法悦の果て
せっかく東京の大学に進学したのに、実際のキャンパスは神奈川県相模原市に移転していたのです。林を切り開いた小高い丘の上に幾棟もの瀟洒な校舎が並び、校内は庭園のように清潔で広々としていたのです。そして、丘の周りの田畑には学生相手のアパートが次々と建ち並び、学生課でもそんなアパートの幾つかが紹介されましたが、宏美さんは不服でした。
これでは上京した意味がない、故郷にある、家から自転車で通える大学と同じだと、宏美さんは下宿探しに一緒に来ていた父に訴えて、予定を1日延ばして東京の八王子辺りに宿を決めました。八王子駅から横浜線を使って相模原駅に行くことになりますから、ずいぶん時間の浪費ですけれど、それでもいいのだと宏美さんが強く主張したのです。「その方がいいんだろう」と父が言うと、「そんなこと、ない」と答えた宏美さんの頬は、しかし自然にゆるみました。
アッという間に最初の2年間が過ぎて、3年生になると専門過程に入って、実験が多くなり、夜の9時・10時に下校しなければなりません。その時刻になると駅まで行くバスが1時間に1本だけだし、それも11時半で終わりなのだと宏美さんは親に訴えました。中古の小型車でいいから買ってほしいと言うのです。金銭感覚が麻痺すると反対する母に対して、今の学生生活はそれが一般的なのだ、お母さんは古い、と宏美さんは反論します。「ねえ、お父さん?」
父はウーンと腕組みして、しばし沈思黙考の体です。父の気持ちはすでに固まっていたのですが、母の意見に配慮する必要があったのです。もちろん、そのことは宏美さんも熟知していましたし、母も感じている、大事が家庭で決定される際のいわば通過儀礼のようにものでした。
「宏美がやる気を失っても困るだろう。それに、宏美を信頼してるけれど、東京には女の子を誘惑するようなアルバイトがいくらもあると言うからなあ。そんなところで働いてもらっても困る。ここは中古を買ってやろうじゃないか」
「ありがとう、お父さん」
「その代わり、走るだけの車だよ」
「うん!」
ところが父は、買うからには長く乗れる車がいいと母を説得して、2000CCの新車を買ってくれました。建設会社を営む父は一人娘に甘い一方、母は厳しく、事ある毎にその教育方針が対立していたのです。
宏美さんは確かに週3日は実験のために夜遅くまで研究室に残っていましたから、車は必需品にはちがいありませんでした。しかし、残りの3日は恋人と新車に乗って丘を越えて、関東の山々が近い静かな田園の真ん中にできた、体育館ほどある巨大なバラック風のスピリチュアル・センターに通っていたのです。
100台は駐車できる、砂地のままの駐車場に駐車して正面に回ると、「○○スピリチュアル・センター△△支部」という看板が、電話番号、ファックス番号、HPアドレスと共に壁に取り付けられているのです。その下の受付で、宏美さんと芳雄くんは会員証カードを提示しました。係員によってカードがチェックされ、「どうぞ」と返却されると、宏美さんは靴を靴箱に入れ、右手の階段をあがって女子更衣室に入って、自分のロッカーの中に衣服すべてを脱いで収めてから、修行衣と名付けられた、膝辺りまであるダブダブの、胸元と背中に会員番号が縫い付けられたタンクトップ風の白い簡易服を頭から被るのです。
首まわりや袖口や裾から、動くたびに風が入りますから、初めはまるで全裸でいるような羞恥心を覚えた宏美さんも、やがて、
「これがいいのさ」という芳雄くんの言葉が納得できるようになりました。「社会の束縛から自由になった感覚があるんだ。もちろん、これはまだ単なる錯覚の段階だけど、『大いなる悟り』に至る第一歩にはちがいない」
「『大いなる悟り』ってどんなもの?」
「それは『大いなる人』に聞かないと分からないよ」
「聞けば、分かる?」
「分かる人には分かる」
「ヨッくんは分かるの?」
「ヒロちゃんよりは分かるさ」
「そうか!」とセンター2階の200畳敷きの大道場を見渡すと、それぞれがてんでんばらばらに、尻の下に折り重ねた座布団を敷いてあぐらを組んで、なにやらブツブツとつぶやいたり、呪文テープをウォークマンで聴いたり、壁の前に並ぶディスプレイを使って『大いなる人』の修行を真似たりしています。
芳雄くんはウォークマンを耳に付けて、となりでもう瞑想状態に入りました。
「さすが先輩ね」と冗談っぽくつぶやいた宏美さんは、ビデオとテープを使う初心者のコーナーに行きました。ディスプレイで棚の上に何本もあったビデオの1本を回すと、一般の白い修行衣と違う襞の多い紫の衣服を着て、頬の肉がたるむほどデップリと肥えた、頬から顎にかけて毛むくじゃらのまだ40前後の『大いなる人』が、何やら呪文を唱えながら印をさまざまに結びつつ腕を自在に操り、時に奇矯な声を発しているのです。
「マンガのようで面白いじゃん」と物珍しさも手伝って見入るうちに、またたくまに1時間が過ぎました。宏美さんが巻き戻してまた再生しかけた時、
「熱心だねえ」と背後からいきなり芳雄くんが肩を叩くので、
「バカね、脅かさないでよ」と宏美さんは赤い唇をムッと突き出しました。「もう終わったの?」
「さっきからヒロちゃんの背中をずっと見てたんだ」
「何よ、それ?」
「まるで恍惚状態だった」
「ほんと?」
「オレより才能があるみたいだなあ」
「ほんと!」と宏美さんは嬉しがりましたけれど、もちろん、本当に嬉しかったわけではありません。嬉しい態度を装っただけでしたけれど、月1万円の会費は高くないわ、と納得したのも事実です。
スピリチュアル・センターでは絶えず「自分を捨ててみなさい」と説いているのです。「あなたが今まで歩んで来た道で、たった1度でも、自分のいない自分に出会ったことがありますか?.たとえば、夏になるとうるさくつきまとって血を吸う蚊にもまた生命が宿るのだと内省して、1度でもそのまま吸うに任せたことがありますか?.いつかどこかで、何か喜捨したことがありますか?
