プールサイド
芳恵さんはすらりとした美人でした。大学に入って上京して、いろいろコンパなり何なりあって、5月にもなるとたいてい自分の居場所を見つけるものですが、彼女はまだ大学とマンションを行き来するだけの生活です。なるほど、声をかけてくる男子学生は少なくありませんでしたが、その下心が彼女にはいやだったのです。
お金に困らない家に育った芳恵さんは、それでも無駄遣いするタイプではなく、思い切って会員になって、最寄りの駅の近くにあるスイミングプールに通うことになりました。水泳は好きでしたけれども、ちょっと覗いた大学の水泳サークルは、男子学生の体臭がその廊下にプンプンするようで、2度と行く気がしなかったのです。
広い、明るい、水の音や人の声がカーン、カーンといった感じで響く、人気の少ない真昼の時間帯に、たいてい芳恵さんは週に2度は出かけて行って、クロールで5往復、水に乗ってゆっくりと体が移っていく感触を楽しみます。そして、プールサイドで一休みしてから、今度は平泳ぎで3往復、ゴーグルを外して水面の光の模様が高い丸天井にゆらめくさまを感じながら泳ぐのです。
泳ぎ終えると、シャワーで体を洗って、さて、午後の講義に顔を出すこともあれば、多摩方面の電車に乗ることもあり、そのままマンションに帰ることもあるのです。
「お上手ですね」と、プールサイドで一休みしていた芳恵さんに、端正な顔立ちの、白髪の老人が声をかけました。「隣に腰かけてもよろしいですか?」
黙って見上げた芳恵さんの隣の椅子にその老人は腰かけて、
「学生ですか?」と尋ねます。
「はい」
「もう夏休みでしょう。故郷に帰らなくてもいいんですか?」
「8月になったら帰ります」
「そうですか……。2カ月も実家にいても、することがありませんものね」
老人のどこか醒めた、それでいて優しい声音が、芳恵さんの胸に深く響きました。やがて挨拶を交わすようになり、水の中で偶然、顔を会わせると、
「また、会いましたね」と老人が微笑みかけ、芳恵さんも無邪気にニコリと会釈したりするのです。
大きな薄青色のガラス窓で隔てられた喫茶室に、その老人に誘われて初めて入った芳恵さんは、
「何にいたしましょうか?」と尋ねるウエイトレスの微妙な視線にも無頓着でした。
「アイスコーヒー」と彼女は答え、
「ぼくはホット」と老人が答えます。
表通りに面した喫茶室は意外に客が多くて、こんなに多くの視線に曝されて泳いでいたのかと、芳恵さんはいささか驚きました。
「あなたは人に見られて恥ずかしいボディではありませんよ」と老人は優しく励ましました。
「わたし、大勢の人間には慣れることができないんです」と芳恵さん。
「それは初めから感じていました」と老人は運ばれて来たホットコーヒーを飲みました。「ナルシストなのかな?」
「人間って、多すぎる気がします」
「特に東京はね」
「いえ、日本中、多すぎるし、世界中にも多すぎます」
「はははは」と笑って、老人はもう1口、コーヒーを飲みました。「だけど、殺すわけには行かないですよ」
「でも、死ぬことはできます」と芳恵さんの口調も静かです。「人間の唯一の自由って、死ぬことじゃありません?」
老人の瞳がチラリと光り、静かにストローでアイスコーヒーを口にしている、芳恵さんの愛らしい唇に見入りました。
「ぼくはもう60が近い。だから、あなたの考え方には納得できるし、実行する意志もある。だけどあなたの場合、もっと先延ばしにした方がいいんじゃありませんか?」
「先生!」と芳恵さんは顔を上げて、大学教授だという老人の目をまともに見つめました。「人が生きたいと欲求するのは、ほんとに食欲と性欲からですか?」
「それを否定することは、誰にもできないでしょう」と老人はやや顔を引きました。「もっともぼくのように年を取ると、確かに性欲は減退するし、食欲も以前ほどではありません。その代わり、より贅沢な食事に(それはお金だけの問題じゃありませんよ)こだわるようになりました」
