暑い夜
 
 人の流れに乗って駅を出て、スクランブル交差点の向こうに立ち並ぶビルの上に広がっている東の空に、薫さんは夕陽に照らされて静かに横たわる赤い雲を仰ぎました。そして、鼻の頭に汗を浮かべつつ、肩から胸元まで露出したカジュアルウェアの女の子を目にし、そんな服装でよかったのだとちょっぴり後悔したものです。彼女は白い袖無しシャツに黄色のミニスカート姿で、黒紐で結んだ厚底の靴を履き、小ぶりのショルダーバッグを肩から掛けていたのです。そして、背の高い男たちの陰に見え隠れしながらビル街に向かい、間口が狭くて奥行きのある、7階建てのK書店の玄関脇で昇降しているエスカレーターの前に行くと、
 「やあ」と孝行くんが手を振りました。
 「待った?」と薫さん。
 「いや、いま来たところさ」と、胸にヨットの絵柄をプリントしたタンクトップにジーンズ姿の孝行くんは、さりげなく薫さんと肩を並べて、
 「この先にできた焼き肉屋に行こう」と誘います。「開店早々だから、安くてうまいんだよ」
 「人が多くない?」と、ソッと紅を引いた唇を上げて薫さんが尋ねます。
 「大丈夫。予約したさ」と、頬骨が出て顎の尖った孝行くんは、クリンとした目で薫さんを振り返りました。
 K書店の裏手は車の通らない狭い通りでしたけれど、肩と肩が触れ合うほどに若い人々で溢れ返り、夏の暑さと人いきれ、それにエアコンの室外機の熱風が混ざり合って、孝行くんも薫さんも、肩辺りから胸にかけて汗に濡れて衣服が肌に食い付きました。小柄な体に豊かな胸の目立つ薫さんを、チラッと振り返って見た孝行くんの表情に気付かない風に、不快げにショルダーバッグを顔にかざして、薫さんは夕空を狭くするビルのガラス窓に次々と照り返されていく夕陽の眩しさを遮りました。実際、夕陽はいつも薫さんに不快な感情を催させたのです。特に汗が噴き出す夏の夕暮れは、風が吹いても汗が肌に粘り着くだけで、エアコンのある室内に逃げ込むのが常でした。
 四つ角を渡ると巨大なビルの代わりに小さくて親しげな構えの個人店舗が並ぶようになり、2人は、その1つの「光香園」という新装開店の焼き肉屋の暖簾をくぐりました。
 「夏向きのお店ではないわね」という薫さんの言葉に思わずギクリとした孝行くんは、
 「現代人には夏冬、関係ないよ」と諭すように右手の人差し指を差し出しました。「エアコンの中で寒さに肩を震わせながら焼き肉を食って、玉の汗を流しながらビールを飲む。それが最高さ」
 「安いしね」
 「そう!」と孝行くんは上機嫌です。「だから、さらに最高なんだ!」
 靴を脱いで奥の板の間に入って、半円球のガスコンロを据えた中央部分がくり抜かれたテーブルに着くと、テーブルの下の部分は床が低く、夏座布団に腰を掛けて、メニューから思い思いに好みの肉を注文し、ガスに火を点け、2人はジョッキの生ビールで乾杯しました。
 たちまち1杯目を飲み干し、2杯目を頼んでから口をアングリと開けて、ジリジリと丸い鉄板の上で焼けていた肉切れを噛みながら、
 「吉原さんは気づいてた?」と孝行くんが好奇心を抑えきれないクリンとした目で聞きました。
 「何を?」と薫さんは箸で肉切れをつまみました。
 「例の男が付いて来てたぜ」
 「……」
 「確か飯島と言ったよね」
 「……」
 「ああいう風に物欲しげにウロウロしているのを見るのは、オレ、我慢ならないんだ」と孝行くん。「野良犬根性をさらけ出してるだろ。傍目にも見苦しいや」
 「……」
 「吉原さんにも責任の一端はあると思うな」
 「どういう意味?」
 「嫌いだって、ハッキリ言った?」
 薫さんは黙って首を横に振って、左手を下に添え、箸を使って、可愛い紅い唇にソロリと小さな肉切れを運びました。
 「だろ!」
 「わざわざそんなこと、言わなくちゃならないの?」
 「言うべきさ」
 「殆どつき合いのない人に、いきなり『嫌い』はないでしょう」
 「下宿、近くなんだろ?」
 薫さんは黙って頷きます。
