反抗の季節
 
 「死がある限り、宗教もまた、なくなることはないでしょうね」とわたくし。「時代が進むことと宗教の有無とは別次元の問題だから」
 「だけど、宗教は非科学的だから前近代的だと、いわば目の敵にされてた時代があったわなあ」とX氏。「その頃、文学が宗教の肩代わりをしてたけどね」
 「それがXさんの生きた時代でしょう」
 「おいおい、まるで生きた化石みたいに言うじゃないか」とX氏は笑います。「Jくんとそんなに年の差なんてないんだぜ」
 「2、3年の差が絶対的な差異をもたらすことだってありますから」
 「オレたちがそうだってこと?」
 「ボクは全共闘の後の世代、Xさんは前の世代でしょう」
 「やっぱり似たり寄ったりだろう」
 「いや、ボクには彼らの行動は、いわば箱庭を壊す子供のイタズラにしか見えなかったものですよ」
 「うーん」とX氏は腕組みをするのです。「確かに大学内部に限られた行動だったかも知れないけれど、思想的な意味には深いものがあったんじゃなかろうか」
 「どのような?」
 「いわゆる伝統が最後の一撃を食らった出来事として、オレは捉えているけどね」
 「それをXさんは肯定してるわけだ」
 「いや、肯定とか否定の問題じゃなくて、歴史の必然だろう」
 「歴史!」
 「そう」と西陽の当たる自分の書斎でタバコをくゆらすヒョロリとしたX氏の、メガネの奥の細い目に、いささか暗い光が宿ります。「もっともオレは何ら歴史に参加することなく、人生を閉じることになるだろうけどね」
 「そういう発言はサルトル・カミュ論争を想起させますねえ……」
 「カミュの『反抗的人間』の評価を巡るやつか?」
 「ええ。確かにサルトルの方が大上段に構えてて、高潔だし、柔軟であって、説得力にも優れていたと思うんですが、それでもボクはカミュにシンパシーを感じましたね」
 「要するに、カミュの文学の方が好きだったんだろ?」
 「ええ。Xさんは?」
 「『異邦人』は確かにいいね。だけど、それ以外にある?」
 「それだけで十分じゃないですか」
 「そこまで心酔できれば、ある意味で幸せだよな」とX氏は笑います。「Jくんは常に何かに心酔して来たんじゃないの」
 「心酔ってどういうことですか?」
 「夢中になることに決まってるじゃないか」とX氏はまたタバコの煙を吐き出し、その白い煙の向こうから穏やかな表情でわたくしを眺めるのです。「50が近付いてもまだ、20の頃と違わないわなあ」
 「Xさんに20の頃のボクが分かります?」
 「分かる!」
 「しかし、お互いの存在すら、当時は知らなかったんですよ」
 「キミを見てて、感じるところがあるんだよ」
 そう言われると、わたくしもまた、感じるところがあると同意しないわけには行きません。わたくしたちは確かに、時代からどこかズレた感覚の中で、今まで生きて来ていたのです。
 「ボクはやっぱり、寺を意識しつづけてましたからねえ……」
 たとえば、恋されて迷うのは、半ばその恋を受け入れているからでしょう。イヤな相手は初めからイヤなものです。それと同様に、寺を継ぐべきか否か迷っていた青春時代のわたくしは、半ば以上、「寺」を前提としていたに違いありません。
 『そこに何かイヤらしさを感じるんだ』とわたくしはO嬢を前に、いささか芝居じみた身振りです。
 『なぜ?』とO嬢はフーッとタバコの煙を吐き出し、その白い煙の向こうからわたくしを冷ややかな目で見つめます。『家を継ぐ継がないで迷うのは、当然な感情でしょ。あなたはそうやって独りでヒロイックな役を演じていたいのよね、何事につけ!』
 『だけど、たとえば家の商売を継ぐのとは、訳が違う。寺は利潤じゃなくて精神を扱うわけだろ。その方向が生まれた時から決まっているというのは、本来、変な話じゃないか。精神はそもそも自由であること、自由な選択がなされることが、もっとも大切じゃないの?.でないと、そこに自己欺瞞が生まれてしまう』
 『そう思うなら、継がないことね』とO嬢。
 『ただ、仏教にどこか魅力も感じてしまうんだ』
 『継がなくたって、仏教に関われるんじゃないの?』
