花火
月に1度、わたくしはY谷の婦人たちと念仏講を営んでいます。そのいわれを知る人はなく、古い木箱に収められた南無阿弥陀仏と書かれた掛け軸と、ロウソク立て、花瓶、香炉などの仏具とが月当番の家に運ばれて、読経、法話、そして最後に茶菓の接待が、1時間ほどかけて行われるのです。ここ10年余り、古い奥さんが亡くなっても、若奥さんが受け継がなくなり、20人以上いた参加者が今では10人ほどに減っているのです。
さて、その夜も読経と法話が終わり、円座になって茶果を口にしていた時、ワイワイと表の道路が俄かに賑やかになりました。
「まあ、どうしたんじゃろ?」と小松の奥さんが言うと、
「外はもう寒かろうに。酔狂じゃなあ」と田頭の奥さんが冗談めかして言って、みんなを笑わせました。
そこへ月当番の家のご主人がやって来て、
「小松さん、大変じゃが!」と言いました。「お宅が火事でえ!」
「ええ!」と小松の奥さんが甲高い声を発しました。「ほんとですか?」
「ほんとじゃが。よう燃えとる。早う帰ってんないと、いけんで」
「そりゃまあ、どういたしましょう」とあわてて腰を上げ、「それじゃあ、みなさん、お先に失礼します」とていねいに頭を下げて出て行った奥さんの表情は、明らかにこわばっていました。
それからもう念仏講の体をなさず、てんでんばらばらに外に出ると、淡い外灯の下で普段は静かな夜の道路に知った顔やら知らぬ顔やら様々の老若男女が、中には寝巻にガウンという姿で飛び出していたのです。そして谷の入り口の方角をめざしていたのです。
西に突き出た黒い山影の辺りから、頭上に広がる空を覆うほどにモウモウと黒煙が立ちこめ、時に火の粉が赤く輝きながら舞い上がってやがて散り、消防車のサイレンがけたたましく谷間にこだましています。
余りの雑踏にわたくしは車をあきらめて歩いていくと、山の麓の、田畑の向こうの土塀と庭木に守られた小松家の広壮な家が煙に包まれ、2階の窓から炎を噴き出していました。
「オーイ、早くしろ!」と消防士が叫び、ホースが繰り出され、放水が始まったところです。火の勢いが強く、風も激しくて、「山火事になったら一大事じゃなあ」とわたくしの隣で誰か不安がりましたけれども、確かに風が猛烈に谷に向かって吹き込むたびに、道にたたずみ見上げているわたくしたちに向かって、熱した空気がドッと吹き付けてくるのです。黒煙がまるで生き物のように低い不気味な轟きと共に、わたくしたちの上に覆いかぶさって夜空を渡り、またたく間に立ち去って、今度は山肌を黒く呻きながら這い上がり、また、時に不思議に真っ直ぐに立ち上がったりするのです。
そして、ボッという空気の膨張音と共に家全体から火の手が上がり、庭を隔てて並ぶ両隣の家々を異様に深い陰影で赤く浮かび上がらせたのち、ボワッと丸く赤い火炎がゆらめきながら宙に浮かび上がった時には、「おお!」とわたくしたちは思わず感嘆の声を発しました。そして、風にあおられてこちらに向かい、「ああ!」と叫んで逃げ出す人もいましたが、すぐに、自らの炎に自ら焦げるようにゆったりと、その火の玉は黒煙の上がる闇の中に消滅したのでした。
谷の中央を流れる小川の水だけではとうてい間に合わず、何本ものホースをつないで谷の入り口のY池から大量の水を汲み出してからようやく、遠く星の瞬く秋の夜空にいくつもの放水の束が勢いよく懸け渡されるようになり、炎が鎮まり、まとまって吹き上げていた煙も細い筋を引くようになったのです。
消防車とホースとが入り乱れた谷はその間ずっと交通が遮断され、わたくしが車に乗って帰った時はすでに真夜中でした。
小松さんの本宅は全焼しましたが、さいわい離れが無事で、当面の生活はそこで維持できるとのことでした。ご主人が操作したガス風呂の火が強風で飛び火したのだろうとのことですが、谷の人々は半信半疑です。というのは、この1年、ボヤ騒動が何件も起きていたのです。
「わしがいくら説明しても、納得してくれんのですらあ」と、報恩講参りでたまたま日曜日に訪れた、派出所勤務の池端さんがこぼしたものです。「これはまちがいなく失火じゃ言うても、『また火が出たらどうするんじゃ?』の一点張りですからなあ。お宅の門徒の多い谷じゃけえ、ひとつ説得してくださいや」
「谷の人は放火を恐れているんでしょうねえ。いくつもボヤが起きてるそうじゃありませんか」
「そりゃあ事実です」と、人の良さそうな池端さんの表情が俄かに引き締まりました。「その件はまた別途、調査中です」
「早く捕まえてもらわんと、ぼくも困るんですよ」とわたくしは言いました。「どこの家も放火を恐れて犬を飼い出しちゃったから、あの谷に行くと、どこからワンワン吠え立てられるか分からんのですわ」
「ははは!」と池端さんは笑いました。「警察の面目にかけても、早く逮捕せんといけませんなあ」
後で聞けば、ボヤはY谷だけでなく、K町全体で何件も起きていたそうです。それもこの1年のうちにY谷のあるK山の近くに集中していたから、近隣の警察官も動員して、夜警を強化していたそうです。当然、K派出所の池端さんは毎晩のように夜警に出なければなりませんでした。
