信じるという事
 
 Mさんのお宅を報恩講で訪れると、珍しくお婆さんは不在でした。そこで、定年2年目のご主人とその奥さんがわたくしと共にご仏壇に掌を合わせ、正信偈をお勤めしたのです。
 終わると、お茶と和菓子が出され、お茶をすすりながら、
 「お婆さんはどちらへ?」とわたくしが尋ねると、
 「ちょうど親戚に不幸があって、その弔問に出かけました。ご院さんによろしく伝えておいてくれと言うとりました」と、細面の、頬骨の出っ張ったご主人が答えます。
 「そうですか」とわたくし。「信心深いお婆ちゃんですわなあ。今年お幾つになられるんですか?」
 「ちょうど米寿の88です」
 「それはめでたいことですねえ」
 「ご住職さん」と、後ろに控えていた奥さんが、もう抑えきれないといった面持ちで言葉をかけるのです。「信心と道徳とは一致しないんでしょうか?」
 「はあ?」
 「うちのお婆ちゃんは、自分が得するためには平気でウソをつくんです」
 「やめないか!」と振り返ってご主人が語気を強め、目を怒らせても、奥さんは意に介しません。
 「わたしは30年以上、我慢しました。ところが主人が定年になり、子供も就職して、もうわたしたち自身が老後を迎える段になってもまだ、うちのお婆ちゃんはお中元やお歳暮のお返しを取り上げるんですよ。わたしたちが送ったそのお返しが届いても、自分の付き合いだと言い張ってんですからねえ!.さすがのわたしも頭に来て、主人が勤めを辞めてからはもうわたしたちの付き合いだと頑張ったんです。するとまあ、盆・暮が来ると、玄関のすぐ隣の部屋に琴を運び込んで、そこで弾くじゃありませんか!
 電話にしても、自分の部屋に子電話があって、今まではわたしが連絡ボタンをずっと押しつづけないことには、受話器を取らなかったんです。ところが、今はいつも目の前に置いて、ベルが鳴ると瞬時に自分が取って、こちらには何の伝言もないんですよ。そりゃあ、お婆ちゃんへの用事もあるでしょうが、10回のうち1回もありゃしません!
 アレコレ言い出せば切りがないんですけど、よその話を聞けば、どこの家でも年寄りが若い者に遠慮して、たとえば食費の一部を助けるとか、まったく別所帯でまかなうとかしているのに、うちは3度々々の食事をわたしたちが世話して来たんです。日々の牛乳代くらい自分で払えばいいのに、その請求書はちゃんとこちらに回してですからねえ!.新聞でも、朝の9時に持って行って、そのまま夜の7時までお婆ちゃんのところなんですよ。
 お婆ちゃんにはお爺ちゃんの年金がたっぷりとあって、月々の生活費には困らないはずなのに、事ある毎に『ない、ない』と愚痴るんですからねえ!.それでも、朝晩のおつとめだけは欠かしませんから、感心なような、腹立たしいような、複雑な気分です」
 ご主人は腕組みをしてムッツリと黙ったままで、それは半ば奥さんの訴えを認めている風でした。その奥さんも細面の長身でしたから、2人は夫婦というよりむしろ兄妹の印象があるのでした。
 「そんなうちのお婆ちゃんに信心があるんでしょうか?」
 「そりゃないと、毎日、おつとめは出来ないでしょう」とわたくしは言わざるを得ません。
 「ウソをついてケロリとしていても、やっぱりあるんでしょうか?」と奥さんは疑わしげに細い目をさらに細めます。
 「ヤス子、やめないか!」とご主人の形相がいささか修羅めいた凄さを帯びました。「ご院さんに失礼だろうが!」
 「この人は何だかだと言っても親子ですから、甘いんです」と奥さんは、それでもシラッとしています。「馴れない家庭に入って、30年間堪えて来たわたしの気持ちは、いくら訴えても通じないんです」
 フーッと大きく溜め息を吐き出したご主人の後ろで声の震える奥さんに対して、正直なところ、わたくしは弱ったのです。どの家庭にもそれぞれ事情があり、それは容易に外から口出しできる類いのものではなかったからです。お婆さんにはお婆さんの言い分が、きっとあるに違いないのです。
 「ご家庭の行き違いに関しては、わたしには何ら差しはさむ言葉がありません。ただ、信心について、道徳とは別物かと問われれば、それは別物だと答えざるを得ませんねえ。