 「それも、わざわざ吉原さんの下宿の隣に引っ越して来たって言うじゃないか」
 薫さんは黙ったままです。
 「その真綿で首を絞めるようにやり方が、オレは我慢ならないんだ」
 「首を絞められている感じはないけど……」
 「と言うことは」と孝行くんはクリンとした目をさらに大きくして、薫さんを見つめます。「気があるのか?」
 「あるとか、ないとか、そういうレベルじゃないのよね」と薫さんは眉間に皺を寄せて、ふっくらとした可愛い顔をしかめます。「あの人が勝手に自分の妄想に溺れているだけなんだから」
 「恋ってそういうものだろ?」
 「そうかしら」
 「その妄想に付いていけないのは、恋していないってことさ」
 「そうかしら?」
 「そりゃそうさ!」と孝行くんは尖った顎を突き出して、ジョッキのビールをあおります。「だから吉原さんとしては、『あなたの妄想には付いていけません』って、ハッキリ言ってやればいいんだ」
 「……」
 「それでも蝿のようにうるさく付きまとうなら、オレがぶん殴ってやる」
 「……」
 「現代の恋愛はゲームなんだよ。ゲーム感覚のない奴に恋愛をする資格はない!」
 「……」
 「人生だってゲームさ。ゲームと言って悪ければ、スポーツだ。勝ち負けがあって、誰だって勝ちたいけれど、負ける場合もある。しかし、敗者がいるから勝者もあるわけで、どちらも試合に参加していることに変わりはない。ところがあいつと来たら、勝つか、負けそうなら不参加か、その2つに1つを取ろうとしてるから、腹が立つんだ」
 「どういうこと?」と薫さんは瞳を上げました。
 「だって、そうだろ!」と胸を張った孝行くんは、その拍子に大きなゲップを洩らしました。「あいつは自分の妄想にひたすらこもって、もし失敗したら失恋という甘い感傷に耽られるように、ちゃんと逃げ道を作っているんだ」
 「さっきと話が逆にならない?」と薫さん。「それが恋愛だって、さっき堀くんは言わなかった?」
 「言った!」
 「それって矛盾しない?」
 「しない!」
 「どうして?」
 「つまり、『現代』という条件付きさ。現代のような時代だからこそ、恋愛もゲームなんだよ。その代わり、破れたら破れたという現実がグサッと突き刺さる!.そこに妄想の余地はないんだ」
 「その現実って何よ?」
 丸い小さな穴からガスの火が赤く覗く鉄板の上に乗り出すように顔を寄せて、孝行くんは尖った顎をニヤリとゆがめて、
 「分からないか?」と問うのです。
 「……」
 「分かるだろ?」
 「セックスだと言わせたいわけね」
 「正解!」と叫んだ孝行くんは、「アッチチチ!」とあわてて顔を引っ込めました。
 薫さんは黙って鉄板の肉をつつき出し、しばしの沈黙の後、夏休みの予定とか、前期試験の準備とか、9月に上京した後のクラブの打ち合わせとか(2人はギター・マンドリン・クラブ、通称ギタマンの仲間だったのです)、普段交わされる会話に終始したのでした。
 外に出ると夜はまだ暑く、依然、若い人いきれが通りに満ちあふれ、道端にもビルの角や屋上にも、ネオンサインが色鮮やかに点滅しています。
 S公園に行こうと誘った孝行くんの腕を引っ張って、薫さんは人混みの中を心持ち眉をひそめてS駅の方面に引き返しました。すぐに人波に分け隔てられ、
 「おいおい、もう帰るのかよ?」と呼びかける孝行くんにお構いなく、彼女は独り、道行く人を追い越していくのです。
 そんな薫さんに追い付いた孝行くんはその手を握り返し、ときどき背後を振り返りつつ、
 「いた、いた!」と陽気に叫び、「バカ野郎!」と酔いに任せて怒鳴っても、もちろん、猛烈な人間たちの流れに掻き消されるばかりでした。
 「あいつ、まだいやがった」と腰を屈めて耳元でささやく孝行くんに思わず顔をしかめ、その手を振りほどいて巧みに人を避けて歩いていく薫さんにまた追い付くために、孝行くんは肩と肩がぶつかるたびに、
 「すみません」と何度も行き交う人に謝らなければなりませんでした。
