旅は道づれ
 
 妻の従妹の伸子さんはスチュワーデスでした。妻の父親が亡くなった後の法事で1度見かけたことがあり、その時はまだ大学生でしたけれど、色白でスラリとした、目元の涼しげな娘さんだったのです。高校時代に登校拒否に陥って、妻の母親もしばしばその両親から相談を受けたというのですが、その時の伸子さんの印象からはちょっと信じられない話でした。もっとも、見た目の印象に過ぎませんから、実際に話していれば、あるいは違った感想が生まれたかも知れませんけれど……。
 妻はその伸子さんの結婚披露宴に招かれています。新郎は伸子さんがスチュワーデスをしていた飛行機の中で知り合った、なかなか美男子の歯科医だとのことでした。
 それから2、3カ月後、2人から礼状の葉書が届きました。最近はそこに2人の写真がプリントされるのが常です。学生時代の面影が強く残る伸子さんの清楚な写真を眺めながら、
 「スチュワーデスはやめるのか?」とわたくし。
 「そりゃそうよ」
 「今は結婚しても仕事を続ける女性が増えているけどね」
 「ご主人の仕事にもよるんじゃないの」
 「そうかも知れない。相手はどこの人?」
 「M市」
 「近くじゃないか!」
 「それが知り合うキッカケになったみたい」
 「なるほど、世界を回る飛行機の中でたまたま同郷の人と会うわけだから、地球も狭いと言えば狭いわな」
 シートベルトを締めると、やがて機内にも移動する感覚がゆったりと伝わり、そのまま機体が向きを変え、シートに深々と寄りかかった体にいささか圧力を受けながら、上方に角度が付いて飛行機が離陸していく時の不安は、わたくしにとってなかなか慣れられないものの1つです。
 「もうシートベルトを外されても結構です」と、伸子さんは機内を巡って乗客に目配りしながら、伝えて歩きます。そして同じアナウンスが、日本語及び英語で流されているのです。
 「いかがされました?」と伸子さんは、シートベルトを締めたまま青ざめている若い乗客に声をかけました。「ご気分が悪いのですか?」
 「昨日の寝不足がまずかったかな」とその乗客。「吐き気があるんだけど、もうトイレは使えるの?」
 「はい、どうぞ」と答えながら、おぼつかない手つきでシートベルトを外そうとする乗客を、伸子さんは前屈みになって白い腕を伸ばして手伝って、立ち上がった乗客を狭い通路から後部へ誘導しました。この場で吐き出されると、後の処理が大変でしたから、どうあっても後部にある扉の奥のトイレを利用して欲しかったのです。
 その扉の奥に無事に消えて、しばらくして出て来た乗客は、
 「ありがとう。助かった」
 「いいえ、務めですから」
 「ところであなたはB地方の人じゃない?」
 「はい。どうして分かりました?」
 「ボクもそうだから、ちょっとしたアクセントで分かった。ボクはM市。あなたは?」
 「F市です」
 「隣同士か」とその乗客が笑うと、伸子さんも誘われるように微笑しました。「旅は道連れと言うから、よろしく頼みますよ」
 「こちらこそ。どうぞ飛行機の旅を楽しんでください」
 それから機内食を配るたびに伸子さんは話しかけられ、パリ郊外のド・ゴール空港に着く頃には、互いの電話番号を教え合う仲になっていたのです。
 パリを流れるセーヌ川にまるで巨大なヨットのように浮かぶシテ島に聳えるノートルダム寺院は、多くの観光客にもかかわらず、その物音の1つ1つがカーンカーンと高い尖塔の彼方に吸い込まれるほどの高さです。伸子さんが神原氏に従って暗い重い扉の外に出ると、日没後のパリはまだ夏の空が淡い水色に広がっていました。プラタナスの葉がほのかに風に揺れるセーヌ河畔のベンチに2人は腰掛けて、しばらくの間、道行く人々の時間の悠長さに身を任せていたのです。
 「フランス人は日本とまるで違う時間の中で生きていますね」と神原氏。
 「うらやましいですわね」と伸子さん。
 「久々に飛行機に乗って、地球が実に微妙なバランスの上で自転しているのが、よく分かった」と神原氏は空を仰いで大きく静かに息を吸い込みました。「宇宙飛行士にはそれがもっとよく分かるんでしょうね。だから、後で信仰に目覚める飛行士も少なくないらしい」
 「セーヌ川って、水量も多いし、流れもゆるやかで、世の無常を感じさせる川じゃありませんよね」と伸子さんはうつむいてじっと川面を眺めているのです。「だけど、この川の流れに時間のはかなさを歌った詩人もいますしね」
 「川には違いないから」と神原氏も伸子さんの視線を辿って、同じ川面に心を移すのです。「流れ去って決して戻っては来ないところなど、時間と同じことでしょう」
 「人生も同じですよね」
 チラッと伸子さんの横顔を盗み見た氏は、
 「あなたの若さで連想することじゃないんじゃありません?」
 「どうして?」と顔を傾げて、伸子さんは氏を振り仰ぐのです。「わたし、1年間ほど、高校に通わなかったことがあるんです。このまま1年2年3年と進んでいって、卒業して、また大学が1年2年3年と進んでいって、卒業して、今度は就職してまた、1年2年3年と進んでいった後、何が残るのだろうと考えると、ギョッとしてそのまま立ちすくんでしまったんです」
 「その時、あなたは大切なことを忘れていましたね」
 「えっ?」
 「そこには必ず出会いがあるでしょう。あなたにとってもこれは運命だと信じられる出会いが、いずれ向こうからやって来ると思いませんか?」
 深く溜め息をついた伸子さんは、
 「そういう希望が持てる人はうらやましい」とまた川面に目を移し、向こう岸のカルチエ・ラタン辺りを行く若者の群れに瞳を上げました。「わたしにはそういう若さがないんです」
 「ボクにはまだある気がします」
 「そうですか」
 「実はボクは1年ほど前に離婚してるんです。いくら経っても気持ちが吹っ切れないから、歯科医院を一時休業して、気分転換にここまで来たんです」
 「そうですか」
 「パリに来てほんとによかった」
 「どうして?」
 「あなたに巡り会えたから」
 ガラス張りの遊覧船が照明に明るく彩られ、その光の断片を水の面に散らしつつ、2人の前を静かに過ぎていきました。船はやがて橋をくぐって、緩やかなカーブの向こうに隠れていくのです。
 そして空は深い憂愁を含んだダークブルーのまま、星が1つ、チカチカときらめき始めているのです。