小笠原
鬱々とわたくしは船に乗り、丸い、波打つ太平洋に出て行きました。夜、アナウンス通り黒潮を越えるときの船の揺れが激しくて、固いベットに横たわり、喉元にこみ上げる嘔吐の感覚に堪えなければなりませんでした。そして朝、昨日とまるで違う空に太陽が輝く下、明るい淡い青磁色の海面が広がっていたのです。
それは確かに、丸い地球のほんの上っ面に水が溜まって海が出来たのだと確信させる光景でした。陸にいると決して分からない、不安定な真実にちがいありません。不安定を不安定と知る心の安定は、しかし当時のわたくしの心に浮かぶはずもありません。
高い波が無方向に激しく上下する彼方に徐々に岩肌が現れて、やがてポツンポツンと小笠原の島々が視界に入って来たのです。それらはいずれも高い岸壁に囲まれ、なるほど、この強い波に抗うには必要不可欠と思われました。
まもなく船は静かな入り江に入って行って、沖合に停泊したまま、わたくしは迎えのボートに乗ってささやかな集落のある父島に上陸したのです。予約していた宿はバンガロー風でした。風呂はガスで沸かすドラム缶そのものでしたから、底が熱いため、足で巧みに敷き板を操って自らの体重でドラム缶の底に敷いて入らなければなりません。
周りに店はなく、観光地と言うより、日本とは異質な時間がゆったりと流れている地でした。フェニックスの並ぶ海岸沿いをわたくしはゆったりと歩き、ガジュマルの気根の垂れる下で、同じ船でやって来たアベックが海辺に戯れるさまを眺めつつ、真っ赤に沈む夕陽を浴びたものです。
翌日、観光案内で知った島巡りの小さな船に乗り込むと、客は昨日のアベックとわたくしだけでした。
「あんた、どこから来なさった?」と、赤茶けた肌の、度の強いメガネをかけた漁師が尋ねます。
「東京です」
「東京?.訛りが違うんだなあ」
「出身は瀬戸内です」
「うん!」と中年の漁師は納得顔です。「そんな気がした」
「分かりますか?」
「わしは、日本中の海をこの船で渡って来たからなあ」
「ご出身は?」
「長崎だなあ」
「お1人ですか?」
「妻も子もおったが、別れた。それからは船が住みかだなあ」
「ここに来られて、どれくらいになるんですか?」
「ここは長くて、かれこれ10年だなあ。いいところだからなあ」
「ええ」とわたくしが見わたす入り江は緑色の静寂を湛えているのです。水は海底の藻が窺えるほどに透明で、船尾のベンチに肩を寄せ合って座っているアベックは手を差し入れています。
「見て、アッくん、お魚よ」と娘が甲高い声を発しました。
「ちくしょう、逃げた!」と男が叫びます。「やっぱり逃げ足が早いや」
「手で捕まえられるお魚なんていないでしょう」と娘が笑います。
「クミちゃんのために頑張ったんだけどさ」
「アッくん、すてき!」
そんな2人を漁師は冷ややかに、しかし口元には微笑を含んで見ていましたが、
「おい、そこのあんちゃん、気をつけな!」と言葉をかけました。「蜂だ!」
「えっ?」
「蜂だよ!」
「キャッ!」と頭上でブンブン回っている蜂に気づいた男は、頭を抱えて娘の胸元にうずくまりました。「オレ、蜂、苦手なんだ」
実際、男はブルブルと肩を震わせていたのです。
「アッくん、大丈夫、わたしがついているから」と娘は意外な落ちつきを見せています。
しばらくブンブン回っていた蜂は、やがて陸をめざして空の彼方に去って行きました。
「蜂は帰れる距離を知ってるわなあ」と漁師は無関心に評しました。
入り江を出ると船は激しく揺れ、また男は娘の胸に飛び込みます。樹木の緑が空と島とを分かつのが見える沖合を移動しながら、わたくしもまた、船の揺れに慣れるまで嘔吐感に悩まされました。
「こんな小さな船で日本中の海を渡られたんですか?」
「そうだなあ」
「転覆する心配はないんですか?」
「時化に遭うとひっくり返るわなあ」
「そうでしょうねえ」
「だから遭わないようにするわなあ」
「ええ」
「あんた、自殺しに来たんじゃなかろうなあ」
「はあ?」
「何人もいるんだなあ、1人で来て、この船に乗って、そのままいなくなった奴が」
「ボクはそんなつもりじゃありませんよ」
「そうか、それはよかった」と漁師はタバコに火を点けました。そして「吸うか?」と1本、差し出すのです。
「すみません」とわたくしは受け取って、差し出されたライターで火を点け、フウッと白い煙を10月の、まだ暑い小笠原の空に吐き出しました。
「そこのあんちゃんも吸うか?」
「イヤ、オレは吸いません」と娘に抱かれて、大海原の不安からようやく解放されている男が答えます。
「死に急ぐことはなかろうに、若いのほど死にたがる」
