アベ・マリア
 
 桜の緑陰が涼しい風を送る坂道を、わたくしはその娘さんと下って行きました。丘の上にはミッション・スクールのベージュの校舎が高く5月の空に聳え、校舎の上の鐘楼は十字架を掲げて鋭く伸びているのです。
 木陰の向こうは日の光の降り注ぐ小学校のグラウンドが広がっています。わたくしたちが下る坂の近くには、まだ水の入れてない、水色のタイル張りのプールが、明るい朝の光を反射しています。
 「ここの本部はフランスにあるらしいですね」とわたくし。
 「そう」と娘さん。
 「いずれ、行くんでしょ?」
 「正式のシスターになるためには必要でしょうね」
 「シスターたちの風情にはどこか清楚な趣がありますよね」
 「そうなんですか?」と、娘さんはクリンとした目でわたくしを仰ぎます。
 「そう感じませんか?」
 「多分、それは男性の目で見た印象でしょうね。わたしには分かりません」
 「一生を修道院で過ごすことになりますね」
 「監獄じゃないのですよ」
 「だけど、世間でもない」
 「世間って好いところでしょうか?」と娘さんはまた振り仰ぐのです。「世間体を気にしながら朝から晩まで働いて、しかも女性は家庭に入らなければなりません。もちろん、現代ではキャリア・ウーマンも多いですけど、それは男性社会に同化することでしょう」
 「神の下では自由になれるのかな?」
 「わたしはそう信じています」
 「神って何です?」
 「わたしたちを創造なさった方でしょう」
 「つまり、人間を超えた者が存在すると?」
 「そう考えないと、今、ここにわたしが存在している理由が見出せません」
 「ふーん」と坂道のアスファルトに揺れる木漏れ陽の淡い照り返しを感じながら、わたくしは一歩々々娘さんと歩いて降りました。「非科学的だと考えたことはありません?」
 「神を、ですか?」
 「ええ」
 「ありません」と娘さんは断言します。「神は科学を超えた存在なんです」
 「どこにいるんですか?」
 「そういう問いかけ自体、人間の不遜さの証しでしょう。神は、人間の理性で問うべきものじゃありません」
 「つまり、信仰が必要だ、と?」
 「はい」
 「その信仰はどうやって得るものなんですか?」
 「それは人さまざまでしょうね」
 「あなたは?」
 「ハッキリしませんけれど、ただ、前にも言ったように、ミッション・スクールに通っていたことが一つのキッカケになったことだけは確かでしょうね。ふと、今ここに自分が生きていることが不思議でならなくなり、いずれ死ぬ身であることが確実だと気づいたとき、神のそばを離れたくなくなったのです」
 「後悔はないのですか?」
 「ありません」
 「たとえば……」とわたくしは言葉を選ぼうとして、二の句が継げません。
 「たとえば、何ですか?」とわたくしを振り仰ぐ娘さんの表情は、あくまで無垢でした。
 「恋愛などに憧れることはないのですか?」
 娘さんは落ち着き払って、
 「それは一時の妄想でしょう」と言うのです。
 「そういわれれば身も蓋もないけれど……」とわたくし。「ただ、生きていること自体、一時の妄想と言えば、言えるんじゃありません?」
 「いいえ、違います」と娘さんはハッキリと否定しました。「それはニヒリズムです。わたしたちの生は、神と共にあることによって、永遠の命を得るのです」
 「あなたという個人の生命のことですよね?」
 「もちろん」
 「そういう形で、あなたも永遠なわけだ」
 「そうです」
 「それって、窮屈じゃありません?」
 「どういう意味です?」と娘さん。
 「いつまでも死なないなんて、しんどい話でしょう」
 「どうして!」と娘さんは驚きます。「あなたは本気でそう仰っているんです?.死こそ、不安の種じゃありませんか!.それに、死に親しむことは、不健全な感性だとわたしは思います」
 「だけど、みんないずれ死ぬんですよ」
 「だから、神と共にわたしたちは奇蹟に与れるんです」と言うと、娘さんは疑がわしげな表情でわたくしを眺めました。「あなたはどこか悲観的に人生を眺めていらっしゃるんじゃありません?」
