プラトニック
 
 太郎は哲学の講義に来る3人の娘の1人、髪の長い、色の黒い、小柄な女の子に夢中になりました。それは、以前夢中だった、髪の長い、ただし色は白い、小柄な女の子が大学に入って髪を切って、ボーイッシュになってしまったからでした。
 女の子の名前は花子。自ら詩を作って送って、わざわざ花子の下宿の近くに引っ越した太郎は、クラブから帰る花子を道端で待って、
 「今日は」と声を掛けました。「この近くに移ったんだ。かまわないだろ?」
 花子はポッと頬を染めて頷きました。
 花子の下宿の前で別れた太郎は、「やった!」と叫んで、その3畳1間の息苦しいほど狭い、ただし花子の部屋からわずか50メートルほど離れた自分の部屋に駆け込んだものです。
 それからときどき一緒に帰る数分間の道のりが、太郎の大学生活の目的となりました。
 ところが、マンドリン・クラブに所属していた花子の演奏会の券を買って、仲間と連れ立って聴きに行ったその後から、どうした訳か花子は連れないそぶりです。他愛ない言葉をかけても、冷たく顔を振るばかりなのです。そしてある夜、男友達と一緒に帰ってくる花子にカッとなった太郎は、「好きだ」と手紙を書いたのでした。
 「見た?」と、農学部の農場の真ん中をまっすぐ延びる道を帰っていく花子に追いついて、太郎は聞きました。
 花子はキッと唇を結んだままです。
 「返事はないの?」
 「ええ!」
 好きか嫌いか、どちらか言葉の欲しかった太郎は、
 「待つよ」と言いました。
 「あなたはそういうことばかり求めているでしょう!.イビツじゃありません?」
 イビツの意味が咄嗟に捉えられなかった太郎は、
 「オレが勝手にやることさ。キミには迷惑はかけない」と言いました。
 「でも、それじゃあ、あなたに悪いでしょう」
 「10年もかかるわけじゃないだろ?」とその顔をのぞき込んで尋ねた太郎に、花子は素直に頷きました。
 それから夜、いろんな男友達と帰ってくる花子を、太郎は目撃しなければなりませんでした。「そんな女、やめてしまえよ」と友人に忠告されても、諦め切れないのです。
 玄関先で待っていた男の前に着飾った花子が出て来た時、たまたま窓を開けて彼女の窓を眺めつつ、ロマンチックな夢想に耽っていた太郎は、ドキッと心臓が仰天し、その高鳴る鼓動に促されるままに、2人の後を追いました。静かな住宅街をブラブラ散策して、中華飯店に入って(実に中華飯店の多い街だったのです!)、たっぷりと2時間は話し込み、暗い歩道で2人はキスを交わしたのです。その夜、太郎は眠れませんでした。
 「へええ、かわいい顔をして大胆なんだなあ」と、太郎の話を聞いた友人はむしろ楽しげでした。それからやっと同情するように、「諦めた方がいいんじゃないの」と言いました。
 しかしその男とはそれっきりで、また別の男とデートを重ねます。それがまた長続きせず、喧嘩別れする2人の後を、太郎は追いかけたこともあるのです。
 「やれやれ」と友人は本当に太郎に同情し出しました。「オレはおまえのように深刻にならないタイプでよかったよ。それにしてもプレイ・ガールだなあ!」
 しかしそうではないのだと、太郎はうろたえ、右往左往しつつも、心のどこかで確信していました。
 ある夜、男と帰る途中で偶然、太郎と鉢合わせになった時、花子はハッと顔色が変わりました。思わずその小さな手で顔を隠しました。数日考え込んだ太郎は、それでもまだ追いかける決意をし、それと知った花子は、飾りのない顔をして振り仰いだものでした。
 そしてある日、大学の食堂のどこかで誰かが見つめるのを感じた太郎が瞳を上げると、観葉植物の葉越しに花子の喜びに輝く顔がありました。太郎が気づいたと認めると、パッと、子供のように顔を元に戻したのです。そこにはいつもの友達たちが、いつもの華やかな話題に興じていました。
 太郎は全てが終わったと感じました。恋が成就され、オレの人生は無事、平穏な家庭生活の中に帰還するだろう、と。
 道端であった花子は、
 「今日は!」と挨拶し、ポッと顔を赤らめました。肩がググッと花子に寄った太郎は、しかし語りかけることもなく、顔に深く落胆を浮かべた花子を残して通り過ぎました。
 その年の春、確かに桜の花のひとひらひとひらに、太郎はこれまでと違う色合いを見ました。ニセアカシアが空を覆って咲く並木道の舗装の確かさに、太郎の心は初めて気づいたのです。
 そして再び会った花子に、
 「オレはオレなんだ」と口走った時、その本当の心が、痛いほど花子にも通じたに違いありません。それからもう2度と、太郎に心を開くことはなかったのですから…。
 それからも同じように花子を追いかけていても、もう同じでないことを、2人は知っていました。大学を卒業して街を去って就職した花子は、すぐ結婚したと、風の便りに太郎は聞きました。そして、彼の手元にはたった1つの詩が残されたのでした。
 