「この海と空を見て、急にそんな気になるんでしょうかねえ」とわたくしは空を仰ぎ、海を眺めます。
「人間なんてちっぽけなものだなあ」
「ええ、確かに!」
「死に急いだって、空も海も屁とも思わんわなあ」
「まあ、本人は生きることに絶望したんだしょうけどね」
「わしだってそうだ。だけども、だから死んでも仕方ないんだなあ。それでは死ぬことに1つの希望を見出してることになるわなあ」
「今の苦痛から解放されたいという希望でしょうけどね」
「わしは海に出たんだなあ」
「誰でもができるわけじゃありませんよ。第一、船がない」
「方法はいろいろあるわなあ。わしは漁師だったから、たまたま船があって、それを使ったまでだなあ」
「ボクも会社を辞めたいんですけどね」と、ついわたくしは本音を口にしてしまいました。
「会社?.会社というと、わしには大きなビルのイメージしか湧かないわなあ」
「そうでしょうけどね」
船はやがて小さな島に近付き、巡ると一角に広い洞窟がありました。それはその船が潜ることが出来るほど大きく、その向こうにはまた青空が広がり、キラキラと日の光のきらめく透明な波が静かに打ち寄せて、純白の砂浜に輝いているのです。砂浜は登り勾配を作って草茂る丘に連なり、ここかしこ岩石を露出させつつ入り江を囲むように、丘は空を巡っているのです。
「アッくん、きれい!」と娘は身を乗り出して丘を眺め、その肩を強く抱いた男も、
「まるで天国だ!」と感嘆しました。
「丘の上に登れば、海がよく見えるんだなあ」と漁師が言うと、接岸用のゴムボートを着水させる間も待ち切れない2人は、ザブン、ザブンと日の光が網の目状の模様を描いている水に飛び込み、腰までつかって笑いころげながら岸をめざします。
「あんたも飛び込むか?」
「イヤ、ボートを下ろすんでしょ?」
「ああ」と漁師。「海に濡れた服はすぐに傷むからなあ」
わたくしたちがボートに乗って岸に着く頃、2人は手を取り合ってすでに丘の頂上近くまでたどり着き、振り返った男が大きく手を挙げ、
「オーイ、オーイ!」と叫んでいます。
裸足で2歩3歩、浜を歩いたわたくしは足の裏が熱く焼けるのに耐えられず、すぐサンダルを履き、
「あんちゃん、面白いものを見せてやろう」と漁師に誘われて、アベックと別の方角から丘の上をめざしたのです。
日の光は強く、白い帽子を被っていましたけれど、頭にも両肩にも、熱い光の粒子がのしかかります。ハアハアと激しく吐息するわたくしに、
「あんた、まだ20代だろう?」と漁師が振り返ります。
「はい」
「病気持ちじゃなかろうなあ」
「ええ」
「健康すぎても、わしのように肌を痛めるからなあ」と漁師は赤茶けた、帽子の鍔の陰でむしろ黒く見える顔にニッと白い歯を出します。「生きている限り、健康だろうが、なかろうが、関係ないわなあ」
「ボクはとても死ぬ気にはなれません」
「死ぬ気の奴はだいたい分かる。目が据わってて何も見てないんだなあ」
「ぼくの目は据わってますか?」
「目ン玉の奥で心がキョロキョロしてるんだなあ」と漁師はわたくしを眺め、また白い歯でニッと笑うのです。「そんなに奥に隠れることもなかろう」
「もともと目が細いから、そういう風に見えるんですよ」
「はははあ!」と漁師は笑い、わたくしと心に残る微笑を交わしたものでした。
それから彼は人差し指を口に当てて、「静かに」と合図し、まもなく丘の上にたどり着くと、すぐ真下に岩に飛び散る波しぶきを目にし、激しく震える太平洋を眺めました。確かに水平線は丸く広がり、雲を引く空もまた、無限に大きな球体に思われたものです。
フウッと大きく吐息して体を岩陰に休めようとしたわたくしの手を引いて、漁師が目で1つの方角を指し示します。そこでは、ちょうど岩間に光っているビロードのような草原の中で、アベックが交接していました。下になった娘の白い肌や開いた股と、おおいかぶさった男の黒い背中や伸び切った脚の、その絡み合った姿態が、明るい日の光の中で小さな夢のような非現実感を与えていたのです。
「1人でここに来ると死にたがり、2人で来るとくっ付きたがるんだなあ」と言って漁師はタバコを出して火を点け、わたくしにも勧めます。
「その気持ちは分かりますね」
「どっちも同じことだわなあ」
「それは分かりません」
「ふん」と漁師は度の強いメガネの奥からわたくしを眺めます。「あんたはやはりまだ若い。女に夢を抱いているんだろう」
「それほど若くはありませんけどね」
「だけど、夢はあるだろう」
「うーん」とわたくしは明るい、青い、広い空を仰ぎ、星を隠した太陽のまぶしさにグッタリとしました。