寄せ鍋談義
 
 近年またテレビに親しむようになって、目新しく感じたことの1つは、料理番組の多さです。グルメの流行がかつて確かに存在し、それが食文化に対する嗜好として今も続いているのでしょう。そこには、善悪を脇に置いて現世を享楽する現代人の性向が、色濃く反映されているに違いありません。また、それを可能にした現代日本の繁栄も、その前提条件に違いないことでしょう。
 フランス料理かイタリア料理か中国料理か、あるいは日本料理にするか、家族揃って1日旅行を試みた帰りの高速道路の車の中で、妻と3人の娘は喧々囂々の議論を戦わし、結局、来春、大学受験を控えている長女の願いを尊重して、フランス料理店に直行することになりました。ところが予約していなかったため目当ての店に入れず、3〜4軒回った挙げ句に、広い道路沿いの、構えの地味な、「リヨン」という若い夫婦が経営するフランス料理店に行き着きました。客はわたくしたちの他には、窓際の席を陣取った若い男女の2人連れだけです。もっともテーブルは5つだけで、わたくしたちがその2つを占領しましたから、その夜は決して不入りとも言えなかったのでしょうが、食後、入り口の、フリルの付いた緑色のシェードを潜って表に出て、その日のメニューを手書きした献立板を目にしながら、
 「つぶれなければいいね」とわたくしは思わずつぶやきました。そこには野外用の白い椅子とテーブルが、寂しく並んでいたのです。
 「ほんと!」と長女も同意しました。「とってもおいしかったから」
 「ここじゃ、目立たんわなあ」
 「周りが暗いしね」
 「Mちゃん、よく知ってたね」
 「タウン誌に紹介してあったの」
 「何だ、この前を通ったことないの?」
 「地図で見ただけ」
 「へええ」とわたくしは驚きました。「それでよく場所が分かったなあ」
 「M子は食べることが生きがいなのよ」と妻が口を出します。「ヒマがあればグルメ本を買って、目を皿にして見てるわ」
 「なるほど」とわたくしは納得し、もう車の行き来のまばらな道路の向こうに広がる駐車場と、それに隣接する、屋上が駐車場になった3階建ての大きなスーパーマーケットを見やりました。この辺り一帯、田畑に碁盤の目状に道路が走り、ここ2〜30年でたちまちイルミネーションの光る市街に変貌した一帯で、店も多く、ワゴン車に乗ると、
 「冬になったら、寄せ鍋を食べに行こう」とわたくしは提案しました。「うまい店を知ってるんだ」
 「うん!」と後部座席の娘たちは賛成しましたけれど、
 「あなた、安易に約束しないでください」と助手席にデンと座った妻がクレームを付けました。「食べ物の話はうちの子供たちは決して忘れないんだから」
 「お母さん、ひどい!」と娘たちが口々に騒ぎ出し、わたくしにその店の場所を聞きたがります。
 T氏、Y氏と共に昨年の冬訪れたその店は、安くてうまくて大量の料理が出ることを売り物にしているチェーン店の1つでしたから、あるいは妻の好みではなかったかも知れません。
 T氏は以前からの知り合いでしたけれど、Y氏とは初対面でした。2人はもう20年来、ある喫茶店の主人を中心にしてコンピュータ談義に花を咲かせてきた仲間だったのです。そして、T氏はとうとう教員を辞めてソフト開発を生活の糧とし、Y氏は会社が倒産したのを契機に電機店に勤める傍ら、無償のソフト配布をインターネットを通じて行なっているのです。
 「先だって、オレのソフトの利用者がわざわざ店までやって来てね。その不具合をいろいろ指摘してくれたのには参ったよ」とY氏。「タダで使ってるんだろ、もっと謙虚になれ、と言いたかった」
 「親切心からじゃないの?」とT氏。
 「いやあ、とうていそういう雰囲気じゃなかった」
 「どこの人?」
 「群馬」
 「わざわざ群馬から来たの?」
 「イヤ、九州に出張した帰りらしかったけどね。結局、昼食代と食後のコーヒー代をボクが出しましたよ」
 「それが目的だったのかな?」
 「だったら、オレは怒るぜ」
 「どんなソフト?」
 「個人用の会計ソフト。指摘されたことはどれもお説ごもっともなんだけど、作る側にもそれなりのお家の事情があるんだ」
 「Yさんにはそれが言えるが、ボクは言えないんだなあ」とT氏。「そこがフリーウェアとシェアウェアの根本的な違いだろうけどね」
 「それにしても」とグツグツと煮えて来た、大きな鍋の中の野菜や魚や肉を取り皿に移しながらY氏。「Tさんはよく思い切って教員を辞めたものだなあ。オレにはとてもそんな勇気はない」
 「安定した生活の中で半ば睡眠状態で人生を過ごすか、伸るか反るかのスリリングな生き方を選ぶか、人それぞれでしょう」
 「奥さんは反対しなかった?」
 「うちのはしない」
 「うちだったら、するなあ」とY氏は微妙な目使いでT氏を眺め、ビールをあおり、取り皿の豆腐を箸で砕いてから口に入れるのです。
 「日本ももう寄らば大樹の陰じゃやっていけないしね。コンピュータ業界なんてそれこそ柔軟に対応しないことには、たちまち世界から取り残されてしまうだろう」
 「そりゃそうだけど、何もTさんが日本を代表して頑張らなくてもいいんだぜ」
 「いやいや」と、Y氏からビールをグラスに受けつつT氏は笑います。「そんな高い志を抱いてやってるわけじゃないよ。好きなことをやって、後悔のない半生を送りたいだけなんだ。40半ばでリストラされていくサラリーマンも多い今のご時世なんだから」
