浄土
 
 告別式でしばしば、「天国で安らかにお眠りください」とか、「草葉の陰から見守ってください」とか耳にしますけれど、「お浄土」あるいは「極楽」と言い得る人は、それなりに浄土教の教えに親しんでいる人に限られるようです。また、生活の節目々々に合掌する人は現在でも少なくないでしょうが、ナムアミダブツと称える人は稀でしょう。
 合掌は仏教の、ナムアミダブツは浄土教のシンボルと思うわたくしの目には、浄土への感性が鈍くなったのが現代社会だと映らざるを得ません。それはまた、「死」の無視あるいは軽視とも言い得ましょう。「生きる」とはただひたすら生きることであり、そこで「死」は忌み嫌うべき、厭わしい、極端に言えば「悪」なのです。
 自己が「善」だと考えると、「死」はその対極にあり、したがって「悪」だと考えるのも、それなりの論理に貫かれてのことなのです。自己の世界が広がって家族があり、さらにその町があり都道府県があり、たとえば日本という国があり、あるいは国境を超えて人類があると了解しても、生命そのものにまで思い至る人は稀でしょう。人権という言葉が幅広い市民権を得ていますけれど、そこで動植物の権利まで云々するのは、笑止千万に違いありません。
 ただ、近年の地球環境の破壊が生命そのものの滅亡への目覚めにつながりつつあるのもまた、事実です。しかしそれはまだ、「自己」の滅亡への恐怖といった色彩が濃いのではないでしょうか?
 もっとも身近な存在である「自己」から解放されるには、まず「死」に親しむことでしょう。わたくしたちは「死」を決して恐れおののくことはないのです。「死ぬ」とは、「浄土に行く」ことに他ならないのですから……。
 「そう信じられる人はいいが、大半の人はそうは行かないわなあ」とX氏は、余裕のある表情です。「だから、結局、そういう思想は何ら解決策になってない」
 「だけど、考えてみてくださいよ」とわたくしは、天守閣を吹き抜ける夏の風の爽快感に言葉1つ1つが、大気中をころがり去っていく思いでした。「死後については3つの受け止め方しかないんですよ。つまり、ないと考える悲観主義か、分からないと考える虚無主義か、あると考える信仰か、その3つしかないでしょう」
 「ある・ないと断定するのは僭越だから、分からないと答えるのが妥当じゃないの?」とX氏は、胸ポケットからタバコを出しましたけれど、風の強さにあきらめて、すぐまたポケットに戻します。
 「それもまた、僭越じゃありませんか」
 「?」
 「分からないと答えたって、それは分からないという自分の判断に重きを置いてるだけでしょう。いずれを取るにせよ、それは判断あるいは決断なんですよ」
 「だけども、決断するほどの心の準備もないままに、分からないと感じてる人が多いと思うな」
 「生きることは誰にも選べないことですよね。誰1人として、生まれる時と所を選べないわけだから」
 「そりゃそうだ」
 「死ぬこともまた、選べないでしょ?」
 「自殺があるけどな」
 「だけど、再び生き返れないんだから、結局、選べないのと同じことですよ」
 「ちょっと待った!」とX氏は声を上げてわたくしを振り返ります。「生き返れないの?」
 「ええ」
 「だけど、キミたちの宗旨だと、多分、浄土に行って、またこの世に立ち返って来るんじゃないの?」
 「自己を超えた命はそうだけど、いわゆる自己は1回きりのものでしょう」
 「親鸞の生まれ変わりだとか、蓮如の生まれ変わりだとか、キミたちの世界でよく言うのは、そういう意味?」
 「だから、自己に閉じられた命と、自己を超えた大きな命との2つの命を、ボクらは生きているんですよ」
 「それと、死後のある・なしとはどう関わるんだい?」
 「少なくとも社会生活を営む限り、ボクらは閉じられた命を生きざるを得ないじゃありませんか。それは、自己とも自我とも、あるいは煩悩とも言い得るものです。死ぬことは、ある意味で、社会の向こうに行くことでしょう。したがって、浄土を信じないのは、大きな命が見えないことでしょうし、信じることは見えることでしょうね」
 「命の在り方をどう考えるかが、浄土を信じる・信じないのポイントというわけか?」
 「ええ」
 「しかしそれだと、何もナムアミダブツである必然性はない」とX氏はいささか沈思黙考の面持ちです。「アーメンでもアラーでもアダブラカダブラでも、みんなある意味じゃ自己否定なんだから」
 「ただね、それらは仏教ではありませんよね」
 「だから、仏教である必要はないんじゃないの?」
 「信じるという点に限れば、そうかも知れないけど、何を信じるかもまた、大切なことでしょう。浄土真宗で聴聞ということをやかましく言うのも、その信心の内容を吟味するからに他ならないんです」
 「というと、ナムアミダブツだけじゃないんだ。やっぱり勉強しなくちゃならないんだ」
 「たとえ形式だけにせよ、ナムアミダブツと称える人は、それだけでもう仏の慈悲に救い取られているのは事実です。だけどそれは、自己を超えてるんですね。先ほどの表現に戻れば、自らに宿る大きな命は確かに、ただナムアミダブツと称えるだけでも示されているけれど、まだそれが閉じられた命との本当の接点を持っていない状態でしょう。聴聞を通して、少しずつ、2つの命の架け橋が渡されて行くんですよ」
 「信心決定と言うわな。それが関係ありそうだな」
 「そう!」とわたくしは相槌を打ちました。「その時まさしく、2つの命が決定的に切り結ばれるんです!」
 「言うは易し、行なうは難し……」
 「そう……」とまた、わたくしは同意せざるを得ません。「悟るのが難しいように、信心決定も難しいですよ、特に現代人には!」
 「ふーん」と生返事して、低く垂れ込めた灰色の雨雲の下、寄せ集まった山の緑の合間を押し広げてにぎわっている高知の街を吹く風の爽やかさに、X氏は自らの熱気を散らしているかのようです。
 わたくしも密集したビルの白さに南国の夏の明るさを感じつつ、耳元で騒ぐ風の音にしばし聞き入っていたのです。すると、浄土という言葉もまた風に飛び散って、あるいは道行く車のさざめきとなり、あるいは街路樹の緑に揺れる風となり、遠い過去から未来に渡って瞬く間に行き来して、わたくしの目前に揺らめいてやみませんでした。