孫の死
T寺のお孫さんが亡くなったと連絡があり、午後、お悔やみに行くと、体も顔も目も眉も大きい、まだ若いT寺の息子さんが、
「お忙しいのにすみません」と出て来られました。
そのお子さんは南に向いた座敷で顔を白布に被われ、北枕で、ご仏壇の前の布団の中です。息子さん一家は去年の秋、京都から帰郷され、近隣の寺々の親睦会がT寺で行われた時、
「これが長男です」と息子さんが紹介され、お子さんが黙って恥ずかしげに頭を下げたのが、つい昨日のことのようです。T寺さんもその時、穏やかな表情で頷いておられたものです。
「あの時はお元気でしたよね?」と、おつとめの後、わたくしは尋ねました。
「ええ」と後ろに控えていた息子さん。「今年になって、賢治が『頭が痛い、痛い』と言うものだから、初めはインフルエンザかと思ってたんです。その頃、流行っていましたから」
「ええ」
「ところがいくらその薬を投与してもいっこうに治らないんで、これはおかしい言うんで、脳外科で検査してもらったら、腫瘍が出来てたんです」
「はあ、そうだったんですか!」
「この子の年齢で腫瘍が出来るのは非常に珍しくて、今の医学ではまだ治す決め手がないらしいんです。若いだけに、広がるのが速かったんです。4月1日に10時間に及ぶ手術をして、いったん快復して、家にも戻っていたんですけど、おととい、病状が一変して、今朝、亡くなってしまいました」
その隣にはT寺の古奥さんが、黙って丸い、しかしひどく色の悪い顔をして坐ったまま、わたくしの物問いたげな表情にも応じる気配を見せません。T寺さんも古奥さんも決して丈夫なタイプではなく、そのため息子さん一家が去年の秋、急遽、帰郷されていたのです。座を立つ時、
「失礼いたします」という言葉しかわたくしにはありませんでした。
「わざわざありがとうございました」と息子さんの人の良さそうな声を背に受けながら縁に出ると、ちょうどお子さんが通っていた幼稚園の保母さんが3人、弔問に来られたところでした。
「まあまあ、どうぞ、顔を見てやって下さい」とT寺の古奥さんが言われるのが、帰っていくわたくしの耳に遠く聞こえました。
通夜はその夜の7時からでした。15分前に寺を出て、町の北を東西に走る新・幹線道路を、次々と出来た店々のイルミネーションを後にしながら、10分ほどでT寺に到着すると、いつもの駐車場はいっぱいで、臨時に用意された休耕田の駐車場に車を停めて庫裏の2階の座敷に上がると、もうお寺さんは殆ど来ています。みなさん黒い輪袈裟で、昼間のお悔やみの時には普段の輪袈裟で訪れたわたくしは、帰ってから黒にすべきだったと気づき、今度は黒だったのです。
本堂は菊の花で満たされた祭壇がしつらわれ、銀紙を巻いた、油で芯を燃やす太い蝋燭が、祭壇の2ヵ所と、内陣の阿弥陀如来、親鸞聖人、蓮如上人の前とで、表向き静かな人々の心の中を照らすかのように、チラチラと赤く激しく燃えています。正信偈が勤められ、導師の法話と御文章拝読の後、喪主の息子さんが立ち上がって謝辞を述べかけましたが、大きな顔がクシャクシャになってすぐ言葉が出なくなりました。
「こうなるかも知れないと息子から頼まれていましたので、代わってわたしがお礼の言葉を述べさせていただきます」と隣に立ってマイクを手にしたT寺さんは、自らの病気の上に孫との死別が重なった、憔悴し切った表情でした。「わたしの胸に今、グサリと突き刺さっているのは、『お祖父ちゃん、ボクも頑張るから、お祖父ちゃんも頑張りよ』と言った孫の言葉です。それが孫の最後の言葉でした。それを思うと、何としてもこの葬儀だけはわしの手で立派に成し遂げてやらにゃならんと、今、その一念だけです。皆様、明日の葬儀にはまたいろいろとお手数をかけると存じますけれど、どうぞよろしくお願い致します」
普段、その大きな体躯と共にその威勢の良さが印象にあるだけに、T寺さんの落胆ぶりが強くわたくしの胸を打ちました。孫は可愛いものだとよく言われますけれど、自分もいずれそう思うようになるのだろうと共感できるほど、T寺さんの言葉には真情の吐露があったのです。
