40年後
 
 「お邪魔なら、ぼくはいいよ」と皿山先生。「違う仲間の家に行ってもいいし、ホテルでもいい」
 「どうぞ」と振り返ったHさんの眼に一瞬、強い光が宿ります。「妻も待ってるんだ」
 「ほんとにいいの?」
 「どうぞ」
 まだ逡巡の残る皿山先生の心の中に差し込むように、ピカッと稲光が夕暮れの都会に走り、間もなくゴロゴロゴロと黒く低く垂れた雲間に雷が響くのです。
 『これじゃあ、まるでマンガか怪奇小説の一コマだな』と思いながら、新築まもない家のドアを開けて入ったHさんに続いて、皿山先生も入って行きました。
 正面の廊下の奥から髪のボサボサした奥さんが大柄な体を転がすように、しかし音もなく走り出て来ると、
 「皿山だ」とHさん。
 「お世話になります」と先生は頭を下げ、「これは郷土土産です」と奥さんに包みを差し出します。「『瀬戸の花嫁』と言うんです。奥さんは同じ題名の歌謡曲を覚えてますか?.それに因んで作られたものだから、いい加減なんですけどね」
 「もちろんです!」と奥さんは甲高い声で答えます。「わたしも花嫁の経験がありますから、白無垢の花嫁衣装をぜひ娘にも着せたいわ」
 「娘さんが近々結婚されるんですか?」
 「いやいや」と眉をしかめてHさんが振り返り、「娘は3つの時、肺炎で亡くしました。今年就職した1人息子がいるだけです」
 「そうですか」とまずいことを聞いたかも知れないと気おくれしながら、皿山先生はHさんに続いて上がって、すぐ右手のキッチン、ダイニング、リビングがある部屋に案内されました。
 「ほんとは応接室を作りたかったんだけど、教員の退職金ではムリだった」
 「でも定年前に辞められたんだから、いいんじゃないの」と勧められるままにソファに坐り、周囲を見回しながら皿山先生。「ぼくは結婚が遅くてまだ子供が小さいから、まだまだ働かなくちゃならない」
 「働いているうちが人生の花さ」と、Hさんは奥さんの作ったコーヒーを先生の前に差し出し、自らの分を受け取ります。「もっとも、ぼくは仕事をサボったけどね」
 「創作に励んでいたわけだ」
 「創作力も不足して、1人は亡くし、もう1人もぼくが望むようには作れなかった」
 「ははは!」と皿山先生は思わず大笑いしました。「子供作りが人生で最大の創作に違いない」
 「皿山は本気でそう考えてるのか?」
 「そこまで謙虚じゃないかも知れないなあ」と言いながら、先生はコーヒーを口にしました。
 『おいしいですね、奥さん!』と述べるつもりだった先生は、余りの苦さに、
 「これはどこのコーヒーですか?.ひょっとしてブラジル原産かな?」
 「ほほほほほ!」と自らのコーヒーカップを受け皿に載せて運んで来て、Hさんの隣に腰掛けた奥さんはじっと先生を見つめたまま笑います。「皿山さんって主人が噂していた通りの率直な方ね」
 「いやあ、それがぼくの持ち味だから。そのために敵も多いんです」
 「これはブラジル産ではありません」と奥さんはピシャリと否定しました。「コロンビア産です」
 「ちょっと外れたか」
 「日本産って、わたし、きらい」
 「ぼくは好きだなあ」
 「まあ、率直な方!」と口に手を当て、じっとこちらを見つめていつまでも含み笑いを絶やさない奥さんの態度に、先生は思わず、
 『奥さんも少し変なのかしら?』と自問したものです。『確か病院で知り合ったと言ってたけど、まさか……』
 「よし子、あんまり変な笑い方をしちゃいかんよ」とHさんがふっくらとした奥さんの指を優しく掌に包みます。「皿山が疑うじゃないか」
 ギクッとした先生は、
 「いやあ、でも助かった!」と愛想笑いを作りました。「最近はホテルも高いから、泊めてもらえてほんとに助かる」
 「大学時代からの仲間じゃないか」
 「うん」
 「違う?」
 「いやあ、そんなことはないさ」
 「だろ!」
 チラッと横目でHさんを見やって、
 「あなたはまだ悟ってないわね」と奥さん。
 「悟った部分もある」とHさん。
 「じゃあ、今、何が見える?」
 「夜さ」
 「違う。雨よ」
 「夜だから雨が降るんだ」
 「違う。雨が降るから夜なのよ」
 「それは因果律を解き誤っているな」
 「あなたの心が混乱してるから、現実を逆転させた解釈になるのよ」
 「しかしそれがぼくの因果律であってみれば、それも1つの現実なのさ」
 「夢というまやかしの現実ね」
 「夢がまやかしとは限らない」
 「夢に因果律はないわ」
 「いや、あるさ」
 「現実と関わる時にあるだけで、夢そのものは自立してないのよ。だから、因果律もないわ」
 「この世に自立したものは何もなかろう」
 「自立って、関係が成り立つということでしょう。夢の中には何にもそんな関係性はないでしょ。単に曖昧なだけよ」
