プラトニスト
「ソ連はプラトニストの最後の花だと言われてるわな」とX氏。
「ええ、開かれた社会の敵ってことでしょ?」とわたくし。
「そう。理想国家は実は現実を押しつぶしていく抑圧装置として作用することが証明されたってわけだ」
「違いますか?」
「プラトンの理想は、確かにダメだろうな。ソ連に限らず、歴史的に見ても、理想の押し付けはろくな結果になってない」
「でしょ」
「だけど、プラトンの魅力は、彼の思想をまとめたって、そこからは掌に掬った砂のように、軽やかにこぼれて行くだけじゃなかろうか」
「?」
「つまり、彼の著作はみんな対話で出来てて、対話自体にその真価があるんじゃないの?.プラトンほど当てにならないプラトニストはいないって言葉も、その辺りの機微を突いてると思うな」
「だけど、プラトンの対話はダイアローグじゃなくて、モノローグに過ぎないって批判してる人も、確かいましたよ。それは、本当の他者がいないということでしたけどね」
「そんなの、会話が成立すれば、それは本当の他者でない証拠だ、と言ってるようなものだ。あるいは、プラトンの対話の向こうに明らかな、確たる大地の誘いに無知だわな」
「そういう受け止め方には、Xさんの信仰告白の趣がありますね」
「だって、『ゴルギアス』なんて、典型的な他者との対話じゃなかろうか?.だから、ニーチェはそこで、ソクラテスよりはるかにカリクレスの論理に魅せられたわけだろ。あの最後のソクラテスの弁明には、しかしプラトンの肉声が響いているよ。
『チャップリンの独裁者』の最後のシーンで、チャップリンが大映しになって反・独裁を訴えている、その真率な表情が、オレにはダブルイメージされてしまう。あれを見たとき、ちょび髭に惑わされなければ、彼は美丈夫だと確信したよ。
『ゴルギアス』の迫力は、それと同じく、プラトンの本音が露骨に出てるところにあると思うな。ソクラテスもカリクレスも、彼の分身なのさ」
「そして彼は最終的にはソクラテスを選んだ」
「そう!」
「そこに一種の自己欺瞞はなかったかしら?」
「理想主義を悪く言えば、そういう批判にもなるんだよ」
「ここまで人類全体が西洋科学文明に基づいて発展して来た現在、その根本原理とも言える理想主義は、かえってマイナスの作用が大きいってことが、今や露わですよね」
「だから、オレはそのことを否定してるんじゃなくて、プラトンをプラトニストとしてではなく、強靱な思索家として尊敬したいのさ」
「だけど、そのイデア論に絡め取られないままにプラトンを読み解くことは至難の業じゃありません?」
「昔、『シクラメンのかほり』って歌がはやっただろ」
「ええ」
「『疲れを知らない子供のように、時が2人を追い越して行く』ってフレーズがあるわな。それを思い起こすたびに、オレは、時間と軽やかに戯れるすべを知っている子供のイメージと、プラトンとが重なってしまうんだ」
「そりゃあもう、プラトン信者ですよ」とわたくしは笑いました。「ますますイデアの城砦から逃れられなくなるじゃありませんか!」
「Jくんのところは浄土真宗だから、浄土教の1つなわけだ」とX氏。
「ええ」と、その急角度に折れ曲がった論議の行き先をわたくしは捕らえ切れずに、何となく不用意に返答したものです。「それが何か……?」
「浄土などという現実を超えた世界を想定することは、そもそも非仏教的じゃないの?.それは、仏教におけるプラトニズムですよ」
「イヤ、それは違うでしょう」
「どういう風に?」
「Xさんの気持ちはボクなりに分かるんですよ。ボク自身、浄土真宗は本当に仏教と言えるんだろうかと疑問に感じていた時期がかなりありますから。とくに『歎異抄』から親鸞に入ると、別に仏教である必然性はない。だから、多くの人々に受け入れられもしたんでしょうけどね」
「だろうな」
「だけど、『教行信証』で親鸞は浄土真宗は仏教だという証明を試みているわけですよ」
「それは成功しているの?」
「していますよ」
「どういう風に?」
「要するに、浄土真宗は仏教だということを、どれだけ深く確信できるかでしょうね。その確信の深さにおいて、親鸞の右に出る者はいないんじゃないでしょうか」