そんな年も押し詰まった風の強い夜のことです。K駅の西のスーパーマーケットの倉庫からボヤが上がったとの通報があり、池端さんは現場に急行しました。そもそも、失火の起こりようがない場所でしたから、放火だと確信できたのです。
そして最初の目撃者の証言を聞き、黒く焼けただれたポリバケツを懐中電灯で照らして調べていると、ピーピーと無線機が鳴り出しました。
「何じゃ?.どうぞ」と池端さん。
「またボヤです。どうぞ」
「ええ?.それでどこなんじゃ?.どうぞ」
「それが、派出所のすぐ道向かいの家の裏なんです。どうぞ」
「ええ!」とさすがに池端さんも驚きました。「そりゃあ、わしらに対する挑戦か?.どうぞ」
「捕まえないことには何とも言えませんが、その可能性はあるでしょうねえ。どうぞ」
「ええい!」と無線機を切った池端さんは、その場にもう1人の警官を残し、Y谷の入り口にバイクで駆け付けました。犯人は谷の人間にちがいない、きっとまだ谷に帰っていないにちがいない、と咄嗟に考えたからです。
K山を巡ってY谷に通ずる道と、駅の近くから国道を渡ってY池と小学校との間を登ってくる道とが出会う広々とした三叉路で、池端さんは帰宅途中の車を呼び止めては、
「これからお帰りですか?」と言葉をかけ、さりげなく車の中を観察しました。「またボヤが発生しましたから、気を付けてください」
「寒いのにご苦労さまじゃなあ」と気づかってくれる馴染みの人もいれば、
「まだ捕まらんのか。しっかりせえよ」とむしろ揶揄する、新しくできた団地の住人もいました。
そして夜が更けて、無駄足だったかと帰りかけた頃、山を巡る道をヘッドライトを点けた自転車が登って来たのです。
「もしもし」と池端さんが声をかけると、16、7の少女でした。
「ずいぶん遅いんじゃなあ。お父さんやお母さんが心配してじゃろう。連絡しとるんか?」と、孫のような少女に池端さんの表情はゆるみました。
「塾の帰りです」と少女は静かに答えました。
「なるほど、現代っ子は大変じゃなあ。早く帰りんさいや」
黙って少しだけ頭を下げてまた自転車を漕いで去っていく少女の後ろ姿を眺めていて、ふと落とし物に気づき、池端さんが路面を懐中電灯で照らすと、そこにはマッチ箱が落ちていたのです。そして、箱の中には大量の使用済みのマッチの軸が入っていたのです。
……
「警察が把握しとったんは8件じゃったが、15件もあったんか」と、机の向こうで静かに椅子に坐っている少女を眺めながら、池端さんは嘆息しました。「これだけ正直に自白してくれたのに、どうして動機が言えんのかのう?」
黒髪をうなじ辺りで切り揃えた少女の端正な顔立ちには、少しも心の乱れが窺えません。補導された少年や少女に共通している、自分を閉ざした心の堅さがちっとも感じられないのです。
「お父さんもお母さんも、本当に心配しとられるよ」
「すみません」
「せっかく苦労して働いて、新しい家を買ったのに、また引っ越さにゃあならんかも知れんと、心配しとられた」
「すみません」
「聞けば、学校では友達も多いし、成績もいいそうじゃのう。担任の先生もびっくりしとられたぞ」
「すみません」
「おじさんはな、できれば穏便な形ですませたいんよう。じゃけどな、そのためにはなぜこんな反社会的な行為を繰り返したのか、その動機がはっきりせんことには、なかなか人に理解してもらえんわなあ」
「理解してもらわなくてもかまいません」と、少女は強い口調で答えました。
「そういう態度がいかんのじゃ!」と池端さん。「まるで1人で生きとる気分になっとろうが。いいか、今のエリちゃんがあるのも、お父さんやお母さんや学校の先生や、その他いろんな人たちの願いや苦労のおかげじゃろうが。それを少しは考えてみんさいや」
「すみません」と、少女はまた静かに繰り返すのです。
しばらく腕組みをして考え込んでいた池端さんが、
「小松さんのお宅が焼けたのを見たじゃろ?」と問いました。
「はい」
「どう思うた?」
少女は静かに目を凝らしたままです。
「わしは、あれこそ地獄じゃと思うたなあ。リエちゃんがやろうとしたことは、地獄をこの世に呼び寄せることなんじゃよ。多くの人に迷惑をかけるし、何より自分を傷つけることになる」
「でも、おじさん」と少女は瞳を上げました。「傷つけば、それは自分だって分かりますよね?.生きてるって感じがしますよね?.1度でいいから、わたし、生きてるって感じを知りたかったんです。わたし、人生に疲れちゃったんです。それなのにまだこんな人生が続くのかと思うと、本当にうんざりしてたんです。楽しかったのは小学校までで、中学校からずっと、そんな気持ちで生きて来たんです。
あの夜、あれがわたしの作った火の玉だったらどんなに素敵だろうって、そればかり考えてました。1度でいいから、とってもきれいなわたしだけの花火を、この世で見てみたかったんです」
『それが高校生の言葉かのう!』という嘆息を、池端さんはグッと噛み殺したのでした。現に目の前の椅子の坐って、それなりに真剣なまなざしで訴えているのは、紛れもなく17才の高校生だったのですから……。