 「いやいや」と眩しげに空を仰ぐと、薄桃色の花の散った桜木立は、緑濃い木の葉におおわれて風に揺れ、視線を戻すと、そこには花盛りのツツジが赤く燃えているのです。「散るのも無常なら、咲くのも無常なんですよ。そう思いません?」
 「でも変わらないものがないと……」と娘さんはわたくしの視線を辿って、同じツツジの花々に見入るのです。「生きる安らぎを得られないんじゃないでしょうか?」
 『それは自己欺瞞の芽を含んでいませんか?』とわたくしは心の中で応えても、口には出しませんでした。そう指摘されてそうだと自らを顧みるほどに、自我はたやすい存在ではありませんでしたから。
 樹木に被われた斜面の下に白いマリア像がたたずむ前に、わたくしたちは歩みを向けました。そしてその前に立ち止まった娘さんの表情は、一見、街行く人と何ら変わりません。黙っていても通じ合うには、わたくしたちは余りに世代がかけ離れていたのです。
 樹木の向こうは4階建てのアパートが建ち並び、テラスに干した洗濯物が5月の風に翻っています。透き通った光がその向こうの空から降りこぼれ、ときおりマリア像の前の小さな広場に、幾筋かきらめいているのです。
 強い神、裏切られたキリスト、そして優しいマリアという三者三様の効果を想うとき、なるほど、うまく出来た宗教だなと、わたくしも感心しないわけには行きません。
 「マリアのいないキリスト教は、いささか魅力に欠けますよね」とわたくしは共感を込めて述べました。
 「それもわたしには分からないことです」と娘さん。「そういう仮定を考えたことなどありませんから」
 「確かに第三者的発言にはちがいない」
 「キリスト教に天国があるように、仏教には極楽があるのでしょう?」
 「ええ」
 「あなたは極楽を信じていないのではありません?」
 「どうして?」
 「何かそういう感じがしてなりません」
 「あなたは十字架をお持ちですよね?」
 「もちろん」
 「それって1つのシンボルじゃありません?」
 「どういう意味です?」
 「信仰の1つの証しであって、持つに越したことはないけれど、いろいろな事情から持てなくても、それが不信心の証拠だと断じるわけには行かないでしょう」
 「こんなささやかなものが持てない事情はちょっと理解しがたいですけど、仰る通りです」
 「極楽も1つのシンボルであって、それが仏教を信じる・信じないの絶対的基準じゃありません。もっとも、ボクは極楽の効用はあると思いますけどね」
 「効用、ですか?」
 「そう」
 「ずいぶん実用的な言葉に聞こえますけどね」
 「結局、死をどう受け入れるかが、その人の生き方に関わるわけでしょう。仏教では因果と、それが成立するための無常観がその根本原理だとボクは考えています。すると、死という結果を招くのは、生という原因によるわけですよ。だから、仏教でいう悟るとは、生死を超えるということになるんです。
 しかし、そういう境地にまで達する人は、出家した人にもなかなかいない。ましてや在家の人には不可能なわけです。しかし大乗仏教では、何よりも在家の人々の救済がめざされているんですよね。そういう人々にもっとも分かりやすい教えが、死後の世界を通して救済を語ることじゃなかったのでしょうか?.だけど、それはあくまで方便であって、死後、極楽で悟りを開くことこそ求められているんです。だから仏教たり得ているんです」
 「ずいぶん冷静なんですね」
 「ニヒリズムじゃないでしょ?」
 「そうかも知れませんけれど、死後の悟りと言われても、みなさん、納得されます?」
 「親鸞はしかし、死後の悟りが約束された、今のこの身の幸せが大切なんだと説いています」
 「それは分かります」と娘さんは瞳をあげました。「それはきっと、わたしが神の下で感じる安らぎとそんなに遠いものではないはずです」
 『しかし、悟りの世界を常に聴聞していく姿勢が大切なんですよ』と心の中でつぶやきつつも、わたくしは口にはしませんでした。
 そしてとりあえず、宗教という共通項で結ばれたささやかな心の通い合いを、わたくしたちは喜んだのです。