「性欲はどうですか?」と尋ねる芳恵さんの顔に羞恥の色は浮かびませんでした。
「うーん」と老人はからかうような目で、若い芳恵さんの姿態を眺めます。「離婚してもう4年がたちますが、べつに不便は感じませんね。だけど、分かりませんよ、特にあなたのような魅力的な人が相手だと……」
「わたしには生きたいという強い欲求がないんです」と芳恵さんはテキストでも読むように、淡々と語ります。「おいしいものをおいしく食べても、また絶対に食べたいとも思いません。もちろん、おなかが空けばお店に行って、おいしい物を買って帰って食べるけど、それが生きがいにはならないんです。だから、そんなささやかな日常生活に満足している友達を目にすると、ずっと不思議な気がしてました。羨ましいとは思いませんでしたけれど……。
それに、男の子が欲しいとも思いません。結果が見えてて、疎ましいんです。静かに、サラリと生きることがわたしの願いなのに、はたしてそれが生きることなのかと、いつも疑問に感じていました」
「それは恵まれた者の悩みかも知れませんねえ」と老人は静かに評しました。「悩みがあれば、人はその克服にあくせくするが、ないとなると、無理にでも作らなければならない。人は誰でも、痩せたソクラテスでありたいんじゃないでしょうか?」
「仰る意味は、何となく分かります」
「ご家庭に不満はないのでしょ?」
「はい」
「学校や友達にも?」
「ええ」
「特に就職を考えなくても、親は困らない」
「たぶん」
「そしてたぶん、ぼくはこの年齢のおかげで、あなたと気軽に話し合える光栄に浴したわけだ」
「……」
「だけど、本当のぼくを知りたいという好奇心があなたにありますか?.あれば、今とは違った感覚に目覚めるかも知れませんね」と言って、老人はその端正な唇にニヤリと笑みを浮かべました。「もちろん、これはあなたを誘惑する罠を仕掛けているんですよ」
「わたしにとって、みんな同じことです」
芳恵さんが老人のマンションを訪れるようになったのは、それからまもなくのことでした。山手線からさほど離れていない、緑に囲まれた一角にある、そのマンションの7階の窓に映る東京の夜は、まるで深い闇の底にうごめく光の渦でした。
窓際の椅子にもたれかかってワイングラスを傾けて、老人の思い出話(それは終戦後の混乱期から始まり、大学の医学部に勤めるようになる時期でたいてい終わるのでしたけれど)を聞きつつ、ウトウトとしていつの間にか眠りに落ちて、毛布を掛けてもらった椅子の中で朝の光に目覚めたこともありました。
そうして2年間が経っても、2人は依然、プールサイドで言葉を交わし、時に喫茶室で静かに話し、また稀に老人の部屋を訪れる間柄だったのです。
「あなたには悪いことをした」と老人は悔いの色を静かにその顔に表わしました。「あなたの世界を開くつもりで、かえって閉ざしてしまった。そもそも、ぼくのような人間に、人の心の鍵を開ける資格などなかったのです」
「そんなことはありません」と成人してさらに美しくなった芳恵さんが静かに答えました。「わたしの他にわたしのような人間がこの世にいることが分かって、とても安心しました」
「それは安心できるような事態じゃありませんけどね」と老人は苦笑します。「決して2人の外には広がって行かない世界なんだから」
「1人よりはましです」
「しかし、1人の方がまだ世界全体が開ける可能性があった。ぼくはその可能性を閉ざしてしまったんです」
「わたしは幸福です」
「ほんとに?」
「この世で唯一の幸福は、わたしでないわたしに出会うことだと、先生を知って初めて分かったんです」
「しかしぼくはもうすぐ死ぬつもりです。もうこの世の中に何の未練もないし、生きながらえて老残の身を曝したくない」
「わたし1人、このままこの世に残りたくはありません」
それは老人の予期していた言葉だったのでしょう、黙って窓辺に寄って、緑の森の向こうに広がる東京の明るさを眺めるその後ろ姿に、芳恵さんは明らかな同意を読み取ることができたのです。