波の眼
 
 「おい!」と男が座敷の縁側の戸を開けました。「奴は眠ったか?」
 保子は頷きました。
 「よし!」とサンダルを脱ぎ捨てて上がって来た男は、座敷を横切り、奥の間の布団の上で普段着のままいびきをかいている保子の夫を見下ろしました。「ちぇっ、極楽の夢でも見てろよ」
 男は両手で夫の両足を抱え込んで、引きずり出し、その頭が布団から外れた拍子にゴツンと音を立てると、ギクッとして、
 「おい!」と保子を振り返りました。「おまえも手伝え!」
 そして、男が頭の方に回って仰向けの夫を脇の下から抱え上げ、保子はその両足を持ち上げて、深夜の庭に運び出したのです。まだ作庭されていない広い庭にはワゴン車が後部ドアを開けたまま横付けされ、後部座席に夫を押し込めて、ホッとした保子が見上げると、秋の月が大きく丸く、暗く澄み切った夜に強い光を放っていたのです。ちぎれ雲が銀色に輝きつつ月に向かい、雲の影が地を走るのが鮮やかに分かるほどに、月の光が降り注いでいたのです。
 「ねえ、これじゃあ人に見られてしまう」と保子は、運転席に回っていく男に声をかけました。「今日は止めようよ」
 「今さら止められるか」と男は低い声でつぶやき、「さっさと釣り竿とクーラーを持って来い!.それに奴のサンダルと!」と怒鳴りました。
 玄関に戻ってまとめていたそれらの品々を手にしてまたワゴン車に向かう途中、何気なく振り仰いだ保子の眼に、2階の窓が少し開いているのが映りました。
 「やっぱり止めようよ」と運転席の窓の外から保子が訴えます。「子供が見ている」
 「うん?」と助手席の方に体を伸ばし、車の窓から男も2階を見上げました。「暑いから、開けて寝てるのじゃねえのか?」
 「そんなはず、ない」
 「真夜中だぜ。ガキが起きてる時間じゃねえや」
 「きっと隆二よ。あの子はちょっとした物音ですぐに目が覚める子なの」
 新しい屋根の上で鬼瓦の憤怒の形相が月の光に照らされてハッキリと分かる、豪壮な屋敷の2階の窓の1つが確かに開いて、レースのカーテンが風にかすかに白く震えているのです。
 「いくつだ?」
 「10才よ」
 「まだ物の分かる年じゃねえやな」
 「もう分かる!」と保子は思わず声を張り上げました。「ねえ、今日は止めよう」
 不意に車から降りて来た男は、保子の腕を邪険に掴んで助手席にその豊かな体躯を押し込んで、バタンとドアを閉め、後部座席のドアもバタンと勢いよく閉めて、再び運転席に戻って、
 「今さら止められるわけねえじゃねえか!」とアクセルを踏んで激しくハンドルを切りました。
 窓を切る風に目頭に浮かんだ涙の粒を吹き飛ばしつつ振り返った保子には、月の光を浴びて白く浮き上がった自宅の2階の窓が、ソッと閉じられた気がしてなりませんでした。
 明るい月の光に白と黒の影を深くした稲穂の揺れる田んぼ道をワゴン車は走り、風に鳴って黒い木の葉を空に散らす山の麓を左折して新しい広い道路に出ると、まっしぐらに南に向かいました。山と海を結ぶ広い道路は昼間と違って大型トラックが次々と疾走し、時に若者のオートバイがさらに速く駆け抜けているのです。
 「ちぇっ、いい気なものだぜ」と男は楽しげでした。「オレがちょっとハンドルをひねりゃ、あんなオートバイなんてガードレールの向こうに吹っ飛んでいくのを知らねえのかな」
 いったん山間を走った車は再び平地に出て、大きな弧を描いて裾野の広がっているZ山を視野にとらえ、その麓を巡って東西に走る高速道路の黒い壁のような橋脚を瞬く間に駆け抜けて、ゆるやかな下り坂をF市の郊外に向かって降りて行きました。真夜中とは言え、街外れで国道と交差する辺りは車が目立ったのですが、国道を横切って入り江に架かった橋を渡ると、徐々に減り、周囲はまた田畑の見え隠れする郊外で、左折して海に向かう頃にはもう他の車の姿はありませんでした。
 そして、小さな山に駆け上がると眼前に海が開け、その向こう岸には製鉄所の灯りがどこまでも、海面に揺れながら続いていたのです。
