ある日
 
 10時40分まで授業をすると、遅れるので30分で切り上げて、チャペルのある高校を走り抜けるように車で出て、丘を下り、用水路に沿った閑静な住宅の続く道を通って、広い道路に出て右折して東に走り、その高校のある丘を貫通するトンネルを抜けると、ここ30年ほどで開けた新開地です。それは日本中のどこにでも見受けられる、鉄筋の店とマンションと、モルタル造りの住宅とが明るい日の光を満喫する、「希望」の土地なのです。まっすぐさらに東に走って、4つ角を北に曲がって4車線道路に出、わたくしは自分の町をめざしました。
 紳士服店、中古車店、レストラン、スーパーマーケット、ガソリンスタンド等々、道沿いに居並ぶ、通勤途中で見慣れた店々を後にして、高い山の麓を巡って緩やかな勾配の坂を登って、街を外れると、長い歩道橋の向こうに高速道路の高架線が、ガッシリとした薄緑色の腹を見せ、太い、幾つもの橋脚を渡して、浅い広い池を横切っています。右手は低い山肌が広がり、左にはまもなく、遠方に向かって低くなだらかな、見た目にはもう殆ど住宅で埋め尽くされた盆地が見え、さらに走ると、視界が開けてK平野の向こうの中国山地の山々が、大空のはるか下をうねって続いているのです。
 道路が線路をまたいで高架になる、その手前で右手に降りると、東に突き出た、現在もっとも町で羽振りのよい経営者が建てた観音像が小さく見えるK山の麓に家々の密集する、K町に至るのです。
 山の麓で町に入って左にカーブして、駅前の5つ角をそのまま北に狭い旧道に入って、その道沿いにある寺に戻って、わたくしはすぐさま法衣に着替えました。トランクを持って階段を下りて、また車に乗って、車で数分のご門徒の家の近くの集会所に駐車して、その家に赴くと、庭木の陰に黒い礼服姿の親類が何人か出ていて、
 「お待ちしていました」と言われるのです。
 「遅くなりました」と、座敷の縁から中に上がって、「みなさん、遅くなりました」とわたくしは改めて挨拶し、仏壇の前で合掌・礼拝した後で、トランクを開けて法事用の五条袈裟を羽織ります。その間にお茶が出て、着替えたわたくしは一口すすり、
 「みなさん、お集まりですか?」と問うのです。
 「はい、揃うています」と未亡人。
 そこで仏壇に向かって阿弥陀経を、和讃と共に30分ほどで勤めて、短い法話をした後、すぐ南の小学校のグラウンドを渡り、池の土手を巡ってその南を屏風のように塞ぐ山の半ばまで今や延びている、墓地に行きました。もっともその日、いろいろと用事の重なったわたくしは車で墓地の下まで直行し、もう殆ど花の散った桜の太い幹の横に立って、明るい晩春の陽を浴びた小学校舎を眺め、K山を仰いで先ほどより間近に観音像を見ながら、人々の到着を待ちました。
 墓地でのおつとめはすぐに終わり、通例それから昼のお膳に招かれるのですけれど、その日はその場で別れて、寺に帰って葬式の世話を頼んだ役僧さん2人を待ちました。その1人は今回初めての方で、もう1人と共にやって来たその人は、ふっくらした頬の、目がクリンとして人の良さそうな、尋ねるとちょうど70才の方でした。腎臓が悪いということで、そう言われれば顔色が悪く、式場で出された弁当にも箸を付けず、お汁を食べられただけです。もう1人のHさんも昨年の春、胃を半分切り取られたばかりでしたが、こちらは食事も普通に出来るとのことです。もっともその日、式場で弁当を食べたのはわたくしだけでした。亡くなられた方も癌だったとのことで、「死」の影は至るところに見え隠れしているのです。
 きれいな町、きれいな家、きれいな家族、きれいな死等々、「清潔さ」が追及される現代において、「死」もまた「葬式」の華やかさの陰に、ともすればその本当の姿が隠されがちになっているのです。
 「この間、神奈川に行って来たばかりなんです」と新たに頼んだ役僧さんが語ります。「あちらではお葬式ももう葬儀屋が牛耳っているんですね。葬儀屋がいろんな宗派の坊さんを抱えていて、人が亡くなると、その家の宗派に合わせて声がかかるらしいんです」
 「それはよく聞く話ですね」とわたくし。「だから、みなさん、マンション暮らしらしいですよ」
 「時代は変わりました」
 「特に東京は今まで人が地方から集まって来るばかりだったけれど、今後は高齢化して、死ぬ人もどんどん増えていきますわな。葬式産業は10兆円産業とか20兆円産業とか、どこかが試算をはじき出していましたよ」
 2人の役僧さんは笑いました。
 「これからは大変ですよ」とわたくしは食後のお茶をすすりながら、「確かに葬式を受け持ったことで仏教が日本人に受け入れられた面は否定できないけど、葬式だけとなると、もう仏教の『ブ』の字しか残らないことになる」
 2人の役僧さんは頷くでもなく黙ったまま、式の支度を始めます。
 わたくしは七条袈裟を着せてもらい、町外れに出来た広い道路沿いの、まだ新しい集会所の広間に出ました。祭壇正面にはその人の温厚な風貌をよく写した遺影が掲げられています。盆と報恩講の年2回、訪れてしばし語らったその人は、今、棺の中です。わたくしは心を空にしてナムアミダブツと称えました。「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と繰り返し、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と締めくくって、式を始めたのです。
 小1時間で式が終わると、その場で役僧さんと別れ、そのままご門徒の家に行くつもりだったのですが、約束の3時にはまだ早く、いったん寺に帰って一休みして、妻の軽自動車に乗り換えて出かけました。小道に入って、荒神さんの前で急角度でその家の庭に入り込まなければならなかったからです。
 3人の老婆が集まった仏壇の前でその妹の50回忌のおつとめをすませ、しばし語り合うと、「50年いうても、過ぎてしまえば早いものですねえ」と3人は口々に語ります。1人はその家に嫁いで来た後家さん、2人はその家から嫁いで行った人たちで、そのお2人と会うのは今度がわたくしは初めてです。もっとも寺の人間と在家の人間との関わりは、初めてであっても十分に通じるのです。
 寺に帰ると朝の法事の家の人々が寺参りにすでに来ていて、境内でわたくしが車を回して停めるまで、鐘楼や本堂を仰ぎながら待っていました。
 「いやあ、失礼しました」とわたくしは走って庫裏に入って行って、本堂の鍵を開け、人々を招き入れて、おつとめをしました。終わると、妻がお茶と茶菓子を持って出て来ます。それが、この地の法事の作法なのです。
 葬式も法事も、その他さまざまな仏事に至るまで、地方により寺により、あるいは家によって様々で、それが維持されながらも、また、時代と共に変化しつづけているのです。「儀式」は変化しないようでいて、実は変化しつづけているのです。その「儀式」に追われるだけであっては、「仏教」のせいぜい入り口ではあっても、それが「仏教」だとは誰も言いません。
 何よりもまず「わたくしの仏教」が求められる時代でしょう。そしてそれはわたくしにとって、わたくしを忘れている日々の生活・行動の中で出会う何かだと、感じているところです。それが50年近い人生の中で、少なくともわたくしには一貫しているものなのです。