地蔵峠
 
 なだらかな傾斜を描いてどこまでも広がる菜の花畑は黄色い花々に彩られ、蝶が舞い、蜂が飛び、低地を流れる浅瀬の川に沿って桜と紅葉の並木道が続いているのです。その向こうの松林の彼方には淡い水色に沈んだ樹海が横たわり、ちょっと信じがたい広がりを見せている裾野の上に、青空を覆うほどに広大な富士山が、白い雪を頂き、湧き立つ雲をちぎりつつ聳えているのです。
 ちょうど3体の地蔵が居並ぶ地蔵峠からの富士の眺望は絶景です。春夏秋冬、穏やかな微笑を湛えた地蔵は、富士を仰いで静かに安らいでいるのです。
 そして、都心から便利なハイウェイがつながったことも手伝って、殊に春と秋とは行楽客でにぎわうようになっていたのです。
 川土手に沿って桜と紅葉を植樹した村長は、その先見の明がつねづね自慢でした。そして、そんな4期16年の実績を掲げれば、次の村長選でも当選が確実視されていたのです。
 村長室の机の上に手を出して、太い指の爪を切っていたその村長のもとに、突然、
 「村長、大変です!」と助役が駆け込んで来ました。
 「ノックしたまえ」と不快げに注意した村長は、爪切りを引出しにしまい、切り取った爪を丁寧に寄せ集めてちりかごに捨てました。
 その間、ちょび髭を蓄えて痩せた助役は、机の前で直立不動の姿勢です。頭が禿げるにつれて口髭が白く深くなった村長が、
 「何かね?」と丸い顔を上げました。
 「もうよろしいですか?」
 「いいから、聞いているんだ」
 「実は地蔵峠の地蔵の首が紛失したんです」
 「紛失?」
 「3体ともポロリと首が切り取られ、胴体だけが残っているんです。観光客から通報があって、わたし自身、確認に行って来たところですが、きれいに無くなっていました」
 「まずいじゃないか!」と村長は叫びました。「あれはこの村の唯一の観光資源だ。わしの力でやっと稼げる段階に来ていたのに、何ということだ!」
 ……
 地蔵の首は、都心から多摩方面に離れた、私鉄の駅の周りにはまだ畑が見え隠れする郊外の、貸しアパートの1室の南の窓に3つ、暖かい日の光を浴びて並んでいるのです。
 日曜日に遊びに来た比呂子さんはそれを見てびっくりして、
 「なあに、これ?」と問いました。
 「いい顔してるだろう」と強くんは畳の上にあぐらをかいたまま、ハンドバッグを置いて白いワンピース姿の比呂子さんがお茶の支度をするに任せています。
 「どこで拾ったのよ?.まさか買ったんじゃないでしょ?」
 「こんなもの、売ってるわけないだろ」
 「じゃあ、どうしたの?」
 「拾ったのさ」
 「どこで?」
 「山の中」
 「いつ?」
 「この前の日曜日」
 「どうして?」と、強くんのすぐ目の前に坐り込んだ比呂子さんが詰め寄りました。「どうしてわたしも連れてってくれなかったの?」
 「ちょっと用事があったのさ」と強くんは窓の地蔵の首を見つめています。「その時たまたま拾ったんだ」
 「うそ!」と比呂子さんが言って、香水の香りをプンと立てて膝と膝がぶつかるほどににじり寄っても、強くんは動じません。地蔵の首に魅せられたままなのです。
 間近でそんな強くんをジッと見つめていた比呂子さんは、
 「ふう」と溜め息をついて立ち上がり、シューシューと沸き出した薬缶のお湯をポットに移し、そのポットと紅茶茶碗と砂糖瓶と、自ら買って来た苺のショートケーキを2つ、テーブルの上に並べました。
 「食べる?」と比呂子さん。
 「うん」と強くん。
 従順な面持ちでショートケーキにフォークを差し込む強くんを眺め、また溜め息をついた比呂子さんは、半ば開いた襖越しの部屋を眺めました。その部屋の書棚には本の代わりに多数のビデオテープが並び、机の上や畳の隅にも堆く積み重ねられているのです。
 初めて強くんのアパートを訪れた時、比呂子さんはビデオテープの多さに呆れました。しかもどれも皆、ホラーやアダルトばかりだったのです。
 「これ、全部見たの?」と尋ねると、
 「ああ」と強くんは素直に頷きました。
 「レンタルで借りれば、安く付くし、第一、証拠が残らないじゃない」
 「買いたいんだ」
 「なぜ?」
 「どう説明すればいいのかなあ」とふっくらした丸顔の強くんは、メガネの奥の瞳で壁を見つめました。「自分の所有物にしたいってことかなあ」
 「あんなもの、集めてどうするのよ」
 「人それぞれだろ」と、強くんは決して比呂子さんの方を向こうとはしません。積み重なったビデオテープの合間の壁を見たままです。
 「会社でも静かで、何が楽しくてこの人は生きてるんだろうって関心が湧いたけど、こんな隠れた楽しみがあったわけだ。毎晩、2時間も3時間も見てるんでしょう」
 「うん」と振り向いて、強くんは無邪気な笑みを湛えました。
