厳島
 
 小林秀雄が『平家物語』を論じて、その仏教思想は時代のはかない意匠に過ぎないと断じたのは、わたくしにはかねがね承服しかねることでした。思想と文学とは、いわば骨格と肉体の関係にあるというのが、わたくしの今も昔も変わらぬ信念でしたから、たとえ平家の作者が凡庸な思想家に過ぎないとしても、それがその思想の無効性を示すものではないと思うからです。文学者の思想とはそもそも凡庸であり、そこからいかなる文学を創造できたかが問われるべきでしょう。
 『平家物語』には確かに仏教思想が赤い縦糸のように貫かれているのです。伝統的な詩魂などという曖昧模糊とした概念を持ち出さなくても、琵琶法師が語ったものゆえに、そこに自ら仏教の無常観に基づく統一された文学世界が切り開かれたのだと、素直に受けとめればいいのではないでしょうか?
 それにしてもその登場人物たちは、まるでコケシ人形のような手ざわりで生きいきと読者に迫り、とりわけ平清盛は圧巻でしょう。そのエゴイスティックで粗野な行動は、日本文学が表現し得た最高の悪人像だと、わたくしなど評したいところです。
 また、源義経に追いつめられた平家は瀬戸内海を転々としたわけですから、平家と海とはどこか深いつながりがあったのでしょう。とりわけ厳島は安芸守を歴任した清盛によって厚く崇拝され、平家納経は美術史にも必ず出て来る逸品です。入り江に張り出す結構で造営された厳島神社、そしてその沖に浮かぶ鳥居は確かに素晴らしいものです。
 わたくしが妻子と連れ立って5月の厳島を訪れたのは、関西の友人を案内して以来ですから、かれこれ20年近い歳月が隔たっていました。波しぶきを立てて進むフェリーボートの舳先に、瀬戸内の島らしからぬ急峻な山が、海面から曇り空にヌッと突き出ているのです。その中心の弥山は、確か弘法大師とも関わりのある神秘の山です。その内懐のフェリーの発着所は広々として、日本三景の1つという観光地のにぎわいを見せていました。
 海岸線に沿った土産物店の前を通り過ぎて、わたくしたちはまず厳島神社を訪れたのです。ちょうど満潮時で、社殿を結ぶ板敷きの回廊の下にさざ波の音が絶えず響いていました。フェリーから遠く眺めた鳥居が今はその威風を雲間から漏れる日の光に輝かせつつ、正面の海に立っています。わたくしの隣で妻が眺めながら、
 「維持が大変だわねえ」とひどく現実的な感想を洩らします。
 「観光協会からの寄付も大きいだろうなあ」と、まるで異なる世界に住んでいるわけでもないわたくしもまた、現実的な発想が出て来てしまうのです。
 「宮島のシンボルだものね」
 「しかし昔から観光でにぎわったわけではないわなあ」
 「その頃はどうしてたのかしら?」
 「有力者の寄進があったんじゃないの」とわたくし。「たとえば清盛なんかが信仰してるわな」
 「昔の人は信心深かったのね」
 「それは昔・今に関係ないと思うけどな」
 「どうして?」と妻は意外そうな顔をします。「現代の方が信仰は薄れているんじゃないの?」
 「何を信仰と称するかにもよるだろうけど、生きる・死ぬは理性の問題じゃないからね」と、鳥居の沖合から吹いて来る、塩気ある爽やかな風を肌に受けつつ、わたくし。「自分が今・ここに生きている意味を真に了解するには、信仰しかないわなあ」
 「わたしにそんな信仰心はないわ」
 「あなたは食べることが最大の生きがいだから」
 「まあ、失礼な!」と、妻も爽やかな風に白い服の袖をなびかせます。「でも、半ば本当だけど」
 おみくじを引いてはしゃいでいた3人の娘が駆け寄って来て、「おなかが空いた」と騒ぎ出したので、「出ようか」とわたくしは言いました。そして神社を後にして、通り過ぎて来た商店街に戻って行ったのです。
 蕎麦が食べたいと子供が言うので蕎麦屋に入って、食べてまた表に出ると、
 「先生!」と背後から誰か呼びかけます。
 振り向くと、同じ蕎麦屋の暖簾を払ってS高校の卒業生が出て来たのです。
 「杉田さん!」と、その奇遇にわたくしは驚きました。「同じ店にいたのか?」
 「はい」と杉田さんはもう1人の女の子と一緒です。名前は思い出せなくても、その子も確かにS高校の卒業生に違いありません。