 「いや、違う」
 「違わないわ」と奥さんは侮蔑を含んだ顔つきです。「皿山さんはどう思う?」
 「どう思う?」とHさん。
 2人の瞳に見据えられ、その無表情な光に皿山先生は思わず、口にしていたコーヒーを喉元に飲み込みました。何だかまたピカッと稲光が光り、夜の都会を覆った雲間にゴロゴロゴロと雷が鳴り出した気がしてならなかったのです。
 「夢と現実と、いずれにこだわるにせよ、それも1つの執着じゃないかなあ」と先生。「それは結局、因果律の破壊あるいは無視につながるだろう」
 「ははははは!」とHさん。
 「ほほほほほ!」と奥さん。
 「皿山も頭が禿げかかって、やっと人生の急所をつかんだなあ!」とHさんは感に堪えぬ表情で先生を見据えたまま、目尻に涙の粒を光らせて笑いつづけます。「泊まり客としては、どちらの言い分にも配慮するのが世の常識だからな」
 「あなた、それは失礼でしょう」と奥さんもまた目尻から涙をこぼして笑いつづけているのです。「皿山さんの率直な意見を、そんな風に曲解するものじゃないわ」
 「曲解じゃない。正解さ」とHさん。
 「ほんと?」と奥さん。
 また2人に見据えられ、皿山先生は、『やっぱりホテルに行けばよかった』と後悔の汗を背中にしたたらせるのです。『久しぶりに東京に出て来て、1万円をケチった結果、後味の悪い体験をしてしまった』
 南の窓に掛かったカーテンの向こうで、確かに雨がひときわ強くザーザーと降り始めた音が響きます。いつまでも尽きることのない中年夫婦の哲学談義にウンザリした先生は、明日が早いからと断わって、寝具の用意された和室に早々に引っ込みました。
 翌朝、ダイニングの窓から、昨日の雨がウソのように明るい朝の光線が差し込んでいます。小さな植込みの南にすぐ隣家の壁が立ち塞がり、それでも雀の声がチュンチュンと空から降って来るのです。
 「もう1日、いられないのか?」とHさん。
 「いやあ、ほんとに悪いけど、明日の授業は休めないんだ。とても遅れてるから」
 「じゃあ、せめて昼までどこかブラブラしないか?」
 「ほんとに悪いけど、帰って授業の準備をしなくちゃならないんだ」
 「そうか。残念だな!」
 「残念ね!」と、テーブルに朝食を用意しながら奥さん。「どうぞ、何もありませんけど」
 「すみません」と、Hさんに続いて先生が席に着くと、丼一杯のご飯と大椀の味噌汁、それにどう見ても化学教室のビーカーにしか見えない容器に生卵が2つ、無造作に落とされているのです。その卵のテラテラと光る黄身を目にした時、思わず吐き気を催した先生でしたが、見上げると、Hさんと奥さんがまるで試験官のように無表情にこちらを見つめています。そして大柄な2人の前にも同じメニューが並んでいるのです。
 急いで朝食を腹に掻き込み、外に飛び出した先生は、山手線に乗って東京駅をめざしました。駅毎に出入りする都会人の顔の1つ1つが、どれもこれも無表情に、今朝の先生の目には映ってなりません。
 『Hも同じような表情をしていたなあ』と先生はハタと気づきました。『結局、おれは他人だったわけだ。だけど、あの夫婦も他人同士の顔だった』
 そんな思いを振り払うように車窓に視線を移して、ビルが次々と流れ去り、その向こうに梅雨の合間の青空が大きく広がっているさまを、先生はボンヤリと仰いだのです。
 ……。
 昼休みの研究室で50万円と25万円の書留封筒を見せながら、皿山先生が、
 「100万円が彼から送られて来てね。もらう理由がないから、丁重な断わりの手紙を添えて送り返したら、今度は50万を送って来たんだ。そして送り返さないうちに、また25万送って来るから、イヤになっちゃうよ」
 「ははあ、そんな後日談があるんですか!.それはどういう意味です?」
 「分からない。ただ彼のことを授業でちょっと喋ったのがまずかったのかな。その翌日、100万円が届いたから」
 「半分ずつ送り続けられるとしたら、1円になるまで続くわけでしょう。大変な回数を重ねますよ」
 「ぼくの名宛てじゃなくて、妹の名宛てなんだ。もちろん、妹はとっくに嫁に行ってるけどね」
 「はあ?」
 「昔、妹が好きだったんだ。それが動機かも知れないなあ」
 「なるほど、結納金ですか」とわたくしは妙に納得しました。「40年越しの恋ですね」
 「いやあ、ほんとに迷惑だよ」と皿山先生。「世の中はどこかで何かに身をまかすべきだと、痛感したよ。いつまでも自分の夢にこだわると、ろくな結果にならない。悪い奴じゃないんだけど、どこかで1つ、心の歯車が狂ったみたいなんだ」
 「それも大きく考えれば、因果が巡った結果かも知れませんよね」とわたくしは北の窓から遠くの山を眺めました。そこにはすでに夏の入道雲が2つ3つ、大きな空に立ち上がっているのでした。