 その時、比呂子さんは大きな溜め息をついたものでしたが、それから3年間、溜め息の尽きることはありませんでした。
 夜、一緒にアダルト映画を見ていても、強くんの腕が比呂子さんに伸びることは決してありません。いつまでも画面に気持ちが集中し、時に自ら興奮する強くんを見て、結局、比呂子さんの方から腕を回していくのです。唇を求め、強くんの体の上に押し重なっていくのです。すると強くんも男には違いなかったのですが、比呂子さんの心に不満が残ったのも事実です。
 ただ、強くんはビデオテープから徐々に比呂子さんに惹き付けられていったようです。もっとも、そのために比呂子さんは強くんのいささか常軌を逸した欲求に応じなければならず、生傷が絶えることがありませんでしたけれど……。
 そして最近の強くんは、ビデオの代わりに着せ替え人形に関心を持ち始めていたのです。それも、裸体のフランス人形をベッドの周囲に次々と並べて楽しんでいるのです。
 「わたしでは不満なの?」と洋子さん。
 「うーん……」と強くん。
 「実物だからビデオよりは進歩したような、人形だから後退したような、分かりにくい傾向ね」
 「首から下が邪魔だなあ」と、淡い灯りにぼんやりと照らされている天井を仰ぎながら、強くんはつぶやくのです。「顔だけの方がきれいだ」
 「じゃあ、そうしたら」と比呂子さんはシーツの中から顔だけ出して笑います。
 「でも、元に戻せなくなる」と珍しく笑顔の強くんが振り向きました。
 ……
 窓の外で明るんでいる5月の太陽の逆光線の中で、影を濃くした地蔵の首が3つ、おだやかな微笑を湛えているのです。ショートケーキの最後の1切れを口にし、紅茶で喉を潤していた比呂子さんの目に一瞬、その地蔵の口元が醜くゆがんで映りました。ギョッとして振り仰いで、
 「強くん、あなたまさか……」
 強くんはふっくらとした顔をして、窓に置かれた地蔵の首の方を向いたまま、
 「人形はいくら高価でも、軽いや」とつぶやくのです。「お地蔵さんの首には重量感がたっぷりあって、両手に載せると、存在してるって感覚が凄くするんだ」
 「あなたまさか、わたしの首が欲しいんじゃないでしょうね?」
 「えっ?」
 「わたし、恐い!」と比呂子さんは立ち上がって、あわてて食器類の片付けをして、坐ったままの強くんを見下ろしました。
 「わたし、もう30よ。いくら待ってもその気の起こらない人をいつまでも待つより、別の人を探した方がいいかも知れないんだ。
 わたし、もう来ない!.強くんが本当にわたしが必要なら、ビデオとお人形と、その気味の悪いお地蔵さんを処分してちょうだい。それがあなたが本気だって、何よりの証明になるはずよ」
 そう告げると、ハンドバッグを手にした比呂子さんは、木立ちに囲まれて日の光が眩しい筋をなして降りている、静かな郊外のアパートから飛び出しました。柵囲いされた栗畑の横の小道を走って、個人商店がぽつりぽつりと並ぶ自動車道に出て、踏切を渡って小さな駅の改札口に駆け込んだのです。
 部屋の中にひとり取り残された強くんは茫然としたままです。その姿は、まるで予期していなかった出来事に、初めて心のどこかが疼き始めた子供のようでした。
 ……
 村長室の机の上に手を出して、太い指の爪を切っていた村長のもとに、突然、
 「大変です!」と助役が駆け込んで来ました。
 「ノックしたまえ」と注意した村長は、爪切りを引出しにしまい、切り取った爪を丁寧に寄せ集めてちりかごに捨てました。
 その間、ちょび髭を蓄えて痩せた助役は、机の前で直立不動の姿勢です。口髭がさらに白く深くなった村長が、
 「何かね?」と丸い顔を上げました。
 「もうよろしいですか?」
 「いいから、聞いているんだよ」
 「実は地蔵峠の地蔵の首が出て来たんです」
 「出て来た?」
 「3体の首が、胴体の前にキチンと置かれているんです。観光客から通報があって、わたしが確認して来たところですが、本物にまちがいありません」
 「まずいじゃないか!」と村長は叫びました。「だからわしは、首が戻るまで1年間は待とうと主張したんだ。首なし地蔵は首なし地蔵で、それなりに宣伝効果があったんだよ。それをあわてて代わりの首を据えるから、今度は本物の処置に困るじゃないか!」
 なだらかな傾斜を描いてどこまでも広がる菜の花畑は黄色い花々に彩られ、蝶が舞い、蜂が飛び、低地を流れる浅瀬の川に沿って桜と紅葉の並木道が続いているのです。その向こうの松林の彼方には淡い水色に沈んだ樹海が横たわり、ちょっと信じがたい広がりを見せている裾野の上に、青空を覆うほどに広大な富士山が、白い雪を頂き、湧き立つ雲をちぎりつつ聳えているのです。
 ちょうど3体の地蔵が居並ぶ地蔵峠からの富士の眺望は絶景です。春夏秋冬、穏やかな微笑を湛えた地蔵は、富士を仰いで静かに安らいでいるのでした。