 「ちょうど私たちの背中のテーブルに先生がいたんです。聞き覚えがある声だなって振り返ると先生だったんで、ビックリしました」
 「こんなところで出会うとはなあ」
 「先生、学校を辞められたんですってね」
 「ぼつぼつ仏門に専念しないとね」
 「そうですか」と妻と顔が合った杉田さんは挨拶し、「今日は家族サービスですか?」
 「そう。これからどこへ行くの?」
 「別に予定はありません」
 それなら弥山に登ろうと誘うと、ほんのしばらく小声で相談してから、一緒に行くと2人は応じました。
 この春、専門学校を卒業した杉田さんは、不景気でまだ就職先が決まらず、当分、親の仕事を手伝うと言うのです。
 「東京に出るという話はどうなったの?」
 「ああ、あれですか」と杉田さんは帽子の鍔の下でニコリとします。小柄でボーイッシュな彼女には野球帽のような鍔付き帽がよく似合い、家庭訪問などすると、肝心の話は放っておいて、「先生、この帽子、どう?.似合う?」などと問うたものです。
 「人生は思い通りには行かないものですね、先生!」
 「今、気づいたか」
 「高校に入った頃から気づいてましたけど、再確認してます」
 杉田さんは差別に苦しみ、それをクラスで発言したことがある子です。クラス討論会の時間にたまたま司会者に当てられた彼女は、実に淡々と告白したのです。
 「おいおい、大丈夫なんか?」と後でわたくしが尋ねると、
 「胸のモヤモヤが晴れてスッとした」と彼女は答えましたけれど、そのときシンと聞き入っていたクラスメイトのはたして何人がその思いを真剣に受けとめたか、誰にも分からないことでしょう。そのときは真剣でもやがて忘れる子もいれば、大人になって改めて考え込む子もいることでしょう。
 わたくしたちは確かに社会の中で生存し、理想の社会でもない限り、さまざまな矛盾や差別と無関係には生きていけません。そもそも、理想的であろうとなかろうと、「社会」というものは、地球の生態系の破壊の上に成り立っている人類のエゴだとも言えるでしょう。
 言ってみれば、進歩と矛盾のイタチごっこからどこまで行っても逃れられないのが、人類の定めでしょう。釈迦の出家も、そこから一歩退くことによって、今・ここに自分が生きている確信を得る道だったにちがいありません。
 「世界は美しい。生命は蜜のように甘美だ」と、死を前に語ったという釈迦の言葉ほど、わたくしを感動させるものはありません。それは、80年の人生を生きて来た自らの歩みに対する、大いなる肯定ではなかったでしょうか?
 家族を連れて杉田さんと共に、谷裾に広がっている、楓の新緑が日の光をまるで生命のプリズムのように色鮮やかに映している自然公園を歩みつつ、わたくしはまたも釈迦の言葉を想起していたのです。
 丸石の敷き詰まった谷川沿いにロープウェイの駅がありました。ゴンドラの揺れる床に宙に浮かぶ実感を得る余裕もなく、スーッと引っ張られて、まっすぐ宙を空に昇っていくのです。見る見る公園が遠退き、商店街の屋根が小さく密集し、ミニアチュアのような朱色の鳥居が浮かぶ海が視界に広がって、白く泡立つ潮の流れの向こうに広島市の西外れの街並みが、中国山地を背にして遠い活気を呈しています。
 若い女性を前に3人の子供は額を突き合わせてまとまって、流れ去っていく光景に歓声を上げ、杉田さんもまた、同じような感興を友と共に抱いているのです。
 「かわいい人ね」と妻がつぶやき、
 「オレの卒業生だからな」とわたくし。
 「しんどい、しんどいと言いながら、学校にも楽しみがあったのね」
 「どこにも楽しみはある」と言って、子供たちに向かって、「もうすぐ頂上だ」とわたくし。「猿がいるぜ」
 するとすぐに子供たちはその話題で盛り上がるのです。杉田さんも驚き、
 「先生、ホント?」
 「何だ、知らなかったのか。ここの猿は有名だよ」
 「わたしたち、今朝会って宮島に行こうって決めて、何にも知らずにフラリとやって来たんです」
 「なるほど。それも旅のやり方だ」
 ロープウェイを降りると、水面からそのまま立ち上がった弥山の頂きはひどく高く、南は海が青く広がっています。それは、平家が滅亡した壇ノ浦まで続いている遥かなる海を、わたくしの心に映して止みませんでした。