痕跡は消えない
 
 生徒会に入ってくれないかとタダシに頼まれた時、サヤカはビックリしました。そもそも、タダシが生徒会長などに立候補したことが可笑しければ、当選したことも可笑しく、自分が生徒会執行部のメンバーに名前を(タダシは名前だけでいいというのです)連ねることは、もっと可笑なことだったからです。どうして生徒会長などに立候補したのよと尋ねると、「なり手がいなかったんだ」とタダシ。
 「ボランティアでなったってわけ?」
 「吉岡が推薦したんだ」
 「推薦されても、1時間でも2時間でも、自分には向かいないって粘ればよかったのよ。強く押されると断りきれない黒木くんの性格を、吉岡くんは利用したのよ」
 「そんな気がする」
 「あーあ」とサヤカは溜め息を吐きたい気分でした。それでも書記ならと引き受けたのは、タダシを気の毒に感じたからではありません。ヒョロリと背が高くて、そのくせ小学や中学の運動会の徒競走では常にもう1人の背の高い男子生徒とビリ争いをしていたタダシ。中学時代に男女同権論者の、ホッテントットの女のように尻がツンと突き出、長い黒髪を頭の上に3重に束ねて、「牛の糞」と男子生徒にささやかれていた、下唇の分厚い口にいつも真っ赤な口紅をしていた体育の女教師が男女混合の徒競走をさせた時、サヤカの後ろを追って来て、いつまで経っても間延びした足音を背後に響かせるばかりだったタダシ。そんなタダシが、しかし、サヤカの目にはどこか他の男の子とは違う子に映っていたのです。世の中は男と女という2つの異質な世界で出来ていることは、むろんサヤカも知っていましたが、男の世界が何か知りたいと、タダシのヒョロリとした姿を遠目から見るたびに願ったのです。それは憧れとか陶酔とは明らかに違って、タダシの裸体に触れたいという端的な欲望でした。他の誰でもない、タダシの薄い胸やへこんだ腹や細い腰、ひょろりと長い脚が夜のサヤカを熱くすることが、中学に入って続いていたのです。
 そして同じ高校に入って、1年余り音沙汰のなかったタダシから急に助けを求められ、帰宅して2階の自室にこもったサヤカは妙にウキウキとした気分になって、ヘッドギアを耳に当ててビートルズに聴き入ったものです。それからマイケル・ジャクソンやマドンナに……。
 男は男同士、女は女同士で群れを作りたがる教室で、とりわけ昼の弁当時間の女の子たちは必ず2つか3つのグループを作って机を寄せて周囲に背を向け輪となって、箸の先で何気なさそうに惣菜をつまみつつ、しかし、しっかり互いの弁当の献立を吟味しながら、一段と声を抑えて、他のグループの悪口と男のうわさ話に夢中になるのです。そんなグループに高校に入ってからのサヤカは決して加わらず、周囲の冷ややかな視線などまるで体を抜け壁に当たって跳ね返る光線くらいに振り払って、さっさと独りで弁当をすますと、図書室に行って文庫本を開きました。サルトル、ジャン・ジュネ、ヘンリー・ミラーといった昔の男性作家の描くセックスの猥雑さに、むしろ明るい純潔の印を見出して、喜んでその世界に没頭していたのです。
 あるいは勉強が出来る子かも知れないとどこか畏敬の念で眺められていたサヤカは、やがて単に本好きの落ちこぼれなのだと知れ渡ると、冷たい視線はますます固定化し、また、めったに彼女に向けられなくなりました。
 ところが、ある日の放課後、副会長の宮本奈津美と廊下で行き会うと、
 「ちょっと水谷さん」と声をかけられ、
 「はい?」と意外そうにサヤカは振り返りました。
 「あなた、毎日、黒木くんと一緒に学校に残って、何してるの?.余り変なうわさを立てられちゃ、生徒会が迷惑するのよね」