 その言葉はチクリとY氏の胸を刺したらしく、
 「Tさんは自主的にリストラを申し出たってわけか」と氏はやや自虐的に笑いました。「オレは強要されたけどね」
 「Jさんだってそうなんだよ」
 「?」
 「教員を辞めて、自坊に入ったんだから」
 「ジボウ?.お寺さんですか?」
 「ええ」とわたくし。
 「それは、それは!」とY氏は今度はわたくしにビールを注ぎました。「ボクたちの話は、それこそ俗臭紛々たるものでしょう」
 「いやあ、時代の最先端に触れてるようで、愉快ですね」
 「最先端……か」とY氏はぐいとビールを飲み干しました。「その実感があるのは、コンピュータ業界にせよ、ほんの一握りの人だろうなあ。たとえば、マイクロソフトでシステム開発に携わる人たちはまさにその中心だろうけど、彼ら同士の競争の厳しさを耳にすると、オレなんか尻込みしてしまう。もっとも、それだけの能力もないけどね」
 「あの会社は厳しいよなあ」とT氏。
 「われわれが出来ることと言えば、一般の人々の半歩か、せいぜい1歩前を進むことなんですよ。今やTさんはそれを飯の種にしているわけだ」とY氏がチラッと見やると、T氏の表情が一瞬こわばりました。「だろ?」
 「そういう言い方もできるだろうねえ」
 「だってそうやんか!」とY氏。「商売になるのは、データベース・ソフトを作って、いろんなデータ管理に使ってもらうことだけだもの。中小企業や個人経営を相手に最新の技術や機器を導入しても、採算が合わない。第一、こちらも1人だから、フォローできる技術力に限度がある。違う?」
 「その通りだなあ」と、酔いが回っていささか赤くなったT氏は、あくまで穏やかな表情を崩しません。「だけど、それなりの工夫も必要なんだよ」
 「それも、子供だましのような工夫だわな」
 何か気まずい空気が流れ、しばらく続いた沈黙の中で、大きな鍋の中の野菜や肉や魚ばかりがグツグツと吹き出す泡にあおられて、白い温かい湯気を宙に上げているのです。
 「インターネットの楽しさは中心がないことじゃないでしょうかねえ」とわたくしはアサリの殻を広げてその肉を口にしました。「誰でもどこからでも情報を発信できるし、双方向性もあるし」
 「だけど、その背後には巨大産業が横たわっているんですよ」とY氏がわたくしの無邪気さを諭すように言うのです。「現在ではマイクロソフトだし、将来、どこかが取って代わるかも知れないけどね」
 「でも、それは黒子みたいに舞台の背後に隠れてなきゃならないでしょう」
 「だから、余計に恐いんじゃないの?」
 「人の世の中から人の謀りごとを100%排除することは不可能でしょう」
 「そして金が1カ所にどんどん溜まり、それだけ地球の富が収奪されて行くわけだ」
 「でもまあ、少なくとも国の枠を越えた世界が出来る可能性を秘めていますよね」
 「インターネットが?」
 「ええ」
 「どうかなあ……」とY氏はまたわたくしにビールを注ぎました。「英語圏の国々の支配が強まるだけかも知れない」
 「標準語と方言のようなものでしょう」とわたくし。「なるほど、英語が国際語としてますます力を強めるとしても、日本人が日本語を捨てる必要はないでしょう。むしろ、2カ国語になじむことによって、複眼的思考が培われるんじゃないですか?」
 「2カ国語以上、話せる国民は多いわな」
 「そうですよ」
 「オレたちにしろ、プログラムを組むときにはプログラム言語という、一種の言語を操るわけだしね」
 「だから、神話時代から歴史時代、さらにコンピュータ時代へと、言葉の役割が大きく変貌したわけですよ。現代はまさにその真っ直中じゃないでしょうか?」
 「理系のオレには馴染みの薄い切り口だなあ」
 「イヤ、簡単なことですよ」とわたくし。「神話時代には口から口へと言葉が伝えられ、いわゆる言霊信仰がありましたよね。それが歴史時代となり、紙と筆によって、半ば道具化された言葉が使われたわけでしょ。それがコンピュータとなると、キーボードを叩いて言葉をはじき出すわけだから、それはもう1つの客観的な道具ですよ。いわば、美術や音楽同様、言葉もようやく客観性が保たれるようになったと言うことでしょう」
 「それは善いことなの?」
 「見方によるでしょうけどね」
 「いやはや!」とY氏はいささか興ざめの体です。「さすがにお寺さんだけあって、コンピュータ談義も精神論だなあ!」
 「もちろん、インフラの整備がその前提ですよ。光ファイバーなどで大量に素速く通信できないことには、お話になりませんよね」とわたくしはY氏の揶揄に反駁を試みました。「ただ、後は個々人の意欲と能力が要請されていることは間違いないでしょう」
 「そりゃそうだ!」とY氏。「だから、Tさんもたった1人でその世界に飛び込んだわけだ」
 すでに真っ赤になって壁に寄りかかって半ば夢うつつのTさんが、
 「難しい話になったねえ」とつぶやきます。「それでも、ボクは後悔してないよ」
 「Tさんは偉い!」とY氏がビールを傾けても、T氏はグラスを手にすることもなく、目前のグラスになみなみと泡立つビールが注がれるにまかせています。
 わたくしが温かく曇った窓ガラスを手で拭うと、色新しいイルミネーションが新市街の夜を飾り、ジングル・ベルの音色を耳元に秘かに響かせて、隣の店の入り口のクリスマス・ツリーに色とりどりの光が点滅していたのでした。