公園にて
 
 わたくしは時々衝動的に、車を駆って30分で、その公園に出会いたくなるのです。隣の街の東はずれのその公園は、貯水池のぐるりが、殊にその東が整備され、歩いて30分の、ジョギングにちょうどいいコースを提供しているのです。それゆえ、今ではいつ行っても、ジャージ姿のお年寄りが、健康管理に何組も歩いているのに出会います。
 駐車場に駐車して、管理室とトイレの隣接した建物のそばを抜けて正面の門を通過すると、白いタイル張りの遊歩道の向こうに、これまた白いシンボル塔が、両手を空に伸ばしたその先が触れるように、外に湾曲して2本、目につくのです。まだ早春のメタセコイヤが繊細な枝を4方に張って何本も、貯水池の方角にまっすぐ向かうわたくしたちの両側で後ろへ後ろへと、退いていきます。
 もう夕暮れが近く、それでもシンボル塔の向こうの広い芝生の上で、子供たちが遊んでいます。右手の赤煉瓦の仕切りに植わったヒイラギナンテンの奥の、木立に隠れがちな遊戯場からも、子供たちのはしゃぐ声が絶えません。若い生命は、しかし、公園の広さと空の広さ、向こうに見える池の広さの中にあって、実に慎ましやかな陰影を帯びているのです。
 シンボル塔までたどり着くと、それは人工の御影石か何かで出来ていて、同じく白い敷石が、わざと荒っぽい凹凸のままに敷かれています。芝生を踏み締めて柔らかい心地よさを越えれば、そこは、西に向かってベンチが並ぶ、広い空と広い池が眺望できる、ゆったりとした時間が流れている場所でした。
 池は濃い青いさざ波を立てて、満ちてまるで膨らんでいるようであり、その左手に車が常に疾走し、右手は公園が続き、池を隔てた遠い土手には大きな楠が、その遠さゆえに空の下で小さく、緑濃い梢が揺れて仄かな光を散らしているのです。その土手から、池に延びる公園に向かって、どこか趣味の悪い赤い太鼓橋が、大股を開いて歩いて来る風情で架かっています。
 その池の上の、必ずどこかに見つかる遠い雲を、わたくしは仰ぐのが好きでした。西に向かって、しかも夕暮れ、赤みがかった夕陽の中で仰ぐのが好きだったのです。学生時代には、夕陽が沈んだ後のしばらくの間、まだ暮れ残る深い青に充ちた、透明で静かな憂愁が好きでした。それはたぶん、異郷の地ゆえのセンチメンタリズムだったのでしょう。
 そして今むしろ夕暮れに心惹かれるのは、むろん、西方浄土がイメージされるからに違いありません。西陽のそんなイメージは、しかし、信仰を超えたごく自然な感覚でも認められ得るものでしょう。
 「だから、弥勒寺さんの気持ちは分かるんですよ」とわたくしは言いました。
 「だろ」と弥勒寺さんはわたくしと共に西に向かって池の前にたたずみながら、目を細めて茜色に照らされているのです。「しかし、浄玄寺さんがわざわざここまでやって来るとは知らなかった。オレの方がはるかに近いのに、来たのは何年かぶりだよ」
 「車で来ますから」
 「しかし、キミはオレの観想念仏を批判してたぜ」
 「してませんよ」
 「してた!」と弥勒寺さんは冗談っぽく断言しました。「言った方より言われた方が憶えてるものさ」
 「それにボクは何も観想念仏に来てるわけじゃありません」
 「じゃ、何なの?」
 「大きい自然の中にいると、自分を忘れられるじゃないですか。しかし、全くの無意識というわけじゃなく、その微妙な状態でナムアミダブツを意識してるんです。いや、意識したいと願ってるんです」
 「そりゃまた、なぜ?」
 「理屈は後からついて来てるんですよ」とわたくしは微笑みました。「それでもいいですか?」
 「聞かんよりはいいさ」
 「何かを感じる時には、いったい何を感じているのか?.空を見るときは空であり、海を見るときは海であり、車を見るときは車であり、部屋を見るときは部屋でしょうけど、しかし、それだけじゃないんじゃないでしょうか?.つまり、そこにはどうしても、意識の切れ端が残ってる気がするんです」
 「だけど、それがナムアミダブツであるとは限らない」
 「だから、それをそう感じる功夫をしたいんです」
 「要するにオレと近いな」
 「そうかも知れませんね」
 「同じじゃないか?」
 「ちょっと違うでしょう」
 「どこが?」
 「夕陽だけに感じたいんじゃ、ボクはありません。いわゆる意味のない、あらゆる行為に、ボクは感じたいんです」
 「しかしわざわざここまで、夕陽を見に来てるわけだろ?」
 「正確に言えば、むしろ池や木々や空に会いに来て、その1つが夕陽だと言うだけのことですよ。現に夕方ばかりに来てるわけじゃありませんもの。昼日中にも来るし、ジョギングの目的もありますしね」
