慶讃法要
慶讃法要を「キョウサンホウヨウ」と読める人は、仏教行事に相当知識のある人に違いありません。仏事にはそれほど一般と懸け離れた面が多々あるのですが、慶讃法要となると、実は僧侶自身、不慣れなのです。と言うのも、住職の代替わりとか、本堂や庫裡の新築とか、10年あるいは100年単位で行われる行事だからです。
それでもわたくしが主に付き合う20ヵ寺のうち、毎年どこかで慶讃法要が行われ、昨年も11月初旬に専念寺でありました。春なら5月初旬、秋なら11月初旬とたいてい決まっているのは、統計的に降水確率の低い、かつ行事に適した季節を選ぶからです。11月3日の文化の日が1年でもっとも太陽の照る確率の高い祭日であることは、実は多くの住職の聞き及んでいるところなのです。
予期した通り、専念寺の慶讃法要の朝も好天気に恵まれ、10数年ぶりに訪れたその境内は、前回の慶讃法要の次第を淡い彩りで蘇らせてくれたものです。
東に向いた庫裏の大広間から眺められる丘一面、ここ2、30年の家々で埋め尽くされています。大きな企業が進出した結果、F市は地域の中心都市に変貌し、とりわけ専念寺の立つ丘は様変わりしたのです。そのおかげで専念寺は大きくなった、だからまた慶讃法要を営むのだろうとの噂もまた、しきりでした。
「皆様、お忙しい中をようこそお集まり下さいました」と進行係の後楽寺さん。「式次第は皆様方の席に用意しておりますので、どうぞ開いて、わたしの説明を聞いて下さい」
20ヵ寺ほどの出席があり、どの寺院の後に付けばいいのか確認すると、わたくしはもう流れに任せるばかりです。
「そりゃあ、お互い様ですよ」と、わたくしの前に並ぶ誓願寺さんが笑いました。「少々まちがっていても、ご門徒には分からんわなあ」
「よその慶讃法要は気が楽です」
「浄玄寺さんも春は大変でしたな」
「もう2度とやりたくありませんね」
「ははは!」と誓願寺さん。「わたしは慶讃法要の後、ギックリ腰になりましたよ」
「ほう!」と、ギックリ腰の気味のあるわたくしは思わず身を乗り出しました。「どうされたんですか?」
「タクシーから降りる拍子にカクンと来て、それから1週間ほど足腰が立たんかった」
「知らず知らずのうちに、どうしても気を使っていますからねえ」
「知らず知らずならまだええが。うちは記念写真の時に並ぶ順番でもめて、そりゃあ、くたぶれた!」
「そうでしたかね?」と、誓願寺さんの慶讃法要を思い出そうと努めても、人の後を付いて回っただけのわたくしには、むろん、何ら思い当たる節がありませんでした。
「光願寺さんと専願寺さんがもめてなあ、結局、写真は送らんかった」
「そうでしたかね?」
「浄玄寺さんのところだけに送った覚えはないよ」とまた誓願寺さんは笑います。
並ぶ順とか坐る順とか、いざ行事となると、今は江戸時代と違って平等なのだと言いつつも、寺同士、微妙に意識しているところがあるのです。それは単に僧侶の年齢に基づくものでもないことは、わたくしも薄々認識し始めていました。
「ま、うるさい人は上手に奉っていれば、間違いない」と、誓願寺さんのように割り切っている人も、もちろんいました。「あの頃はわたしもまだ若かったから、その要領がつかめんかった」
「まだお父さんがお元気でしたからね」
「親父がまた、こだわるタイプだからなあ」
「はあ…」とわたくしは前住職の、いったん固執すると口までひん曲げてしまう細面の顔を想起したものです。
わたくしたちは用意されたマイクロバス2台に乗り合わせ、専念寺総代の自宅で短い読経をした後、稚児行列に加わりました。金色の冠を付けた10才くらいまでの子供たちが、手には蓮の造花を持ち、着物に袴姿で、雪駄を履いて、若い親に連れられて僧侶の間をヨチヨチと歩き、華やかな彩りを添えるのです。
