たかが受験、されど受験
高校に入ってみたものの、美和子には大学進学の意志はありませんでした。
「どうするつもりなんだ?」と、3年の春の面接で担任になった藤沢先生に聞かれ、
「就職します」と美和子はハッキリと答えたのです。
「どこへ?」
「これから探します」
太い体躯を深々と椅子にもたれかけて、穏やかな表情で美和子を眺めながら、
「この学校から就職していく生徒は毎年2、3人だよ」と先生は可笑しそうに言うのです。「しかも池田さんの場合、成績もいいのに……」
「わたし、勉強をしていません」
「しかし国語は抜群だし、英語もいい」と机の上の成績表に目を通しながら、先生は言います。「それに、数学だって悪いわけじゃない」
成績がいいと言われて不快になる人は多分、誰もいないでしょう。ところが、昼休みは図書室で小説を読むことが半ば習慣化していた美和子にとって、その貴重な時間が個人面接で奪われることが不満で、何度も腕時計に目を落としたのですが、先生はいっこうに気にしません。美和子は時計の針が指し示す時刻が気になり、同じ方向に視線が行きながら、先生の注意はその腕時計を付けている、静脈が透いて見えるほど鮮やかに白い美和子の肌に注がれているのです。
若い美和子の体臭のおこぼれを嗅ぐように、時々先生の鼻の穴がピクピクするのが可笑しくて、美和子は思わずうつむきました。
「どうしたんだ?」と美和子の笑顔に誘われて、我知らず笑顔を作った先生が尋ねます。「おれの顔に何か付いているのか?」
うつむいて小さくかぶりを振って、美和子はクスクス笑いをするばかりです。
「変な奴だな」と、美和子を笑わせた先生はいかにも満足そうでした。「急に方向転換をするのは難しいかも知れない。よし、もう時間がないから、今日はこれまでにしよう。だけど、池田とはまた面接するからな」
そう宣言した先生のふっくらとした顔から期待の粒子が発散されて、美和子の頬を飛び交っても、美和子は素知らぬ顔で振り払って教員室の空気の中に雲散霧消させるのです。
「分かった」と先生。「もう授業が始まるから、行きなさい」
教員室を出ると、美和子となぜか気が合う橋本由香里が小走りにやって来て、
「どんな話、したの?」と聞きました。
「進路の相談よ」と美和子。
「長かったじゃない」
確かに長かったと感じながらも、口では、
「そうかしら」と美和子。
「熱心な担任に当たって、美和子はいいな」と由香里。「わたしのクラスの藤井先生なんて、タイムリミットを5分と決めてて、時間が来ると途中でもやめちゃうから、みんな不平タラタラよ。校長の目をごまかすために面接の体裁を繕ってるけど、ホントはやる気がないって」
「そう?」
「そう!.美和子には分からないでしょうけどね」
そして由香里は藤沢先生が週1回、放課後行なってくれることになった英文読解の補習に参加しようと熱心に勧め、美和子がその気になったのは、受験のためではありませんでした。先生の視線を浴びたい誘惑が、どこか働いていたのです。基本的にシャイな藤沢先生の、それだけに時々瞬間的に燃え上がる瞳には、30代とは思えない純真さが感じられ、決して悪い気はしなかったのです。
100人は集まっただろう放課後の特別教室は熱気にあふれ、ワイワイガヤガヤするうち、正面の教壇の上に藤沢先生が上がって、大勢の生徒を前にした時の先生のいつもの癖のうつむき加減のままにマイクを手にして、「継続は力なり、です」などとボソボソと語り始めると、たとえ小さな声であっても、授業と違って自主的に集まったメンバーでしたから、たちまち静かになりました。そして第1回目の自習プリントが配られ、英文が印刷されたB4版の西洋紙の下の3分の2ほどの罫線部分に和訳を試みていくのです。
西洋紙に覆いかぶさるようにして鉛筆を動かしている由香里の隣で、美和子が独り顔を上げ、シンとして鉛筆や消しゴムの音ばかりが響く教室を見ていると、教壇の壁に太い体躯をもたせかけていた先生と視線がかち合い、美和子はさりげなく顔を下げました。しかし、先生の心に微妙な影響を与えたのは確かです。先生は何気ない風に、だが明らかに美和子をめざしてやって来て、彼女の代わりに机の上に優しく手を置いて、
「やめるなよ」と言うのです。
白い顔に鮮やかに赤い美和子の唇がムッとしたように突き出たのは、不快だったからではありません。言うべき言葉が見つからなかったのです。
その代わり、隣の由香里がニコッと媚びを含んだ顔を上げて、
「はい!」と答えると、
初めてその存在に気づいた藤沢先生は、オッという表情が浮かべました。
時間が来てプリントを提出する時、由香里はみんなが出て行ってから先生にあれこれと質問した後、廊下で待っていた美和子のところに小走りにやって来て、
「藤沢先生、あなたに気があるみたい」と言うのです。
美和子の切れ長の細い目はいつものように無表情でしたが、白い鼻からかすかに熱い息がフッと洩れました。
母親と共に1学期の終わりに先生と会った懇談の時、先生に勧められるままに大学を受験すると美和子が頷いたのは、進学意欲に目覚めたためではなかったのです。先生の熱意に応えるためでも、もちろんありません。クラスで鼻を突き合わせて付き合って来た友達とは違った他者のまなざしが、故知らず彼女の心を揺るがしたのです。そこには、自分は女であって男ではないのだという仄かな自覚も伴なっていました。朝日に開く百合の花のような清々しさが、教員室の光に透けるほど繊細な美和子の白いうなじのほつれ毛から香り立ち、
「よし!」と藤沢先生はいささか甲高い声を発しました。「夏休みには英文読解の特訓をしよう。いいか、受験はたかが受験だけど、されど受験なんだ。必ず一生残る何かがある。そういう年頃に古今東西、どこの国でも何らかの形の受験があったのだから、それから逃げちゃダメだ。逃げたら逃げたという記憶が一生残る。分かったか?」
もちろん、美和子にはまだ分かるはずがありません。ただ先生の男の吐息の微粒子を頬に感じ、思わず頷くだけでした。