 「そうか…」と、しばし弥勒寺さんは夕陽に向かって沈黙しました。「…アミダはそりゃあ、うちの本堂にもいらっしゃるし、お宅の本堂にもいらっしゃるけど、空にもいるわなあ。特に夕空にはそれが露わだと、オレは感じるんだよね」
 「いや、ナムアミダブツでしょう」
 「それはアミダと違うのか?」
 「違うでしょう」
 「どんな風に?」
 「アミダというと、それが空でも地でも木々でもどこでもいいんですけど、見られるアミダであって、見るわたしがいるって事ですよね。要するに、それは観想念仏でしょう。それでは結局、エゴが抜け切らないんじゃないでしょうか。いや、もっと正確に言えば、出家した人の観想は修行の1つとしてそれなりの意義があっても、在家の者はそうは行かない」
 「オレんところは寺だけどな」
 「そこが微妙ですよね」とわたくしは笑いました。「寺を、しかも浄土真宗の寺をどう受け止めるか、見る人、あるいは住む人によって様々でしょうね」
 黙って腕を組んで西方を見つめる弥勒寺さんの、小柄ながらガッシリとした体躯、引き締まった表情や時に鋭い眼光を放つ切れ長の目やふっくらとした頬の緊張感などからは、少なくともわたくしにはない何かが放たれていました。それは、独り何か修行している人の迫力に違いないのです、わたくしには何も言わないのですけれど…。
 「ボクはどうしてもエゴから逃れられません」とわたくしは正直に告白しました。
 「その気もないんだろ」と弥勒寺さん。
 「そこいらは微妙ですね」
 「あなたは『微妙』が好きだな」
 「それは言葉を超えた世界を最近、つとに感じるからでしょうね」
 「それがアミダの世界、仏教の世界じゃないの?」
 「ボクにとっては、まだ無意識の世界ですけどね」
 「分かるような…」
 「分からないような」とわたくしがすぐさま応じると、
 「よく分かってるじゃないか!」と弥勒寺さんは笑いました。
 「ただ、無意識の世界と言っても、たとえばフロイトが言うような夢で検証できるようなものじゃなくて、もっと単純な、歩いている時、食べている時、山や空に見とれている時など、我を忘れている、ごく日常的な時のことなんです。そういう時間を大切にしたい。その方法が、ナムアミダブツを感じつつ生きることじゃないかと、思うんです」
 「うーん」と弥勒寺さんか首を傾げます。「やっぱり分かるような…」
 「分からないような」と、今度はわたくしが笑いました。「ボクにもまだ分かりません。ただ最近、しきりにそんな気がしてるだけなんです」
 「日常生活を大切な修行の場と見なすのは、禅宗だけどね」
 「修行じゃないんですよ。だから、浄土真宗なんです」
 「そうなればもう、宗派に囚われる必要はないんじゃないの?」
 「いやいや」とわたくしは真剣に否定しました。「聴聞がありますよね?」
 「うん」
 「あれはやっぱり大切です、少なくてもボクには。するとやっぱりそれは、浄土真宗的なんですよ」
 「無理に付き合う必要はないんだぜ」
 「いやいや」とわたくしは笑います。「そんなことを言い出すと、むしろ弥勒寺さんの方が異安心ですよ。観想念仏なんて、本気で言うんだから」
 「いやいや」と今度は弥勒寺さんが笑います。「オレにはアミダ様へのこだわりがある」
 「それはシンボルですよ」
 「じゃあ、ナムアミダブツは何なんだ?」
 「そこにはナムという行為があるから、観想じゃないんです。それがつまり、ボクをエゴから切り離してくれる無意識の働きでしょうね」
 「やっぱり屁理屈だなあ」
 「もちろん、屁理屈です」と再びわたくしは笑います。「だから最初に言ったでしょう、理屈は後からついて来たものだって!」
 話し飽きて歩き始めると、藤棚の下のベンチには若いアベックと老夫婦、それに画架を前にスケッチにいそしむ中年の婦人がいました。その突き出したコンクリートの岸の向こうは、夕陽を散らした金色の波がさざめいているのです。
 さらに歩いて、陽が翳ってダークブルーの静寂で透明な空気に満たされた菖蒲の園を巡りました。その遊歩道と外部とを隔てる金網の上は、高速道路の厚い鉄筋コンクリートがデンと白く視界を遮っています。防音壁があっても、絶えず行き来する車の音が、わたくしたちの頭上に響きつづけているのです。
 貯水池に突き出た丘に登ると、風が強く、それは春一番を告げる暖かさでした。風は、池を隔てて西に壁のように広がった楠を渡って、水面に繰り返しザアーッと波紋を描いて降りてきて、消えていき、また降りてきて波音と共に広がっていくのです。
 すでに夕陽は落ちて空気は深く沈み込み、風もやんで人も去る頃、わたくしと弥勒寺さんとは丘の上の東屋を出、巡って来た遊歩道を引き返していきました。