仏を想う
 
 ちょっと2車線、4車線の道路を外れると、人いきれのする裏通りが、どこの街にもあるものです。そこでは、理容室のしゃれた看板が、春の陽に白く明るく垢抜けた雰囲気を、周囲に投げかけているのです。目印を目にしたわたくしは、車のタイヤをいささか軋ませて、その角度を変え、速度を落としたまま見覚えのある広場に乗り込みました。
 その青空にはいつもの通り、松が枝を伸ばしていました。白壁の塀の向こうに聳える甍は真言宗の寺で、丘の上の弥勒寺と昔(戦国時代の話ですが)、檀那寺・末寺の関係があったのだと、弥勒寺さんは淡々と語りました。
 「と言うことは、弥勒寺は真言宗から改宗したんですか?」とわたくし。
 「うん」と、ふっくらとした頬に微笑の影を漂わせ、弥勒寺さんはわたくしの煎茶茶碗にお茶を注ぎました。「だから今も境内に法界と彫った石が残っているわな」
 「昔からこの地にあったんですね?」
 「らしい。江戸時代に入って、F市が城下町として発達するようになってから、寺の構えも大きくなったようだ」
 「城が逃げたK町は、反対にさびれて行きました」
 「しかし人が住む町としては、どちらがいいか分からないぜ」
 「1つの町単位で生活する時代じゃありませんものね」
 「そういうことだ」
 「弥勒寺さん」
 「何だい、改まって?」と弥勒寺さんが微笑すると、その鋭い細い目に優しい光が宿ります。
 春はもう、すぐ目前の、横に伸びた松の老木の枝1つ1つにも巡っているのです。緑の針葉に3月の光が、反射しつつ溶け込んでいるのです。先日見たY谷の梅の満開の花の香が、丘の上の南に広がった空にまで、きっと薫っているに違いありません。ウグイスが鳴かないのは、弥勒寺は余りに庭がきれいで光が行き届き、木の葉隠れというわけに行かないからなのでしょう。
 「真宗の要は信心ですよね?」
 「うん」
 「真宗の信心に阿弥陀仏は不可欠なのでしょうか?」
 「うん?」
 「弥勒寺さんは本当に本堂の阿弥陀仏を信じています?」
 「ははあ…」と弥勒寺さんはお茶をすすると、可笑しそうにわたくしを眺めます。「そんなこと、聞いてどうするの?」
 「参考にしたいのです」
 「何の?」
 「そりゃあ、わたしの信心の在り方です」
 「つまり、浄玄寺さんはそれなりの信心がすでにあるわけだ」
 「でないと、とうていこういう仕事(仕事と言っていいのかしら?)は、出来ませんよ」
 「そうでない人もいると思うけれど…」と弥勒寺さんはポットのお湯を湯冷ましに注ぎ、しばらくして湯冷ましを掌に載せて温かさを測って、急須に注いで煎茶を作るのです。そしてわたくしの煎茶茶碗に注ぎ、自分にも注ぐのです。
 「他の人のことはどうでもいいんです」
 「まったく?」とうつむいて煎茶茶碗を手にして、弥勒寺さん。
 「まったくです」とわたくし。「人を気にする年齢じゃあ、もうありません」
 「それは年齢には関係しないと思うけどね」と弥勒寺さんは顔を上げて微笑みます。「年によって人の気性が変わると考えるのは、きっと浄玄寺さんのいいところだよ。なるほど、肉体の衰えが否応なしに人の気持ちを変えることはままあるけれど、それは、いわば無理やりの変化であって、例えば若さが取り戻せたとすると、たちまち元の木阿弥だろうな」
 「それも関係ありません。ボクはボクの生死に関わるほかないんですから」
 「そうだよな」と弥勒寺さんは煎茶を飲み干し、「それにしても、またひどくうら若い質問だなあ。その種の問題はもう浄玄寺さんはクリアしていると考えてたんだけど、思い過ごしかな?」
 「してますよ」とわたくし。「だけど、余りクリアな解決案じゃないから、時に不安になるんですよね。弥勒寺さんだから尋ねてみるんです」 
 「じゃあ、浄玄寺さんだから答えればいいわけだ」と、わたくしよりかなり年上のはずの弥勒寺さんが、艶のいい頬に微笑の影を閃かすのです。
 「もちろん、それで結構です」
 「それじゃあ言うけど…」と弥勒寺さんは語り出しました。「浄玄寺さんもそうだと思うけど、オレもいろいろの場でナムアミダブツと称えているさ。だけど、それは求められて称えるのであって、自ら発したものじゃないわな。正信偈はよく出来た聖典だから、称えるうちに酔い痴れることもしばしばだけど、それはギャーテーギャーテーハーラーギャーテーとどれほど違うか、少なくともご門徒の受け止め方には心もとないところがあるだろう。
 本堂の阿弥陀仏は基本的にはご門徒のためのものであって、オレのためじゃない。だけど、誤解されても困るんだけど、だからどうでもいいなんて少しも考えていないよ。だからこそ大切なんだと、むしろ考えている。
 だけど、それがオレの信心に必要不可欠かと言えば、むろん、そうじゃない。オレが思わず知らずナムアミダブツと口にするのは、西に落ちる夕陽を目撃するときだな。西の空が赤く染まって、濃い紫に棚引く雲の間に真っ赤な太陽が隠れていく時、そのゴージャスな沈黙の深さに、思わずナムアミダブツが口をついて出ることはよくあるんだ。上空を振り仰ぐと、そこには素顔を露わにした宇宙が、1つ2つ3つと数え出すと数限りない星をばらまいて、紺碧色に彩られているしね。