 信心深い人は謙虚になるのが普通だとは思いますけれど、必ずそうなるとは限らない。どんな人でも救うのが仏の願いですから、どこか至らぬ部分がある人のことを、むしろ仏は気にかけているとも言えるかも知れませんね。それを浄土真宗では悪人正機を呼んでいますけれど、何も悪人とはいわゆる悪い人間のことじゃないでしょうね。人と人とが競争をせざるを得ないこの社会生活を営む限り、誰もが悪人たらざるを得ないでしょう」
 「じゃあ、ご住職、ウソをついた方が得だと言うことになりませんか?」と奥さんは納得しかねる口調です。「悪いことをしても・しなくても同じことなら、した者勝ちの世界になるじぁありませんか」
 「先ほども言いましたけれど」とわたくしは饅頭を口にし、お茶で喉を潤しました。「浄土真宗で言う悪人とはいわゆる悪人のことじゃないんです。自力作善の出来ない人、要するに出家できないわれわれ自身のことなんです。だから、もしお婆さんの信心がその仁徳にいい影響を及ぼしていないならば、それは悲しいことですけれども、だからといってその信心まで疑ってはならないと思いますよ」
 「ですけど、うちのお婆ちゃんは常日頃、信心のおかげで長生きが出来てるとありがたがってますよ。自分に都合のいいようにすべてを解釈してだから、腹が立つんです」
 「そういう時、奥さんはどうされるんですか?」
 「主人に愚痴るしかありません。頼りにならないけれど、他にいませんから」と奥さんが横目でご主人をにらむと、ご主人はムッと口をへし曲げて黙り込んだままです。
 「少しは気が紛れるでしょう?」
 「まあ、ねえ…。かえって腹が立つこともありますけど…」
 「お婆さんにはもうそういう人もおられないわけですから、少し寛大に受け止められた方がいいかも知れませんね」
 「だけど、平気でウソをついてですからねえ。バレないと思うと、何でも言うてです」
 「それが事実なら、お婆ちゃんの持って生まれた1つの業でしょうなあ」
 「ご院さんは人ごとだから、そんなに落ち着いていられるんです」
 「もちろん、そうですよ」とわたくしは笑いました。「自分の家のことだと、業だと言ってのんびりとお茶を飲んでいられませんわなあ」
 「もう良かろうが」とご主人がいささか疲れたような声で静かにたしなめると、
 「そうですね」と奥さんも溜め息をつきます。「つまらぬ相談をしてすみませんでした。そりゃまあ、お婆ちゃんに信心をやめろと言うわけにも行きませんものねえ。それを生き甲斐にしていることだし!」
 「信じるにせよ・しないせよ、われわれはみんな救われているんだと思いますよ。ただ、それを信じることによって、生きている今がそれだけ充実したものになるんです。それを浄土真宗では平生業成と言って、重視してるんですよ。
 死後の極楽往生は、まあ誰にも保証されていることだから、二の次と言っては言い過ぎかも知れませんが、それに近いですわな。
 『考えている』このわたくしこそ、いわば自我であり、煩悩ですよね。そこに悪人としてのわたくしがいるわけです。それは否定できない事実です。しかし、救われていると『感じる』ところに、実は阿弥陀仏さまが共にいらっしゃるのではないでしょうか?.救いを(考えるんじゃなくて)感じるようになったとき初めて、それは自分のものになる気がするんですけどね」
 「よく分からないんですが、お婆ちゃんもそういう心境なんでしょうか?」
 「それは分かりません」とわたくしは窓の外の、東に向いた庭に目を移しました。
 そこでは、松の根元にマンリョウが濃い葉群の下に赤い実を無数にぶら下げて、冬の張りつめた空気に向かって強い光を放っています。それはいずれきっと、ヒヨドリに見つかって啄まれるに違いありません。空に舞い上がって、雲となり、雨となって再び地を潤すかも知れないのです。
 また、低い塀に沿った棚の上には、サツキの盆栽が、何十と並んでいます。以前は2〜300と育てていたけれど、腰を患ってからは4〜50に減らしました、それでも日々の世話は大変なんですと、訪れるたびに嬉しそうに語ってくれるお婆さんの顔が、わたくしの脳裏に浮かびます。それは決してウソをついている顔ではありませんでした。そんな充たされた顔がある限り、お婆さんは救われているに違いないと、わたくしには思われてならないのでした。