谷間の寺
 
 「浄玄寺さんですか?」
 「はい」
 「ご無沙汰です。こちらは玉泉寺です。実は昨日、母が亡くなりました」
 「ええ、昨夜お聞きしました」
 「ははあ……。さては、Oさんからお聞きでしたか?」
 「ええ、お寂しゅうございましょう。今夜7時から通夜だと伺っています」
 「はい」
 「明日のお葬式は午後1時からだと?」
 「はい」
 「お伺いさせていただきます」
 「それは、それは……。失礼します」
 「失礼します」と電話を切ると、「ご香典は2万円だ!」とわたくしはキッチンで後片付けの最中の妻に告げました。
 「玉泉寺のお母さんのお葬式?」
 「ああ、今、ご住職から電話があった」
 「ご当家から?」
 「ああ」
 「どういうことかしら?」と妻は笑いを噛み殺しています。「普通、ご当家から連絡がある?」
 「知らない」とわたくしは食べかけていた朝食後のメロンをスプーンで掬い取り、「とにかくこれで通夜も葬式も行かないわけにはいかんだろう」
 「そうね」
 Oさんはわたくしの母の兄で、その奥さんの姉が、このたび亡くなった玉泉寺のお母さんだったのです。縁戚関係と言えば、叔父・叔母、従兄弟あたりまでが一般でしょうから、この場合、わたくしは縁戚とは言い難かったのです。ただ、仲人をしてもらったと妻に言われ、それならお悔やみに行かなければならないだろうと考えたところ、さらに聞くと、仲人の女性が独り身だったため、その相手を玉泉寺のお父さんが引き受けてくれたと言うのです。
 「そうだったかなあ」とわたくしはいくら記憶の糸を手繰っても、思い出せません。「そう言われれば、そんな気もするけどなあ」
 「わたしもついさっき思い出したのよ」と妻。
 「それなら、玉泉寺のお母さんが仲人だったわけではないんだ」
 「仲人の奥さんには違いないのよ」
 「だけど、同じじゃない」
 「まあね」
 それをどう判断すべきか迷っていたところ、じきじきに玉泉寺さんから連絡が入ったのです。
 「絶対に行かないといかんだろう」
 「そうね」
 「ご香典は2万だな」
 「2万すれば安心ではあるわよね」
 というのも、父の葬儀の時、玉泉寺さんに2万円を包んでもらっていたのです。それは20年近く前のことでしたが、10年前の祖母の葬儀に際しては香典を受けていません。ソファに腹這いになって当時の香典控えをめくりながら、今のわたくしの立場に等しい人の金額を何人か調べてみて、
 「やっぱり1万か2万だろう」
 「だけど、先日、徳善寺のお孫さんが亡くなった時でも3万円包んだでしょう」と妻。
 「あれはオレが葬式を行なう側だったからさ。だから、後で徳善寺さんがお礼を持って来られただろ。今回は単なる参列だから、あの時と全く立場が違うんだ」
 実際の話、慶弔費の額は高すぎても低すぎてもマズイという感覚が誰にもあることでしょう。布施だと決まった額はありません。それは施す側の気持ちですから、「相場を教えて下さい」と言われても、わたくし自身、困るのです。
 「親類の方々とでもご相談下さい」と言う他ないのですけれど、いざ自分が慶弔費を出すとなると、いろんな事情を考慮して、なかなか結論に至りません。
 さて、わたくしが玉泉寺を訪れるのは、10数年ぶりになるはずです。早めに夕食をすますと、北に走って広い新しい道路に出て、西に折れ、隣町の中心辺りの交差点から北に連なる山の中に入っていきました。人身御供で有名な、江戸期に出来た広い溜め池のぐるりを巡って、次第に狭まっていく山合いの、小川沿いの道を駆けていく間、山々の新緑が目に鮮やかです。道はさらに狭まって2股に分かれ、左に入ると、すぐまた狭まり、反対の東斜面の麓に見覚えのある楼門が、夕陽の名残りに明るんでいます。その楼門には「還浄」と墨書された提灯が掛かり、車が道沿いや空き地に数珠繋ぎに駐車していました。わたくしは2股の地点まで引き返して、その寺をめざして登り、道端に駐車してから境内に上がって玄関に入ると、
 「Jちゃん、ご苦労さま」とO家の婿養子さんが迎えてくれました。
 また、
 「わざわざすみませんなあ」と玉泉寺さん。
 案内されて階段を上がると、2階が寺院関係者の控え室です。長テーブルを囲んで20人近い僧侶が集まり、その隅に坐ると、隣席の人は教師時代の知り合いでした。