 山の南は海に向かって干拓が進められ、道路が通って工場が点在する地域もあれば、まだ堤防の中に水が残り、その周りをセイタカアワダチソウが被っている地域もあるのです。堤防に沿ってまっすぐ南に走っていくと、やがてヘッドライトに1台の車が浮かび上がりました。その車の横にワゴン車を停めて、
 「おい、出ろ!」と男が保子に命令します。
 外は海から吹きつける風が激しく、乱れた髪の毛が保子の頬を打ち、スカートの裾がパタパタと小刻みに震えます。
 後部ドアを開けてまた車の中に入った男が、
 「足を持て!」と再び命令し、前屈みになって保子が夫の足を抱え込むと、男は脇の下に両手を差し入れて、
 「下がれ!」と怒鳴りました。「いいか、転ぶなよ。転んで妙なところが傷ついたら、怪しまれるからな」
 大の男を抱えて後ずさるのは保子の手に余り、よろめくたびに男の叱咤を浴びながら2人とも外に出ると、今度は男が後ろ向きに先に進み出し、
 「しんどい。ちょっと休ませて」と保子が懇願しても、
 「時間がねえ!」と男は受け付けません。
 ドッドッドッと沖合から押し寄せて来る波を渡って激しく強く、夜の潮風が保子の顔を叩きます。
 「いいか、おれが先に石段を降りて行くから、急ぐなよ」とダランと垂れた夫の、力なく横向きに垂れた顔の上から男が叫びました。「おめえがあわてると、おれが踏み外すんだ。分かったか」
 声を出す気力もなくなった保子は黙って頷いて、へっぴり腰で1歩1歩、男が海に続く石段を降りて行くのに従って、自らも降りて行きました。ドーンとテトラポッドにぶつかった波が、月の光にきらめきながら大きなしぶきを夜空に跳ね上げ、保子に降りかかります。
 「ちくしょう!」と男が叫びました。「とんでもねえ夜だ!」
 胸元まで海につかった男は、揺れ騒ぐ波にバランスを失って思わず保子の夫を海に落とし、
 「もういい!.足を下ろせ!」と保子に命じ、降りかかる波を顔を振って払いつつ、保子の夫の首筋を海の中で掴んで放しませんでした。夫の体はクラゲのようにゆらゆらと海面に揺れ、その足の裏の皺の形までが月の光に照らされて、保子の目に焼き付きました。
 「もういいんじゃない」とずぶ濡れになった保子がいくら止めても、男は執拗に夫の首を海の中で掴んでいました。
 そして、大きく激しく吐息しながら、堤防の上でうずくまっている保子のところに上がって来たのです。
 「おい、行くぜ」と男が促したけれど、保子はうずくまったまま、海を渡る風に乗って次々と押し寄せて来る、無数の波を見入っていました。月の光に照らされて、1つ1つの波に1つ1つの眼が開いて(それは切れ長の、しかし大きな瞳がじっと一点を見つめているのでしたが)、陸をめざしているのです。ドーンとしぶきを上げて粉々に散って、しかし倦むことなくまた沖からやって来るのです。無表情で無関心な眼が、そのためにかえって疲れることもなく、夜の海を渡りつづけているのです。
 「ちぇっ、早くしろよ」と男が保子のもとに戻ると、保子はうずくまったまま、両掌を合わせていました。ナムアミダブツ、ナムアミダブツとつぶやいていたのです。
 「ばかやろう!」とたちまち憤怒の形相と化した男が、激しく保子の頬を打ちました。「てめえが自分の夫を殺しておいて、ナムアミダブツはないだろうが!.ふざけるな!」
 そしてその髪を引っ張って、よろめきながら付いて来る大きな体をワゴン車の中に押し込めました。運転席に入った男はまだ怒りが収まらず、
 「五分五分はやめた。1億が手に入ったら、全部おれが頂く」と宣言しました。「こんな手助けを五分五分でやったんじゃ、割が合わねえや。てめえはイヤな奴から解放されたんだから、それで十分だ」
 「まだ家のローンが残ってるのよ!」とびっくりした保子が訴えると、男は押し殺した声で、
 「ガキが3人、残ってるじゃねえか」と言い放つのでした。