 我が憂ひ 深くはあらず
 我が嘆き 偽り多し
 しかあれど 経る年月
 抱き来し かすかなる思ひの
 潮の如 満ち寄せ来れば
 やらむ術 せむ術知らに
 熱き涙 流れ出でて
 思ほゆるかも 恋燃えし日々
 恋燃えし 日々は忘れず
 とこしへに 我は偲ばむ
 絶ゆるなく 我は歌はむ
 よしゑやし 君はなくとも
 我が心 君としあれば
 よしゑやし 我は増荒男
 生きずは止やまじ
 
 沖つ海遠つ白波百重なす心寄せども君はいまさず
 
 街角の喫茶店の昼下がりにわたくしが読み終えると、
 「感想は?」とX氏が問います。
 「これは大人の童話ですか?」
 「と言うか、歌物語のつもりなんだけどな。まず詩があって、それがクライマックスになるように、話が出来ている」
 「とても作り話とは思えないんですけど…」とわたくしは思わず頬をゆるめて、X氏を上目づかいに見上げても、
 「虚実織り交ぜて語るのが、何であれ、効果的だろう」と氏は澄ましたものです。「たとえ現実の次に詩が出来たとしても、この場合、まず詩があって、現実は二の次さ」
 「ははあ、そういうことですか」とわたくしは改めてサッと目を通し、「それにしては現実の部分の方が複雑ですよね。詩は単なるプラトニック・ラブでしょう」
 「プラトニックじゃ古いか?」とX氏はまた1本、タバコに火を点けました。そして車の走る道路に開いた南の窓に向かって、フウッと白い煙を吐き出すのです。「それは確かに、一種の自己欺瞞ではあるけれど、無目的に生きて行くよりはましだろうというのが、主題なんだけどなあ」
 「これって、太郎は振られたことになるんですかね?」
 「うーん、どうだろう」
 「むしろ、花子を受け入れるキャパシティーがなかったんじゃありません?」
 「どういう意味?」と、案の定、X氏は真剣な眼差しになりました。
 「太郎は花子を、1人の他者として受け入れることを自ら拒否していますよね。それは、失恋して誰もが経験するはずの真実に、前もって自ら扉を閉ざしたことにならないかしら?」
 「とすれば、それはプラトニックでもないわけか?」とX氏は何かをあざ笑う口調です。
 「と言うか、そもそもプラトニック・ラブ自体、虚構の産物でしょう。あれは男同士の話であって、男女の仲には通用しないんじゃないでしょうか?.そういうふうに誰も思い至らなかったのは、単にずっと男性優位の社会が続いて来たからじゃないかしら?.そんな社会でプラトニック・ラブを試みても、男の幻想に終わるか、女に圧力を加えるだけなんですよ」
 「太郎の場合、どちらだろう?」
 「圧力を加えていても、常に失恋の側に回ろうとしているから、まあ、倫理的には許されるでしょうけどね」
 「しかし、この話は書き換えるわけには行かないんだ」とX氏はどこか苦い口吻です。「もう遅い」
 「このままでいいじゃないですか!」とわたくしは強く肯定したものです。「これはこれで立派に完結してますよ。たとえどんなに小さな物語でも、時間の流れの中で違った彩りを帯びること自体、プラトニックなものの無効性を示していますよね。それは、プラトン自身にはよく分かっていても、プラトニストには分からなかった事態だと、ボクは解釈しているんです」
 「今日はキミに完全に脱帽させられたなあ」とX氏はタバコの火を灰皿で揉み消し、コーヒーを飲み干しました。「どうも春先は花粉症にやられて、意気が上がらない。もちろん、負け惜しみで言ってるんだけど…」
 「岡目八目ですよ」とわたくしは微笑しつつ、コーヒーに口を付けました。「岡目八目で人生を見る位置にいるから、聞く人によっては、説得力ありげに聞こえるだけですよ。ただし、それを寂しいと感じ始めたら、これほど寂しいこともまた、余りない」