ひたすら自分の殻に閉じこもって、1歩でも他人より先を走ろうとして来たのではありませんか?.ちょっとでもいい点を取って友達に勝ち、ちょっとでもいい大学に入って隣近所を驚かせ、また、ちょっとでもいい会社に就職してちょっとでも高い給料を得ることが、人生の目的ではありませんでしたか?.それが達成できれば優越感に浸り、出来なければコンプレックスに悩まされて来たのではありませんか?
しかし、その後、いったい何があなたに残されているのでしょう?.古今東西、誰ひとり逃れることのできなかった『死の影』に、いずれあなたは怯えることになるのです。そして、その死とは『自分の消滅』に他なりません。
しかし、ちょうど蛇が古い皮を脱皮して成長するように、いわゆる『自分』を脱ぎ捨てていけば、あなたの目前に『大いなる生命の海』が開けてくることでしょう。それが、『大いなる悟り』なのです。
修行衣に包まれ、すべてを捨て去ったあなた自身と、まず向き合ってみましょう。そして1歩1歩、あなたを超えたあなた自身に巡り会っていきましょう」
それは心地よい音楽のように(実際、BGMと共に)、ウォークマンを耳にした宏美さんの心に染み渡るのでした。そして、大学で薬学の実験のある日でも、ひとり車を駆ってセンター通いすることが多くなったのでした。
「教授が心配してるぜ」と、助手席に乗り込んで来た芳雄くんが言いました。「このままだと単位が取れなくなるかも知れないって」
「だから、ヨッくんがいるんでしょ」と言いながらハンドルを握った宏美さんは、アクセルを踏み込みました。「実験ノート、コピーさせてね」
「だけど、あれは出席が前提だから、顔を出さないとまずいよ」と言って、芳雄くんは急発進した車のシートに倒れかかりました。「そんなこと、ヒロちゃんだって知ってるだろ」
「わたし、1年間、休学しようかなって考えてるの」
「えっ?」
「今、とっても大事な段階に達しているから、センターを離れたくないのよ」
「おいおい、本気かよ?」
「わたし、タントラを受けるつもりなの」
「ええ!」と芳雄くんは驚きました。「あれは一言で言や、セックスだぜ」
「ヨッくんはまだそのレベルをウロチョロしているのね」と対向車がいないことを確認してから、宏美さんは深い侮蔑の眼差しを芳雄くんに向けました。「とうていその先には行けない感じ!」
頭の中で素早くさまざまな想念を巡らせて黙り込んだ芳雄くんは、黄色に変わる信号機を眺めながら、
「それに、あれは幹部候補生になることだろ?」と尋ねました。
「らしいわね」と宏美さんは信号が赤になった交差点を無頓着に突き抜けました。
「センターに住み込むことになるんだぜ。しかも、どこのセンターに回されるかも分からない」
「だから、休学するのよ」と宏美さんは意に介しません。
「オレはどうなるんだ?」
「どういうこと?」
「キスまでしかさせないオレを差し置いて、どこの誰とも分からない奴と食っ付くのか?」
「下品な言い方、止めてちょうだい。やっぱりあなたはセックスは我欲の実現としか考えられないのね。それを180度回転させれば、忘我の境地に至れるのに!」
「そんな話、たわごとさ。それが出来れば、ゴータマ・ブッダも出家しなかっただろう」
「だから、ある意味で『大いなる人』はゴータマ・ブッダを超えているとも言えるのよ」
「相手は『大いなる人』なのか?」
「そう!」と宏美さんの得意げに鼻をうごめかしました。「分かった?.だから安心なのよ」
「そうか」と芳雄くんはつぶやきました。「それで、オレにはこんなものが来たんだな」
「何が来たの?」
「脱会勧告さ」と芳雄くんはブレザーのポケットから1通の封筒を取り出しました。「オレはここのスピリチュアル・センターには不向きだから、止めた方がいいって言うんだ。どういう意味か掛けあおうと思って付いて来たけど、その気力が無くなっちゃった」
「そう」とつぶやいた宏美さんは、「だけど、ヨッくんはヨッくん、わたしはわたしよ。関係ないわ」と強い口調で言い捨てました。「恋愛も含めて、この世の束縛から逃れないことには、本当の解放はないのだから!」
暗い夜の底で山影が幾つもの峰を結んで黒く延びているもとに、1本の道路が所々の外灯に秘やかに照らされて、真っ直ぐスピリチュアル・センターに続いているのです。忘れた頃に向こうからやって来る車のヘッドライトが闇を揺すぶるように徐々に明るみ、猛烈な風の音と共にたちまち過ぎ去って、すぐまた闇の中に1台だけ取り残されてしまうのです。
「降ろしてくれないか」と芳雄くんは疲れたように言いました。
「こんなところで?」と宏美さんは驚きました。「どうして?」
「いいから、降ろしてくれ。オレはあっちの方角に行きたくないんだ」
ちょっと迷った宏美さんは、
「いいわ」と同意しました。「今日はその方がいいかも知れないわね。夜のヒッチハイクもしゃれてるかも?」
「しゃれてねえよ!」とふてくされたように言って車を降りた芳雄くんは、宏美さんの乗った車が赤い尾灯を残して見る見る闇の中に吸い込まれていくのを見送ったのでした。