火宅の街
 
 飛行機から空中に放り出されたようなショックと共に、吉川夫人が夜のベッドの中で目覚めると、ベッドの脚が床を激しく叩きつづけていました。そして、家中がガタガタガタと鳴り響いていたのです。「地震だ!」と驚き、ベッドの頭にある書棚が倒れかかったらどうしようかと不安を抱きつつも、揺れが静まるまで、夫人はパチリと目を開け、布団の中から暗い闇を見つめているばかりでした。
 揺れがやんでから廊下に出ると、息子もドアを開けて、
 「ママ、大丈夫?」と尋ねます。
 「ええ。和彰ちゃんは?」
 「大丈夫だけど、激しかったなあ!」
 「ほんと!」と言いつつ、夫人はダイニングとリビングを兼ねた広間に行って、飾り棚の上から落ちたスタンドや人形が足に引っかかり、ガラスの破片が散っていないか気がかりでしたが、灯りが点かず、確認のしようがありません。
 「地震は懲りごりよ」と夫人がカーテンを開けてみても、街はまだ深い闇に閉ざされていました。
 「オレは寝るよ」と高校生の息子はすぐまた手探りで自分の部屋に戻りましたけれど、夫人はもう眠れそうにありません。白々と夜が明けるまで、厚いガウンを羽織って、海に向かって広がっている街を眺めていました。
 低く垂れ込めた雲間に次第に朝の光が射して来て、ビルの林立が黒い影をくっきりと大気に刻み込んで浮かび上がって来るに連れて、西の空に1筋2筋3筋、さらに注意を凝らすと、4筋5筋6筋といくらでも黒い煙が立ち昇っているのが見えました。煙の下に赤い炎がチラチラと揺れるさまも見分けられ、夫人はやっと、ただならぬ事態に立ち至ったのだと悟りました。まもなく、パタパタパタと遠い音を地上に落としながら、何機ものヘリコプターが黒煙の合間を縫うように飛来して、街の上を旋回しつづけます。それはどこか現実離れした、アメリカ映画の1コマのような印象を夫人に与えるのでした。
 「ママ、水が出ない!」と再び起きて来た息子が訴えます。「トイレにも行けない」
 「水槽に1回分の水はあるでしょう」
 「それは今、オレが使ったから、次から出ないよ」
 なるほど、キッチンの蛇口のレバーを回しても水が出ませんし、第一、まだ電気が切れたままだったのです。その間にも街の西の方からどんどんと黒煙が広がり、火の手が赤く燃えつづけているのです。そして、グシャリとつぶれたり大きく傾いたりした数々のビルも、夫人の目にハッキリと映るようになったのです。
 「和彰ちゃん、これは大変な地震だったらしいわね」
 「学校は休校になるかなあ……」とつぶやく息子の声には強い期待感が込められています。「行けるわけないや!」
 明るい朝の光を通して改めて眺め回すと、自分たちの住んでいるマンションのすぐ下あたりから、屋根瓦がずれたり、植木が倒れかかったり、電信柱が傾いたりしています。廊下では着のみ着のままの隣人たちが白い息を吐きながら口々に恐怖を語り、めったに言葉を交わすことのない隣の藤田夫人とも吉川夫人は夢中で語り合いました。藤田夫人の部屋は家具の向きが悪かったためでしょう、タンスの引き出しが飛び出して衣類が部屋中散乱し、水屋の食器類も引き戸のガラスが割れて勢いよく散らかって、床から食卓から、果ては向かいの流しにまで飛んで、粉々に砕け散って足の踏み場もないと言うのです。
 「ほんとにお気の毒でしたねえ!」と吉川夫人は心から同情しました。「隣同士でもそんなに違うのですねえ!」
 「いろいろと方角の占いまでしてもらって、何から何まで配置を決めたのですよ」とよく太った藤田夫人の目に涙が浮かびました。「そのために高いお金まで払ったのに!」
 正午前に電気が点いて、テレビで初めて地震の全貌を知った吉川夫人は、その規模の大きさに改めて驚愕しました。夫人の住む辺りがもっとも被害が少ないようでしたが、それでも断水は深刻な事態です。しかし、街の背後に連なる山々からの水路が近くを走っていて、息子がポリバケツを提げて何度も往復して水を確保してくれました。主人が単身赴任の吉川夫人にとって、男手といえば17才の息子だけだったのです。