 「どういうこと?」
 「会長と書記が出来てるって、もっぱらのウワサなのよ。少し反省したら?」
 「宮本さんは副会長でしょ」
 「もちろん」
 「だったら、もっと黒木くんを補佐してあげたら?」
 「あなたにいわれる筋合い、ない」と奈津美の丸い顔が見る見る赤くなりました。「彼はもっとリーダシップを発揮して、自分は真ん中にデンと控えていて、周りの者を使えばいいのよ。それなのに、あなたと2人だけの世界の立てこもっているから、わたしたち、出る幕がないのよ」
 球技大会も、マラソン大会も、運動会も他校との交流会も、みんなタダシの下でサヤカが生徒会の下級生を使って実現して来ていたのです。そして生徒会最後の大仕事である文化祭の準備に向けて遅くなることが多くなったサヤカに向かって、「2人だけの世界にこもっているはないでしょ!」とサヤカは憤慨しました。
 「あいつは当てに出来ないからなあ」と、タダシは生徒会室の隣の倉庫にあるパネルの数を人差し指で確認しています。
 「どうしてあんな人、副会長にしたの?」
 「吉岡が勧めてくれたんだ」
 「吉岡くんこそ立候補すればよかったのに」とまだサヤカは腹の虫がおさまりません。「人を舞台に上げておいて、あとで梯子を外す人ね」
 「……」
 「だって、せめて自分も副会長になって、黒木くんを助けるのが当然でしょ。事の成り行きを考えれば」
 「応援演説をしてくれたのは渡辺だったからなあ」
 「だから、そこでもう吉岡くんは逃げたのよ。黒木くんを推薦したのも、ただ単に早くクラス討議を終えたかっただけでしょう」
 「……」
 「わたしも彼のお薦めだったの?」
 「いや、水谷さんは違う」
 「じゃあ、誰が薦めたの?」
 「おれさ」と言うと、ヒョロリとしたタダシの体からポッと熱が発し、彼の頭がクラクラと上気するのが、可笑しいほどサヤカの目には明らかでした。「おれだって利用されただけじゃない。利用もしたさ。水谷さんに書記を受けてもらえば、つき合えるから」
 「そういうの、公私混同って言うのよねえ……」と言うサヤカの口調は、言葉ほどにも迫力がありません。
 小学6年の時の水泳大会でのサヤカの力泳以来、その姿が頭に焼き付いて離れないんだとタダシに告白されて、サヤカはポッと赤くなりました。プールサイドで男女こもごも応援する中で、先の男子泳者の手がゴールにタッチされたと同時に、サヤカは水平に両手両足を伸ばして宙に投げ出して、斜めにバン!と水しぶきを切って水にもぐって、水中から水面に上がるその前から、激しく両手で水を叩きつけて出来るだけ顔を上げずに泳ぎつづけ、ゴールに着いて息せき切らせながら次の男子泳者が飛び込むさまを眺めていた時、水着の左の肩紐が肘あたりまで下がっていて、プールに張った蜘蛛の巣のようにゆらゆら揺れる夏の日の光の反射の陰に、白く丸い乳房がゆらゆらと揺れていて、あわてて肩紐を上げた記憶が、その時、2人の心に清冽に蘇ったのです。
 同じ思い出に促されるように互いの背に腕を回して、2人は初めてキスを交わしました。そしてサヤカは、何枚も立てかけられて厚くなったパネルの奥で埃を被っているマットの上に倒れかかって、そのままタダシを受け入れたのです。そこには自己陶酔のカケラもなく、ただ、生命の宿る1つの肉体が自分の身近な存在になったという、深い安堵ばかりがもたらされました。
 夜は暗い影を刻んだ校舎の上に星となって瞬き、生徒会室のあるクラブハウスの背後の大きな体育館の裏の丘に生い茂った竹林の影が空に伸び広がって、密生した竹の葉越しに仄かに、山を削って造成された住宅街の静かな窓灯りが見え隠れしています。生徒会室の鍵を掛けるタダシを、自転車置き場から自転車を回して待ったサヤカは、
