唯我独尊
 
 誕生仏は、右手を上に、左手は下に、「天上天下唯我独尊」を表現しているのです。お釈迦様といえども、生まれてすぐにそんな言葉を吐くはずはないのですが、その真意を問いつづけたある作家が、「世の中に生を受けた1人1人がその1人1人として尊いのだ」と解釈したのは、全く同感です。「唯我」の「我」はお釈迦様個人ではなく、1人1人の人間のことだというのです。
 「それは西洋風の個人主義を連想させるなあ」とX氏は例によって素直には同意しません。「無我が仏教の教えじゃないの?」
 「無我に至りつづけるのが仏教でしょうね」とわたくしは応じました。
 「それは、生きることは死に近付きつづけるってこと?」
 「そうですね」とわたくし。「生があるから、死もまたあるわけだから」
 「それでは暗くない?」
 「でも、死のない生は軽佻浮薄じゃありません?」
 「まるでアルベール・カミュだ」
 「死に親しむ訓練が必要なんですよ」
 「それが観想念仏?.若い女性の皮膚の裏側の髑髏を想像していくとか……」
 「いや、女性の肌を単なる肌として観想することでしょう」
 「それはつまり、タントラの方向かな?」
 「いずれにせよ、妄想しないことでしょうね」
 「それがJくんに出来るの?」とX氏は口元に微笑を浮かべます。
 「もうそういう年齢ですよ」とわたくしも微笑を浮かべざるを得ません。
 「それって年齢の問題じゃないと思うな」
 「確かに!.だから、完璧にはなかなか不可能だから、そこに悪人の自覚が出て来るわけです」
 「性欲ってきついわな」
 「出家・在家の分かれ道もそこでしょうね」
 「恋愛は性欲をオブラートに包み込んだ砂糖菓子のようなものか?」
 「プラトニックラブという架空の物語が、西洋文明のエネルギー源のように、ボクなんかには見えますけどね」
 「だけど、スタンダールの恋愛小説なんて実に魅力的だぜ」
 「しかし、それは主人公の極端な若さが大前提でしょ。『パルムの僧院』にせよ、ファリブス・デル・ドンゴの後半生は、いわば一筆書きにならざるを得ないわけだから」
 「人生は美しい一瞬の夢なんだから、それでいいんじゃないの?」
 「80年間、恋愛沙汰にうつつを抜かすわけにも行かんでしょう」
 「いや、ゲーテの例もある。それを例外的な特権者だというならば、釈迦だってそうだし、親鸞だってそうだろう」
 「美しい夢を見ることよりも、夢を夢と知ることの方が先じゃないかしら?」
 「だけど、美しさにわれわれは幸福を感じるんじゃないの?.いずれにせよ、幸福の追求が共通目標だろ、洋の東西を問わず?」
 「そこには美しさとは何かという陥穽がひそんでいますよ。それがまた、プラトンのめざしたところでしょうけどね」
 「大昔はギリシャ単位で考えていた。昔は西洋単位で考えていた。それを現在、地球単位で考えればいいんじゃないの?」
 「だけど、美しさなんて、人によりけり、国によりけりでしょう。1つのモデルを強要する必要はないんじゃありません?」
 「それを自ら創造できるほど、大半の人間は才能豊かではないんだよ。だから、固定的に考えなくても、時代と共に移り変わっていくものだと見なせば、時代に即したモデルを提供するのは当然なことじゃなかろうか?」
 「だから、それはあくまで社会単位のことでしょうね」
 「だけど、人間は社会的存在なんだから、わざわざ断わるまでもないだろ?」
 「たとえば、服を着るのも人間ならば、時に裸になるのも人間でしょう。服にはその時々の流行ってものがあるにせよ、裸の人間はそう簡単には体格が変わらない。その体格に合わない服は、だから窮屈なだけなんですよ。仏教思想はまさに、そこに焦点が絞られているんじゃないかしら?」
 「するとだな、仏教に基づく社会思想となると、たとえばどんなことが言えるの?」
 「まず法の下の平等でしょう」
 「それは法律ってこと?」
 「仏法の下ではあらゆる人間が平等なわけだから、それを社会に応用すると、法律のもとの平等でしょうね」
 「それでは現代社会に何らプラスアルファはもたらさないわな。単なる現状追認じゃないか」
 「しかし、単に人間ばかりじゃなく、あらゆる生命の平等を説くのが仏教なんですよ。人権だけじゃないんです。動物の権利もあれば、植物の権利もある」
 「しかし、それらの権利はどうやって把握するの?.動植物に聞いても、答えてくれないぜ」
 「だから、仏教思想に耳を傾ける謙虚さが求められるんじゃないでしょうか?」
 「たとえば?」
 「基本は因果論でしょう。また、因果が成立する場である無常観でしょうね。無常の中で縁によって因から果が生じるんです。裸の現実とは、まさにそうした構造を持っている。ところが人間には夢があり、それを実現させていく技術があり、個人的レベルで言えば才能があって、その極端な場合は天才と称され、それらがいわゆる社会を変えていくんですよね。その大きな単位が文明でしょう。そしてその原動力として、西洋文明が大きな力を発揮しつづけていますよね」