 むしろ息子はそんな非日常的な生活に魅せられたようでした。中学以来、めったに言葉を交わすことのなくなった息子の心を久々に目の当たりにすると、それは確かに夫人がかつて熟知していた息子に違いありませんでした。そして黙々と非常事態に対処していく息子の姿には、大人の力強さが加わっていたのです。
 また、食器の貸し借りやら食品・調味料のやり取りやら、あるいは冬の水路に出ての冷たい洗濯やらで、夫人は初めて周囲の隣人たちとも親しく交わり、たとえば隣の藤田夫人の大柄な体躯通りにゆったりとした人柄に、心温まる思いがしたものです。
 そうなんだ、と夫人は独り心につぶやきました。人はほんとはみんな心優しいんだ。だけど、そんな機会を奪われて、人は生きているんだわ。もちろん、このわたしも含めて……。だから、心の優しさを確かめ合える機会を、人は求めているんだわ。災害を通してでしか分からなかったのは悲しいことだけど、でも、何か生きてるって感じがする。今のこの気持ちを大切にしたい……。
 しかし日が経ち復興が進むに連れて、人々の間に結ばれていた連帯の絆は切れていき、また元のそれぞれの利害の穴ぐらに戻っていきました。被害状況が違い、したがって県や国への要求もさまざまで、
 「もっと互いに譲り合ったらどうでしょう?」と会合で初めて、吉川夫人が怖ず怖ずと提案すると、
 「あなたは被害者とも言えない被害者だろ!」とそばの男性にピシャリと言われました。「黙って結論に従えばいいんだよ!」
 そう言われると、夫人にはもう二の句が継げません。時に怒号も飛び交う会合が終わるまで、集会所の隅のテーブルにいて、出されたお茶を飲み、回された茶菓子を手を出すことなく隣に回すばかりです。
 「補償の多少が今後の生活に大きく響くからなあ」とお盆を前に休暇で帰って来た主人が言いました。「生活を抱えた人はどうしたって、自己本位に考えざるを得ないや」
 「そりゃそうだけど……」
 「うちは幸いマンションが無事だったけど、大破してたと仮定してごらん、こんなに悠長に籐椅子に坐っているわけにも行かない。今頃きっと、役所や関連会社巡りで汲々としてたはずさ。いろんな話し合いにも顔を出さないとならなかったろうし……」
 「そりゃそうだけど……」と、窓際の椅子に坐った主人越しに輝いて見える夏の海を、夫人もまた眺めました。そこには、夕暮れの日の光が熱くキラキラ、キラキラと海面に跳ね返っていましたけれど、行き交う船はまばらです。港に並んでいる赤いクレーンもまだ妙に傾いたままで、窓を開けると、風に混じって砂塵の臭いが吹きつけることも稀ではなかったのです。
 「和彰が大学に進学したら、わたし、田舎に帰ってもいいわ」
 「うん?」と主人がソファの夫人を振り返りました。「あれほど田舎には帰りたくないと言ってたじゃないか」
 「お義母さん、今年、お幾つ?」
 「80過ぎだろうなあ」と答えたものの、主人にもその母親の正確な年齢は分かりませんでした。「とにかく年寄りさ。ここ数年、とみに弱って来てるのは、きみも知っての通りだ」
 「わたしね、何か人のためにできないだろうかって考えてたんだけど、とりあえず身近な人に喜んでもらうことだと思い付いたの。それはまず、お義母さんのお世話をすることなのよね。せめてそれくらいはしたいし、余裕があれば、もっと何かできるかも知れない」
 「いちばん身近な存在はおれだぜ」
 「もちろんよ」と夫人は微笑しました。「だけど、あなたはまだ元気でしょう」
 「まだ働かされるわけか」
 「そうよ」と夫人はまた微笑して、夕陽に明るく赤く凪いでいる海と街と空とを眺めたのでした。