 それは、いわば観想念仏だろうね。称名念仏とは言い難いだろうけど、そもそも現代において、称名念仏は難しいわな」
 「ええ」とわたくしも納得したものです。「なぜなんでしょうね?」
 「平安時代、末法思想と共に浄土信仰は急速に普及しただろ」
 「ええ」
 「末法思想は、言ってみればハルマゲドンだよ。宗教を広げる有力な手段が、古今東西を問わず、終末論だってことさ」
 「弥勒寺さんは末法思想にひどく冷淡なんですね」
 「末法もここまで続けば、もう誰ひとり考え込む人間なんていないという、それだけの話だ」と弥勒寺さんは笑います。「浄玄寺さんだって、今が末法の世だとは信じていないでしょう。まあ、ブラックホールの向こうにホワイトホールがあるようなものかも知れないね」
 「でも、自らの終末を預言する宗教なんて珍しいんじゃありません?.この世の終末なら、無数に預言されてますけど」
 「うん、そうかも知れないな」
 「それが仏教のリアリズムだと、ボクは考えるんですよ」
 「そうかも知れない」
 「だけどその契機が無化した現代、ナムアミダブツへの衝動は何なのでしょう?.説教を聞くと、極悪尽重の我という意識が、翻って弥陀の救いに向かうと説かれますよね」
 「そのパターンが多いよな」
 「だけど、ボクはボク自身、それほどひどい人間だとは思わないんですよ。そりゃあ、心を探れば、人に語れないことをいっぱい考えていますよ。だけど、心は心でしょう。極端な話、親殺しを心の中で想像したって、実際に実行するのでなければ、何ら非難される筋合いのものではないですよね」
 「そもそも、心で暗いことばかり考えるのは苦しいよな」
 「そうそう。だからいちいち問題にしてられませんよ」
 「しかし、そうなると浄玄寺さん」と弥勒寺さんは笑います。「例えば親鸞聖人の有名な言葉、『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします』など、閑却視したことにならないか?」
 「でも、それって、自己の内面の批判でしょうか?.そんな自意識の産物ではないと思うんですけどね」
 「『悪性さらにやめがたし/こころは蛇蝎のごとくなり/修善も雑毒なるゆゑに/虚仮の行とぞなづけたる』という和讃もあるぜ」
 「だから、それもね、ボクは自我そのものの批判であって、心が善い悪いの問題じゃないと思うんですよ。『悪性』と言うのは、凡夫と同義であって、そもそも凡夫である限り、善性はありようがない。凡夫の心はもとより『蛇』なのであって、それ以外にない。だから続いて『修善』が来ても、それも凡夫だから毒にしかなり得ないんですよ。つまり、善悪はあくまで仏法的善悪であって、そこに社会的善悪の観念をダブらせると、誤解の元になるんじゃないでしょうか?.言われるところの本願埃とはそういうことでしょう」
 「ちょっと分かりにくいなあ」と弥勒寺さん。
 「要するに、自我の内実をアレコレ問題としてるんじゃなくて、自我そのものを煩悩として否定してるんじゃないでしょうか?.そして、それが捨て切れない、いわゆる凡夫にとって、弥陀の誓願の他には救われる手だてはないということでしょう」
 「心で考えることを反省する必要はないと言いたいわけだ」
 「そう。だって、悪いことも考えるから、また善いことも考えるわけで、その一方だけというわけには行かないでしょう。それが、現実の社会を生きるってことでしょう。つまり、自我が自我としてあることが、弥陀を弥陀としてあらしめているんじゃないでしょうか?」
 「すると、両者はどういう関係になるのかな?」
 「深く自我を意識することが、ますます強く弥陀を感じる道につながっていくのでしょうね。両者の絶対的な距離感が、かえって両者を結び付けることになる」
 「その一方の自我を否定的に捉える必要はないと言いたいわけ?」
 「イヤ、否定的ではあるけれども、それがそのまま存在価値ともなると言うべきでしょう」とわたくし。「言い換えれば、社会的存在としての自我は必須でしょう。もちろん、出家すれば別だけれども、在家である限り、その限界について云々しても仕方ない。さらに言えば、悪い人間だから悪人じゃなくて、自我があるから悪人、つまりは誰もが仏の目には悪人に映るということじゃないかしら。牽強付会的な解釈だと言われても、西洋思想を通して自我に基づいた社会が構築されている現在、その前提の上に立たないことには、何であれ、絵空事に終わるだけじゃないでしょうか?」
 弥勒寺さんは微笑を残して立ち上がり、窓辺に立って夕陽を赤く顔に受けながら、
 「オレはやっぱり観想念仏だなあ」と言いました。「そこに一種の美意識が生ずるのが、オレには嬉しいんだよな。だから、本堂の阿弥陀如来にもそれほど違和感がない。イヤむしろ、浄玄寺さんよりはずっと親しめているかも知れないな」
 「ボクだって親しんでいますよ」とわたくしは笑ったものです。「ただ、それとはまた別の可能性も想起されると言いたいんです」