 『そりゃそうだ!』
 そう言ってテーブルの上に視線を落としたわたくしと無関係に、O嬢は白い漆喰壁の喫茶店に流れていたBGMに合わせて、小刻みに体を揺すぶりました。
 「議論に負けてるじゃないか」とX氏は愉快そうに椅子の背もたれに深々と体を預け、ピーナッツをつまみます。「実際、彼女が指摘したとおりだろ?」
 「ただね」とわたくしは素直に同意するわけには行きません。「仏教は純粋な思想体系じゃないんですよ。それは何よりもまず宗教だから、宗教儀式があって初めて、成り立っているんじゃないですか?.具体的に言えば、葬式及びそれに付随してくる法事でしょう。いろんな宗派があっても、その点では大同小異ですからね」
 「しかし当時、そこに関心はなかったわけだ」
 「彼女と話した頃はね」
 「なぜ芽生えたかが問題だわなあ」
 「結局、そこが仏教の土着化、せいぜい密教化であって、またそれがないと、多くの人々には受け入れられなかったでしょうね」
 「それはしかし、一種の堕落じゃないの?」とX氏はますます愉快げです。
 「仏教には蓮池のたとえがありますよね」とわたくし。「泥で汚れた池にこそ、悟りの花が咲くという……」
 「うん」
 「あれって、世間が蓮池にたとえられてて、だから衆生と共に生きるのが仏教者の道だという、いわば大乗仏教のトレードマークみたいなものでしょう」
 「そうかも知れない」
 「だけど、ボクは現代、世間は蓮池でさえないと思うんですけどね。世間という池は干からびていて、蓮の花が咲く余地などもうないんですよ」
 「それはまた、悲観的だなあ」とX氏はうまそうにワイングラスを傾けます。「もっとも、当たっているかも知れないけどな」
 「だから寺にかろうじて、その池が残ってるんじゃないでしょうかね」
 「ホントに?」とX氏は皮肉な目つきでわたくしを眺めます。「それは寺を過大評価してないか?」
 「いやいや」とわたくしは首を振ります。「あくまで池であって、蓮の花じゃないんですよ。だけど、少なくとも仏教を標榜してるわけだから、泥池くらいではあるでしょう」
 「と言うと、過小評価してるわけか?」
 「いずれにせよ、何万もの寺が日本の津々浦々に張り巡らされているわけです。そして、それぞれが数百人の門信徒を抱え込んで、葬儀を1つのキッカケにして、死の意味をなにがしか人々に説いてるわけですよ」
 「ないよりはまし、というわけか?」
 「そうです!」とわたくしも笑いながら、X氏の差し出すワインをグラスに受けました。
 その顔は西向きの窓から注ぎ込む西陽を受けて赤く明るみ、かえってその陰影を深く刻み込んでいます。わたくしもまたその光を暖かく頬に感じつつ、
 『出ようか?』と誘いました。
 西陽に目を細めてわたくしを仰いだO嬢は、黙って頷きました。白い壁と赤いスレート屋根の、入り口にCoca-Colaの商標と共に「白薔薇」と染め抜かれた看板が立つ外に出ると、西に一筋に続く、広い、しかし車の通らない道路は帰りの学生たちの影が長く延びていました。遠くの四つ角に絶えず車が行き来して、時に市電もガラガラと響き、その遠さがかえって辺りの静けさを深めています。見上げると、東の空はすでに夜の吐息が降りかかるほどの暗さです。
 『下宿は近くなの?』
 O嬢は黙って頷きました。ジーパンにラフな上着の彼女を改めて眺めて、
 『高校時代と違うね』とわたくし。
 『昔は昔でしょ!』
 『うん……』
 あと一言、何か言わなければならないと感じながらも、わたくしにはその一言が見つかりませんでした。ヘルメットを首の後ろに紐で懸けて学部校舎の正面の路面に大勢の仲間と共に、ことさらせわしげにタバコをふかしつつ座り込んでいたO嬢は、確かにわたくしの知るO嬢ではありませんでした。しかし、それは権威に反抗している姿だとも、わたくしの目には映りませんでした。単なる箱庭遊びだなどとは、むろん、本人には言えませんでしたけれど……。
 高校時代まで長かった髪を今は切り、西にある下宿に向かって歩いて去っていくO嬢の黒い後ろ姿を、わたくしはただしばらくの間、見送っていたのです。