キャラの香
 
 昼過ぎの客のまばらな無人電車に、独り純一は乗っていたのです。透明な光のゆらめく車内は静かな空気がこもり、車窓に映りゆく街の影から秘やかな息づかいが伝わって来る春の一日です。ゴーッとひときわ高くレールと車輪の軋る音を落として海を渡って、大空に高層ビルの聳える埋立地に着いて大きくカーブして、清潔な光のはね返る高架駅に電車は停まります。プラットホームの匂いも新しく、キオスクの中にたたずむ売り子の表情にも初々しさが感じられる(と言っても中年のおばさんでしたけれど)海の中の新しい街は、半透明なアクリル屋根の下を動くエスカレーターに乗って降りると、まだ冷たい春の風が吹き荒れています。
 駅前広場の向こうは赤や黄色の花の咲く花壇が海まで続く海岸公園で、海を隔てた都会の空いっぱいに黄河から吹き付けた砂塵が舞い上がっています。遠い白い雲が青い空と混じり合っている至るところで金属片のきらめきが無量無辺に翻っているみたいで、この1年間、もっぱら夜に意識を凝らして生きて来たことが嘘のようです。夜は今でもチカチカと星の光を湛えて底知れぬ深さを露呈しているかも知れず、また春霞にぼやけているかも知れませんが、「やれやれ」と純一はつぶやきました。そして、「はあ」と両腕を広げて深呼吸して、光の跡を刻んでいく船の行き来を眺めながら、大きな鉄製の、使用済みになったスクリューをオブジェにしている噴水を遠巻きにしたベンチの1つに腰かけて、タバコに火を点けるのでした。
 やがてまた高架駅に電車が到着して、エスカレーターの麓で左右に散らばる人影の1つが真っ直ぐこちらに向かって来るのを、純一は待ちました。大きな目をした、小柄で黒髪の長く揺れる有紀は、受験の時と同じ黒と紅の毛羽立ったコートを羽織っています。
 「待った?」と有紀。
 「1つ前の電車で来ただけさ」と純一。「それ、暑かない?」
 「暑い」と言って、有紀は並びのいい白い歯を見せます。「ママが着て行けってうるさいの」
 「何て言って来たんだ?」
 「デート」
 「おれと?」
 「ウソよ」と有紀はまた白い歯を見せました。「そんなこと、言うはずないじゃん。友達と買い物に行くって言って来たから、何か買って帰らなくちゃ」
 「暑かったら脱いだら」と純一が言うと、
 「そうね」とコートを脱いでベンチの端に掛けてから隣に坐った有紀は、薄紫の筋模様のある白地の上着にゆったりと身を包み、髪も衣服も春風に靡くにまかせています。シックな紺のプリーツのスカートも純一の目には珍しく、あれから1カ月もたたないうちに、有紀はもう大人の世界は踏み込んでいたようです。
 「おれは浪人する」
 「そう」と有紀。「1年なんて、すぐ来ちゃうしね」
 「ユキちゃんはそう言う他ないよな」
 「分かってるじゃん」と有紀はイタズラっぽく微笑みました。
 「それで頼みがあるんだけどな」と純一は海と街と空を眺めています。「つき合わないか?」
 光が眩しいのか風が強いせいか、大きな目を細めて、有紀もまた、海と街と空を眺めています。
 「いやなのか?」とそっと振り向く純一の声は我知らずうわずってしまいます。
 それは時間感覚が全くない、純一にとって辛いひと時でした。ただ、ボーっと高い汽笛を鳴らして海面をすべる豪華客船の白さが、彼の目を射るばかりです。強く小突かれ、ふと頭を巡らすと、すぐ脇で目を閉じた有紀の赤い唇がありました。それは眩しい日の光に輝く若い肉体の、可憐で柔らかい割れ目そのものでした。
 そっと口づけした純一は、その甘い香りに思わず強く吸って、肩を抱いて、柔らかい華奢な有紀の肩に確かな「女」を実感しました。……
 しばらく肩を寄せ合って海を眺めてから、
 「これからどうする?」と純一が尋ねます。
 「そうねえ……」と有紀は海を眺めたままつぶやき、「まずジュンくんを励まさなきゃね。何がしたいの?」と振り仰ぎます。
 「もう、おれがしたいことはやったさ」と純一は苦笑します。「だから、ユキちゃんの行きたいところに行こう」
 「じゃあ、ディズニーランドに行きたい」
 「お子さまコースか……」と純一が言うと、
 「久しぶりに頭の中を空っぽにしたいの」と有紀。
 「分かった!」と立ち上がると、純一は西に向いて合掌しました。
 「それ、何よ?」と有紀が不思議そうな顔をします。
 「アミダに感謝感激の報告をしたんだ」
 「何よ、それ?」
 「おれの心の友達、いや、先生かな」
 「何よ、それ?」と有紀はイヤにこだります。「先生は学校だけで十分じゃん」
 「まあ、いいや」と純一は振り向きました。「ディズニーに行こう」
 「いやよ」と有紀は小さなバッグの口を開けて、布袋に包んだ漆塗りの香合を純一の鼻の先に指し出し、蓋を開いて、
 「何か分かる?」と問うのです。
 その小さな丸い容器には黒く光る粒状のものが納められていました。
 「何だ?」
 「キャラ」
 「?」
 「香木なのよ」
 「?」
 「アミダブツの前でも焚くみたい」
 「何だ、さっきのこと分かってたのか」
 「ちょっと嗅いでみて」と有紀に言われて、もう一度、容器に鼻を近づけると、強烈な芳香がプンと純一の鼻を衝いて、脳の芯を刺激しました。
 「いい香りでしょう。焚くと、すごく匂ってクラクラしちゃう」と有紀は自慢げです。「これってお葬式の時に焚くみたい。でもさ、死んで嗅いだって遅いから、今からたっぷり味わっておかなきゃね。これだけで、びっくりするほど高かったんだから」
 「なるほどなあ」と純一は妙な納得顔です。「おれたちには隠れた共通点があったんだ」
 「勉強に疲れた夜、これを嗅ぐと気分がスッとしてたの。これって女の子の1つのはやりなんだけど、ジュンくんは知らなかっただろうな」
 「手を合わせるの?」と純一が恐る恐る尋ねると、
 「まさか!」と有紀は笑います。「これはナウいお洒落の1つよ。だから、さっきジュンくんが手を合わせてたようなものかも」
 そう言われると、純一の心に淡い抵抗感が湧きましたが、
 「そうだなあ」と大きく風が渦巻く空を仰ぎました。そこには、目に見えない金属片を無数に閃かせて、巨大な指と指とが空いっぱいに円を描き、残りの3本の指が霞がかった空の果てに伸びているかのようです。「おれたち、受験で変なものを手にしたのかも知れないや。だけど、合格したユキちゃんにはきっと、まだ分かんないだろうけどさ」
 「まあ、いいじゃん。大学のキャンパスでジュンくんを待ってるからね」と有紀は香合をまた布袋に包んでその口を糸紐で結び、バッグに仕舞って、「早く行こうよ」と促しました。
 「よし、行こう!」と純一は有紀の手を取って、アネモネの花が咲き広がった花壇の向こう、人通りのまばらなスクランブル交差点の前で午後の光を浴びている高架駅に引き返していくのでした。