その翌日の1時から葬儀です。通夜にギリギリで間に合ったわたくしは、12時早々着替えて出かけ、12時30分にはT寺に到着しました。庫裏の2階の8畳2間が寺院関係者に当てられて、長テーブルに着くとお茶と和菓子が出され、すぐに弁当が出て、猪口にお酒を、手伝いのご婦人が「1杯、どうですか?」と言いながら注ごうとされたのですけれど、わたくしは断りました。作法の1つですから、受けて、ほんの舌を潤す程度飲んで後は残しても、もちろん構わなかったのです。けれどその日、わたくしは弁当も食べず、式次第に目を通してから、色衣と五条袈裟に着替えました。
本堂の前にテントが張られ、広縁には椅子が並べられて、参列の方々の一部がその椅子に坐っています。わたくしたち寺院の者が中に入って行って右手の座に次々に坐ると、向かいにはすでにT寺さん一家とその親類の方々が坐っていました。
導師は若いL寺さんです。寺院成立の経緯に基づくならば、この地の大半の寺はかつてR寺から派生していますから、R寺さんが導師を勤めるのが道理です。事実、T寺さんの前住職が亡くなった時の導師はR寺さんだったのです。ところが、R寺さんは事ある毎に自慢と吹聴を繰り返すものですから、大半の寺から嫌われ、T寺さんも常々「いつまで江戸時代のつもりなんじゃ。わしゃ、いつでもあの寺とは縁を切る」と語っていたものです。
昨日の通夜の後の挨拶で、「今回は寺としてではなく、家としての葬儀にしております。したがって、本来の作法と違う点が多々あろうかと存じますが、わたしのわがままとして許して下さい」とT寺さんが述べたのも、R寺さんを念頭に置いてのことに違いないのです。
R寺さんは他の寺でも席順を巡って式を紛糾させたことがたびたびでした。そして今回、多くの寺と同じ黒衣に五条袈裟だったのです。
浄土真宗のおつとめは何であれ、正信偈がその中心で、葬儀でもそれに変わりなく、その途中で喪主の挨拶となって、喪主と共に縁の端まで出て行った若奥さんの父親が喪主に代わって、
「諸行無常を長い間、わたしもご門徒の方々に説いて参りましたけれど、所詮、他人事でした。他人事であったと、今、思い知らされているところです。
賢治はわたしにとって初孫でした。それをこういう形で失うことになったのも、厳しいみ仏のお諭しとして受け止めなくてはいかんと、今、懸命に考えているところです。賢治は凝縮された人生を経て、今、お浄土に還って行ったのです。仏様のもとに還ったのだから、あるいは喜んでやらんと行けないのかも知れませんが、そう思うには、わたしは煩悩が強すぎます。人に仏の教えを説く資格のない人間だったと、この年になって初めて、思い知らされています。そんなわたしの業の深さを教えるために、賢治はお浄土に還ったに違いありません。
昨日のこと、T寺さんに『お体の方は大丈夫ですか?』と問うたところ、『わしゃ、もうどうなってもええ。賢治がお浄土でわしを待っとる』と言われました」
それを聞くと、T寺さんは口をへの字に曲げて目をつぶって上を向き、涙を抑えておられます。
「娘は『今日までは泣かん。今日が終わったら、泣きたいだけ泣かしてもらう』と、賢治に向かって約束しておりました」
父親のその言葉に、わたくしの真向かいの若奥さんの顔が涙でたちまち崩れていきます。わたくしもつい目頭が熱くなり、メガネの裏が熱く曇るのを止めることが出来ませんでした。
死はいつ、誰のもとに、どのように訪れるか分からないと、仏教では説いていても、年若い人の葬式ほど、儀式が儀式でなくなります。90才なら大往生、80才で往生、70才なら「10年早かったなあ」と語り合い、60才の場合、「気の毒じゃなあ」と誰もが思うことでしょう。ましてそれよりもまだ若いとなると、子供の養育からして残された者の手に掛かってきますから、大変です。
かつてある医師が「医学の目的は不老不死じゃありません。誰もが80年の人生を全うできるようにすることなんです。ですから、いくら医学が進歩しようと、宗教の存在価値がなくなることはないんです」と語られことが、わたくしの心に強く残っています。
「死」は確かに宗教に向かうジャンプ台に違いないのです。その乗り越えは、個人々々の確信の深さに依る他なく、「死」を前に泣く他ないところには、「煩悩」の深さが示されていることでしょう。しかし、「煩悩」を「煩悩」と知り、だから「仏」を「仏」と敬う心には、それにさえ無縁な生き方とは全く違う世界が開かれていくことでしょう。
そして、そこに現代人が仏教に踏み込む第1歩があるはずだと、わたくしは深く信じているのです。