私、恐いです」
「暗いから、足元には気を付けなさい」
「先生」
「何だね」といささか苛立った画伯の声が、やはり森の奥から届きます。
「静かですね。この世のものとも思えません」
「往生要集に有名な地獄の描写があるが……」と歩くリズムに沿って息を整えながら、画伯は途切れ途切れに語ります。「地獄も時代によって異なるものだろうね。ここはまさに現代の地獄だ。少なくともぼくには冥界の入口に思われるよ」
それは確かに馴染み深い画伯の語り口調でしたけれども、ますます冴子は不安になりました。目に見えて周囲が暗くなり、「引き返した方がいいかなあ」とさすがの画伯も気弱になりかけた頃、ひょいと曲がった小道のすぐ下に人家の屋根が現われ、窓灯りの点る京都の街並みがゆるやかな下り勾配を描いて広がるのでした。
「いやあ、冒険したねえ!」とやっと振り返った雨小路画伯の顔は、子供っぽく輝いています。それを見て、ようやく普段の冷静さを取り戻した冴子は、
「はい」と静かに答えました。
「街のすぐ傍にこんな世界を秘めているところが、いかにも京都らしい」と雨小路画伯は言いました。「確かに今のぼくにはふさわしい街だ」