 まもなくたどり着いた駅前広場のスクランブル交差点は、イルミネーションがシャワーのように明るく強く照り注ぎ、人と車の雑踏の向こうにS駅の駅ビルの厚い壁が、漆黒を知らない都会の夜に高く立ち塞がっています。
 「ホントにもう帰るのか?」と孝行くんは不満そうに腕時計を見ました。「まだ10時にもならないんだぜ」
 それでも黙ったまま、薫さんは地下道を通って駅の表口に出、バス・ターミナルを迂回して、新しい壁に沿ってくたぶれた浮浪者たちが段ボール紙の上に寝ている歩道を歩いて、広い通りの両側に幾つもの高層ビルが静かに暗く建ち並ぶ地区に出ました。水銀灯に照らされたアスファルトの上を車がヘッドライトの光と共に静かな音を残して走り去り、夏の夜風に揺れている街路樹の下を、半袖のワイシャツにネクタイを締めたサラリーマンが遅い帰宅の途に就いたり、アベックが肩を寄せ合って歩いたりしています。また、ビルの地下1階が正面玄関で、その前に枝を広げた木立に提灯を掛け渡した地下レストランのビヤガーデンのテーブルを囲んで、夏の夜を楽しんでいる人々もいました。
 「展望喫茶に行こうか?」と、薫さんの速い足取りにおぼつかない足取りで従いながら誘った孝行くんに、
 「C公園にしない?」と薫さんは言いました。
 「ああ、そうしよう!」と甲高い声で賛成して、孝行くんは薄い唇をゆがめて振り返って、先ほど渡って来た交差点の先の木陰で信号待ちをしている男の影を見返しました。
 深い木立に被われたC公園は、夜の木漏れ日のような淡い光が静かに降り注ぎ、恋人たちの肩を優しく撫でているのです。黒い枝を縦横に広げている木々の緑の葉に星の遠く霞んだ夜空が半ば隠され、低く重く絶え間ない街の轟きが吸い込まれていくその高みには、小さな窓灯りの並ぶ高層ビルが聳えているのです。そして1つのベンチに1組ずつ、恋人たちは秩序正しく腰掛けて肩を寄せ合い、キスを交わしているのです。
 「静かね」とベンチに腰掛け夜空を見上げてつぶやく薫さんをクリンとした目で見つめながら、
 「うん!」と孝行くんは頷きました。
 「2年間がアッという間に過ぎちゃった」
 「うん」
 「これからもっと早いんだろうなって、時々思うのよ。だって、高校なんて1年ごとに早くなって、3年なんてホントに瞬く間だったもの」
 「うん」
 「聞いてるの?」と不服げに唇を尖らせて振り仰いだ薫さんの顔に向かって、その時、孝行くんの顔がヌッと近付いて来たのです。痩せた頬と尖った顎が暗く描いた細面の顔に、クリンとした目がギラギラと光っていたのです。ショルダーバックを差しはさんで素早くキスを防いだ薫さんがそのバックを外すと、そこには怒りを露わにした孝行くんがいました。
 「なぜだよ?」
 「いや!」と薫さんは可愛い唇を尖らせてハッキリと拒否しました。
 「ここはそういう場所なんだぜ」
 「いや!」
 額が青ざめ大きな目にますます怒りを露わにして、
 「いつまでそうやって男を手玉に取るつもりなんだ!」と孝行くんは低く抑えた声で言い放ちました。
 「どういう意味よ?」と、薫さんは乾いた、興ざめした声で言いました。
 「みんなの噂の的だぜ」と孝行くん。「吉原さんは色目を使って次々と男を誘惑しながら、肝心なところでカマトトぶって逃げ出すって!.だから、オレがみんなの恨みを晴らすことを買って出たのさ」
 そう言い終わらないうちに、バシッ!と高い音が夜に響いて、孝行くんはしたたか頬をぶたれたのでした。
 「オオ、痛!」と大仰に顔をしかめて手形が残るほどに腫れた左の頬を手で押さえながら、「オレも失敗したか」と孝行くんはピエロめかした態度を装いました。
 震える手で厚底靴の黒紐を解いて手に持って、裸足のまま暗い広い公園の遊歩道を駆け去って行く薫さんの後ろ姿に向かって、
 「あんたにはあいつがお似合いなんだよ!」と孝行くんは叫びました。「早く気づけよ、周りが迷惑するだろ!」
 そしてせせら笑って振り返ると、すぐ後ろの木陰に黒く立ち尽くす男の影がありました。