車の行き来の少ない裏手の道を選んで歩いて、坂を下り、再び専念寺に到着すると、30分ほどの休憩がありました。そして慶讃法要が始まりました。色衣に袈裟姿の20人ほどの僧侶が声を合わせて読経しつつ堂内を練り歩くのですから、また散華と言って花びらを形取った金紙・銀紙を撒きもするのですから、華やかな行事には違いありません。
寺院はどうしても葬式と結び付いて一般の人にイメージされていますが、慶讃法要もまた、知られているところです。信仰とは関わりなく、孫や子供を稚児に出したいと願う人は少なくないのです。
「それが現在の寺を支えているのでしょうね」と、法要の後、大広間に戻って、テーブルに盛られたオードブルを箸でつまみながら、わたくしは言いました。
「いったん出来上がると、なかなか廃れない」と向かいの弥勒寺さんが微笑みながら、箸を出しました。「寺の行事に限らないけどね」
「そうですよね」と、高校教師時代、新たに作った文芸部の部誌が、20年たっても同じスタイルで編集されて続けているのを、わたくしは連想しました。その部誌が送られて来るたび、わたくしは『伝統』の重みを感じてしまうのです。
「物事には何であれ、起源がある」と弥勒寺さん。「それが忘れられても、形だけは残って、新たな意味が付加されつづけるんだろうな」
「単に形だけが残る場合もあるでしょうね」
「そりゃ、あるだろう。しかしその場合、ちょっとした弾みで廃止されると、もう2度と復活しないでしょう」
「慶讃法要はどっちですか?」
「さあねえ…」と弥勒寺さんは鋭い眼ながら、そのふくよかな頬に微笑を湛えています。「それは、仏教はどっちかと問うようなものかも知れないな」
「つまり、仏教にとっては不可欠だと?」
「形は変わっても、儀式は残り続けるでしょうね。仏教の教えを表に現わすと、儀式という形を取らざるを得ないでしょう」
「それは宗教一般に言えることですよね?」
「もちろん!」と弥勒寺さんは腕を伸ばして、ビール瓶の口を差し向けました。「資本主義とか科学技術とかの発想とはまるで別次元の話だから、理性に訴えて納得してもらうわけには行かない」
「そもそも、われわれ自身がどれほど納得しているかが問題でしょう」
「浅く疑った人は浅く信じ、深く疑った人は深く信じるようになる」と今度は自らのグラスにビールを注ぎながら弥勒寺さん。
わたくしは黙ってオードブルをつついてキュウリ巻きを頬ばり、1口あおった弥勒寺さんのグラスにビールを注ぎました。
「浄土真宗が大きく伸びたのは、蓮如上人の時だわな」と弥勒寺さん。
「ええ」
「それから500年、紆余曲折はあったにせよ、その威光が続いているわけだ。正信偈はその典型的な例だろうな」
「真宗の密教化というのが、弥勒寺さんの意見でしたよね」
「密教化と言ってもいいし、言霊化、日本化と言っても、同じことだ」
「ええ」
「ただ、オレはそれを批判してるんじゃないよ」
「ええ、分かってます」
「葬式という典型的な儀式も、そりゃあ、仏教と直接には関係ないものな。けれども、そういうルートがないことには、仏教に至る道は、少なくとも一般の人には閉ざされてしまう」
「蓮の花を咲かせる泥沼として必要なわけですよね」
「そうそう」と弥勒寺さんはまた口元に微笑を湛え、ビールを手にして腕を伸ばしました。
「いや、もうよしましょう。車ですから」
「まあ、もう少しくらいよかろう」
「すみません」
「しかし放っておいても、蓮は咲かないよ」と弥勒寺さんはイタズラっぽい目をしました。「2000年前の蓮の花を咲かせるには、いろいろ苦労がある。少なくともテレビ・ニュースになる価値はあるだろう」
前途遼遠の思いに囚われていると、不意に肩を叩かれ、わたくしは思わず手にしたグラスの黄色い泡をこぼしかけました。振り向くと、専念寺さんがボッテリと太った顔に満面の笑みを浮かべつつ、
「ごめん、ごめん!」と謝るのです。「ご両人があんまり熱心に話していたので、つい聞き入ってたんだ。よし、オレもやっと区切りが付いたから、これからは飲むぞ!」