「だけど、それが証明と言える?」とX氏はいかにも不服げに細い薄い眉をしかめて見せます。「それじゃあ、誰かが何かを信じたら、信じられたことによって信じられたものは事実になると主張するようなものだろう」
「生死の問題ですから、理詰めの証明は不可能でしょう」
「じゃあ、誰もが好き勝手にやればいいってことになってしまう」
「プラトンのイデア論にしろ、論理的な証明ではないでしょ?」
「しかし、論理的に語ろうとする、彼の姿勢が貴重なんだよ」
「姿勢なら親鸞にもありますよ。だから、『教行信証』なんです」
「だからさ、また元に戻るけど、それとイデア論と本質的な違いがある?」
「ありますよ!」と言いつつも、わたくしに確かな自信はありませんでした。「イデア論での理想は、言ってみれば、ウルトラ・エゴの世界じゃないでしょうか?.ところが、浄土はエゴのない世界なんですよ」
「エゴの有無がその分かれ道だというわけか?」
「そう!」
「ふーん」とX氏は考え込みました。「その切り口は分かるなあ……」
「イデアの行く先は、結局、社会改革でしょうね。理想に基づいて現実を変えることが、何より求められるんです。ところが、それは形を変えたエゴだから、その意志によって抹殺されるエゴが跡を絶たない。ソ連然り、北朝鮮然り、中国然りでしょう。資本主義社会は個人の小さなエゴを認める社会だから、大きな過ちには陥らないんですよね」
「なるほど、Jくんの考えから行くと、国家エゴの歯止めには、資本主義社会はなっているってわけだ。しかし、国境を越えて膨張しつづける資本主義経済は、地球単位で人類のエゴを拡大しつづけているんじゃないの?」
「その通りです!.だから、そのエゴの超克が必要なんですよ!」
「いわゆる近代の超克?」とX氏の細い唇に皮肉の影が射しました。「しかしそれは、太平洋戦争の肯定という歴史的汚点を残して、すでに消滅しているんだぜ」
「そもそも仏教思想は自然との対話から、あるいは、せいぜい出家者の集まりの中から生み出されたものでしょ。だから、それを社会に安易に適用するのは危険極まりないんです。そこいら辺の歯止め感覚が日本人に今まで稀薄じゃなかったのかしら?」
「じゃあ、結局、仏教は現代社会には無効だって結論しか出せないよ」
「イヤ、そこで浄土思想、とりわけ親鸞の悪人意識が有効なんだと、ボクなんか考えるんですけどね。悪人とはエゴイストの謂いですよ、仏教的に言えば!.そういう眼差しを社会と自己とに向けつづけるところから、新たな地平が開けて来るんじゃないでしょうか?」
「そのエゴイストがプラトニストでもあるってこと?」
「いやあ、分かりませんけどねえ」とわたくしは笑いました。
「しかし、プラトン的思考は何か役に立たないだろうか?」とX氏はニヤニヤしながら問うのです。「彼の思索は社会、特に政治に敏感だから、なかなか刺激的だぜ」
「ああ、それは分かります」
「やっと意見が一致した!」とX氏は背もたれにヒョロリと長く寄りかかって大きく背伸びをし、振り向くと、窓の外はすでに夕闇が深く降りて来ています。「ぼつぼつ帰ろうか?」
「帰りましょう」と勘定書きを手にしてわたくしが立ち上がると、
「オレが払うよ」とX氏。
「イヤ、いつもXさんに出してもらってるから、今日はボクに払わせて下さい」
「あっ、そう!」とX氏。「もちろん、こだわらないよ。こういう時にエゴを出し合ったって、茶番劇だから」
そこは、東に広がる新開地の中に取り残された旧市街にある、小さな、馴染みの喫茶店です。小さな駐車場の上にダークブルーの空がすでに夜の神秘を漂わせつつも、西方はまだ夕焼けに明るいはずなのです。しかし、丘に立つミッションスクールが城砦のような深い影を広げて、同じ丘続きの弥勒寺をすっぽりと包み込み、その後背地の墓地ばかりが赤く照らし出されています。
「じゃあ、また!」とX氏は手を振って自分の車に乗り込み、
「失礼します」とわたくしも頭を下げて自分の車に乗って、それぞれの方向にハンドルを切ったのでした。