 「駅まで送ってくれる?」と言いました。
 「おれの家はすぐこの上なんだぜ」
 「こういう日は送るものでしょ」
 「分かった」と言うと、タダシはサヤカの自転車のハンドルに手をかけ、後ろから彼の肩に両手を置いてバランスを崩さないように後部タイヤをまたいで立ったサヤカを気使いつつ、校門を出て、もう花が散って葉群の深い桜並木が続く坂をライトの淡い光を頼りに駆け降りて、家々の裏手を巡る狭い路地を走ってお城の東を大きく迂回して、ビルが林立する夜空にNTTの赤い送受信塔が浮かびあがる駅の北口に着きました。
 9時を過ぎた駅の周囲には、遅い帰宅途中のサラリーマンの他には飲みに出ていた男女の群れが稀に目に付くだけで、後は新幹線を降りて来る客を待つタクシーが並び、タクシー乗り場の外れには派手な格好の、遊びが生きがいの若者たちが自慢の車の窓を開けて、通りかがりの若い女性に遠慮ない視線を浴びせているのです。
 改札口でタダシと分かれ、在来線の電車に乗って出発を待つ間、温かい充実感が何度も体の奥からあふれ出てくることを、サヤカは抑えることができませんでした。後で再び倉庫の黄色い裸電球を点けて見出した、くすんだマットの上の色鮮やかなサヤカの血の痕跡は、誰に知られるともなくいつまでも学校の隅に息づいていくことでしょう。2人だけの証しをそのような形で残したことに、2人は満足し、
 「大人になってまた来るか」とタダシが言いました。
 「その時の私たち、どういう関係かしら?」
 「分からないな」とタダシは言い、「ひょっとすると夫婦かも?」と振り返ると、
 「分からないわ」とサヤカ。
 「だけど、また2人で来たいな。絶対に!」とタダシが言い、それには全くサヤカも同感でした。
 駅前で見た物欲しげな人たちは、セックスという妄想に飢えている、とサヤカは思うのでした。それは教室でヒソヒソ男のウワサに舌なめずりして夢中になるクラスメイトと、どれほどの差があるだろう?.性欲を露骨に顔に出しているか、チョコレートやボンボンや綿菓子で甘く包み隠しているかだけの違いではないだろうか。カリッと噛む甘い歯ごたえ、舌先で舐めまわす心地よさ、そんなオードブルの後のメインディッシュには、必ず自己陶酔というソースのかかった厚切りの肉でなければ満足できない、ちょっと哀れな女たちと男たち。
 確かにタダシは他の誰でもないわたしの体を欲していたのだ、とサヤカは確信するのでした。サヤカの乳房が小学6年よりさらに丸く柔らかく誇示されたのは、タダシの指を求めていたからに違いない。タダシの男根が強く高く怒張されたのは、サヤカの指を求めていたからに違いない。
 文化祭が近付くと、奈津美も毎日、生徒会室に顔を出し、手順が分からなくなると、サヤカに何食わぬ顔で質問し、サヤカもまた冷静に受け答えして、直前の1週間はまるで戦争のような慌ただしさでした。毎日、9時10時になり、体育館行事のスケジュールの分捕り合いやら、クラスへの補助金を出した、まだ出さないといった騒ぎやら、ハッピを認めるのか、認めるとすれば上限の金額を決めないと後で先生からクレームが出ないか?.いや、先生が知る頃はもう後の祭りだから気にすることはないさ、でも次の学年が困ることになるわ、次は次さ、それじゃかわいそうよ、水谷さんは意外に思いやりがあるんだなあ、あら、知らなかったの?.わたしは思いやりの塊なのよ、偏った思いやりだから迷惑するのよね、と我慢し切れずに奈津美が口を挟むと、全く公明正大というのも気味が悪いしなあ、とタダシ。あらら、仲のおよろしいこと!