 「お久しぶりです」とわたくしは頭を下げ、
 「お母さんはお元気ですか?」とその人。
 その人はわたくしより遥かに母と学校時代の付き合いが長く、帰って母に話すと、
 「あの人には苦労させられた」と何度も聞かされた愚痴をまた聞かされたものです。
 「ちょっと、ちょっと」と、廊下から顔を覗かせた玉泉寺さんがわたくしを手招きします。理由が分からないままその後に従って、悠に10畳はあろうかと思われる、細長い、板張りの書斎に案内されました。両側の壁は厚い棚の書庫で、専門書がズラリと並び、北に開いた窓から山々が眺められ、板の間にはポツンと座卓が置かれているばかりです。
 「わたしゃあ、ここで幽閉生活を送っているんですよ」と玉泉寺さん。
 「へええ……」とわたくしは目を輝かせながら背表紙の文字を追いました。「これ、全部読まれたんですか?」
 「そりゃあムリでしょうなあ」
 「でも、何割かは読んでおられますよね」
 「そりゃあ、ねえ……」
 「本棚の本を眺めると、その人の精神傾向が分かると言いますものね」とわたくしはさらに近づき、「特によく読まれたものは何ですか?」と尋ねると、
 「これを卒業論文に使いました」と玉泉寺さんはサンスクリットの本を取り出しました。
 「なるほど、仏典の原典は大半がサンスクリットでしょうから、本来の意味が分かると、何かにつけて便利でしょうね」
 「なあに、関係ありません」と玉泉寺さんは半ばとぼけた表情でニヤニヤしています。「母も亡くなったことだし、またおいで下さい」
 「ええ!」
 控え室に帰って、教師時代の別の知り合いに会い、これまた母と同僚時代の長かった人でした。
 「玉泉寺さんとはお知り合いなんですか?」
 「同朋運動で苦楽を共にした仲でなあ」とその人。もっとも、その役とは今年退いたのだと、つい先ほど玉泉寺さんから聞いたばかりでしたが……。
 「あの人はタチが悪かった!」と、帰ってその人の話をすると、母はさらに顔をしかめたものです。
 また、世話係の1人は、わたくしもよく依頼するMさんでした。
 普段、付き合いの薄い地域とはいえ、誰かとどこかで知り合いだったのです。それだけ長い人生を、すでにわたくしも経ていたわけで、その夜もまた、人が人にとって最大の財産だと実感したものです。それを逆に言えば、マズッた相手にはいつまでも恨まれるのだと、その夜また、再確認してもいたのです。
 本堂で通夜が営まれ、柩を隔てて向こう側に、仲人をしてもらった玉泉寺のお父さんが度の強いメガネをかけ、意外に元気そうでした。
 おつとめは正信念仏偈でした。終わって、暗い境内の庭に降り、山水の流れる溝に下駄履きの足を踏み外したわたくしは、しかしバランスを崩しませんでした。そして、これが年老いて倒れでもしたら、致命傷になるかも知れないと思いつつ、車に乗り、谷を引き返したのです。
 夜はすでに深く、ふと、ヘッドライトが照らし出す路面にピョンピョンと跳ぶ殿様ガエルの影が映りました。それはうまい具合に車の下に潜り込み、轢く恐れはないと感じたその瞬間、車の下でドンとぶつかる、手応えある音が響いたのです。カエルは車の下でも進行方向を変えることなく、ピョンと飛び、ドンとぶつかったに違いありません。ある朝、寺の前の道路で轢き殺された猫の死にざまが強く連想され、わたくしはイヤな気がしました。死は不意に訪れるものだと、露骨に知らされたも同然でしたから。
 帰宅すると、
 「やっぱり1万円だ!」とわたくしは決定しました。「親戚というより、関係寺院の扱いだから、それで十分だろう」
 そして母にも、明日の葬式に参列する必要はないと告げたのです。
 「どうして連絡があったのかしらね?」と妻。
 「オレが大学の後輩だからだろ」
 「仲間意識が強いのね」
 「ある年代を過ぎると、いろんな形の仲間意識が懐かしくなってくるものさ。若い頃と違って、人との付き合いが一番大切なんだと考えるからじゃないかしら」
 「今まで玉泉寺さんのところに遊びに行ったことある?」
 「ない!」とわたくしはテレビのスイッチを入れ、野球中継に耳を傾けました。「玉泉寺さんの49日が過ぎたら、法泉寺さんと一緒に訪ねたいなあ。同じ谷だから、2人はもう行き来があるかも知れないけどね」