 「今やそれだけじゃダメだ……と言いたいわけだ」
 「だってそうでしょ?」
 「だけど、たとえば仏教が現実の社会の中でどういう役割を果たすのか、今ひとつハッキリしないわな」
 「さっきも言ったとおり、社会単位で言えば平等主義、また地球単位で言えば、環境問題でしょうね」
 「自由は?」
 「それはまさに内面的な問題でしょう」
 「つまり、関係ない?」
 「と言うか、平等も環境も、その自由を求めるための土台として必要なわけでしょう。言い換えれば、外的な平等と環境を保障された上で、精神の自由がめざされなければならないんじゃないでしょうか?」
 「それってどこが仏教的なの?.まるで西洋的な近代精神じゃないか」
 「だけど、社会的存在にとどまる限り、究極的な自由は得られないんですよ」
 「それで?」
 「しかし、大半の人間は社会を超えることは出来ない」
 「それで?」
 「だから、死後の自由に賭けるんです。要するに、真の自由とは悟りの1つの形態ではないでしょうか?」
 「そういうのは、ちょっとわびしいんじゃないかなあ……」
 「しかし、それにさえ無頓着な人生に比べるとき、大した差ですよ。それが親鸞の教えるところ、浄土真宗のめざす方向じゃないでしょうか?」
 「確かにそんな自由もあろうけれど、もっと外的な自由もあるだろ?.それはどうなの?」
 「それは社会的自由のことですよね?」
 「そう、いくら近代化したとはいえ、まだまだ制約の多い社会だわな」
 「だから、そこはもう仏教で云々できる範疇ではないのではないかしら……。それは先ほども言ったように、服に当たる部分だから、たとえば蓮如は、仏法と王法という表現でキチンと分けていますよね」
 「それがまた、体制擁護だと批判されてもいるわなあ」
 「だから、自分の体格に合わない服を脱ぎ捨てる覚悟があるか否かでしょう。何千年にも渡る身分社会の中で、少なくとも仏門の中、具体的には寺の境内の中では仏法の下での平等があったはずです。でないと、形ばかりの仏教だと批判されても仕方ない。また、だからこそ、親鸞も道元も日蓮も、形しか残っていない比叡山を去り、野に下ったわけでしょう。
 しかし、その仏教の理念を社会全体に権力によって及ぼそうというのは、政治的野心と言う他ないでしょうね。それは、あくまで心から心へと広められなくちゃならんでしょう。ところが歴史的に見ると、往々にして政治権力と持ちつ持たれつの関係があったことは事実でしょうけどね」
 「そこは微妙なところだろうな」
 「難しいですよ」
 「外と内の自由の関係は、具体的にはどう捉えればいいの?」
 「仏法第一の精神をしっかりと持つことでしょう。それがさっきも言った、因果と無常、それをつなぐ縁起だとボクは考えていますけどね。さらに、出家と在家で違いがあって、出家者にはいろんな修行があるけれど、在家者の場合、エゴ、つまり悪人の自覚と、その自覚に立った仏法への帰依が大切なんじゃないでしょうか?.それが浄土教の歴史であり、とりわけ親鸞だとボクは思うんですけどね」
 「うーん」とX氏は腕組みをしてしばし沈思黙考の構えです。「分かる気もするが、だとすると、それは釈迦の天上天下唯我独尊とどうつながるのか、そこが今ひとつハッキリせんわな」
 「その『我』とは仏教的『我』であって、いわゆるエゴとは別物ですよ」
 「同じ言葉に2つの意味がある?」
 「そう。同じ言葉に社会的側面と仏教的側面、あるいは在家的用法と出家的用法があるんじゃないでしょうか?.その正しい使い分けが失われたところから、様々な誤解もまた生じたんでしょうけどね」
 「そんな紛らわしいことをしなけりゃいいと言うのは、仏教に余りに冷淡な発言かも知れないな。何千年にも渡る歴史上の紆余曲折によって、いわばゴチャゴチャになったんだろうから」
 「そうなんですよ」
 「しかし、ゴチャゴチャになるままに放置してきた仏教側の責任もあるわけだ」
 「そうでしょうね」
 「もう回復の不能なんじゃないの?」とX氏はニヤニヤします。「たとえば天上天下唯我独尊にしたって、今の説明は初めと違うわな」
 「そうかもしれません……」
 「今日はひどく謙虚なんだなあ!」とX氏。
 「ボクはいつだって謙虚ですよ」
 「ホントですか?」とX氏が今まで黙って聞いていた弥勒寺さんにその顔を振り向けました。「Jくんは、これでなかなかきかん気が強いと言うか、唯我独尊と言うか、要するに僧侶らしからぬところがあるように思えてならないんですけどねえ……」
 「ぼくらはホントの僧侶ではないんですよ、非僧非俗の立場なんだから。ねえ、弥勒寺さん!」
 「そら、こういうところ!」とX氏は愉快そうにソファに寄りかかるのです。「常に理屈を付けたがる」
 「人それぞれでしょうなあ」と弥勒寺さんは張りのある丸い頬に笑みを浮かべつつ、前屈みになって、X氏とわたくしの煎茶茶碗に煎茶を注ぎました。「それこそ天上天下唯我独尊でいいんじゃないですか……」