 一般にも公開して日曜日に行われた初日には、グラウンドは乗り込んで来た親の車でいっぱいになり、小雨模様にも拘わらず、水色や赤、青、黒など色とりどりの傘をさした近隣の高校生、それに中学生や小学生まで坂を登ってスリッパ持参でやって来ました。校内の至るところに立て看板が並び、どの校舎のどの窓も色紙やスプレーで派手に描いた宣伝文句で埋め尽くされ、教室は縦横に飾りテープが巡らされています。「こちらお化け屋敷、1人100円!」とか、「素人カラオケ大会」とか、「2年D組・美人コンテスト」、「たこ焼きの本場・ドクター西本」、「喫茶Qちゃん」などなど、文化祭と言っても文化のブの字もない催しが目白押しなのです。この日ばかりは先生たちは教員室かそれぞれの研究室に立てこもってめったに顔を出しません。生徒会主催のレストランに予約注文していた飲食物をサヤカも手伝って運んで行くと、立場が逆転して肩身を狭くした先生たちが「ありがとう」と素直に喜ぶのです。「忘れられたのかと思っていたよ」
 「お金を頂いているのだから、忘れるはずがありません」
 「しかし去年は結局、来なかったぜ」
 「そういう苦情は去年の生徒会にしてください」と澄ました顔で答えて、サヤカはパック入りのおむすびとサラダ、それにカップ入りの赤出しを渡し、前売り券を受け取るのです。
 廊下に出ると着物姿の奈津美に出会い、
 「おヒマね」とサヤカが皮肉ると、
 「これも生徒会のお仕事よ」と奈津美。「水谷さんは本当に使い走りがお似合いね。あなたを書記にした黒木くんの目利きぶりには脱帽だわ」
 「それほどの目利きでもないみたい」とサヤカも負けていません。「着物の似合わない人に着物を着せるんだから」
 「これはわたしの発案なのよ!」
 「やっぱり!」とサヤカは追い打ちをかけました。「彼が勧めるはずないものね」
 ムッと頬を膨らませた奈津美の丸顔がいつもほど気にならないのも、文化祭というお祭り気分のせいに違いありません。そう、それは「文化」ではなく、まさに「お祭り」だったのです。
 2日目の夕刻から後夜祭が行われ、グラウンドに集まった全校生徒を前に、詰め襟の黒の制服を着た応援団が赤い長い鉢巻きを巻いて白手袋の両手を高々と広げて太鼓の音と共に校歌やら応援歌、さらに第2、第3の応援歌を絶叫し、それから全員でフォークダンスの輪をグラウンドいっぱいに作って踊ってから、中央に高い櫓状に積まれた薪に灯油が振り撒かれ、ボッと燃え上がった炎が雲が晴れて来た夕空に赤々と舞い上がる頃、3年生は誰もがこれで高校生活が終焉するのだという思いに耽るのです。特に女の子たちは甘い感傷の涙に酔い痴れるのでした。
 「これでやっと生徒会ともサヨナラできる」と疲れた体を生徒会室の椅子にもたせかけて、サヤカはアッケラカンとしています。「長かった!」
 「ああ」とタダシ。「だけど、後悔はない」
 「後悔しても始まらないじゃない」
 「そりゃそうだ」
 「ねえ、私たち、いつまでも理解し合える友達でいられる気がしない?」
 「単なる友達か?」
 「そう」
 「おれはそれ以上の関係だと思いたいけどな」
 「先のことは誰にも分からないものよ」
 「それはそうだけど……」
 「友達が最高なのよ」とサヤカは断言しました。「セックスがいくらでも出来る友達なんて、そんなに得られるものじゃない。愛し合って憎んで別れて、そして懐かしがる、そんなありきたりな男女関係がすべてじゃないって、わたし、感じてたのよ。黒木くんを見ていて、いつもそう感じていたの。きっと小学校の頃からそう感じていて、それが単なる予感から現実に変わったのは、やっぱり生徒会のおかげだわ」
 「つまり吉岡のおかげだ」
 「そうね!」とサヤカも笑いました。「吉岡くんってきっと、私たちの縁を取り持つ福の神だったのね」