藤の花房短ければ…
 
 お城の西にあった高等学校が山の上に移転した後、その跡地はブルドーザーで均されるとずいぶん広く、博物館と美術館が建てられても十分の空間が残されました。以前、学校の正門があった辺りから北に広い敷石道を隔てて正面に遠く美術館が見え、すぐ左手に博物館があるのです。博物館の2階の常設館にはA河の河州から発見された中世の町の遺跡が再現され、その手の込んだ復元ぶりに初めて訪れた時、わたくしは驚嘆したものです。
 それは大阪万博跡地にある国立民族学博物館を初めて訪れた時、そのウンザリするほど膨大な展示品に驚いたこととどこか似た感慨でした。つまり、いずれも一種、「余裕」の産物に違いなかったのです。そして地方都市のあちらこちらで、その余裕の産物が鬱勃と現れ出していたのです。
 「文化とは、要するに余裕のことだろうからね」と、豊かに水を湛えた池を眺めながら、わたくしは言いました。「まず衣食住が安定しないことには、普通、気持ちがそこまで行かない」
 「エネルギー不変の法則があるじゃない?」と、藤棚の下の同じベンチに坐って言ったあなたは、白い衣服の下に若さをプンプン発散させていました。「だとすると、日本に余裕が出来ると、どこかが貧しくなるんじゃないかしら。人類全体に余裕が出来ると、それは地球自体が貧しくなることにならない?」
 「今まさにそういう時代に突入しているんだろうね」
 「わたしたちはその中間の、ちょうどいい時代に生きているのかも知れないわね」
 「どうして?」とわたくし。「キミは若いからあるいは状況が変わっているかも知れないけど、オレの場合、もっとも老人の多い時代に老人にならなきゃならないんだ。まだピンと来ないけど、いずれ深刻な問題を抱え込むことになる」
 「政府は今その老人対策に大わらわよね」
 「たとえ政治的には解決できても、1人1人の人間にとって大問題であることに変わりないよ」
 「でも、まだクローン人間は出来ていないでしょう」
 「ハハハ!」とわたくしは笑いました。「そんな心配をしてたの?」
 「たまたま昨日テレビでその特集を見て、わたし、考えさせられちゃった。30年たってまだクローン人間が生まれていないとしたら、その方が不思議だとある研究者は予言してるのよ。どう思う?」
 「その時、オレはちょうど危篤の床に就いているかも知れない」
 「わたしも初老よ。だけど、多分まだ死んでいない」
 「死ぬ時ばかりは予言できないけれど、クローン技術が向上すれば、少なくとも年齢は人間がある程度、自由に操れるかも知れないね。たとえば、100才が来れば誰でも平等に死んで行くとかさ」
 「怖いわね」とあなたが肩をすくめるそのちょっとした仕草にも、わたくしは敏感にならざるを得ませんでした。ゆったりとした白い服を透かして、肩から胸元にかけてムッチリと若い肌が窺えるですから…。
 「そういう想像は本当は危険じゃないのさ」と思わずわたくしは口をすべらせたものです。「それはオレたちとは関わりのない世界で繰り広げられていることだもの」
 「え?」と顔を上げたあなたの瞳に一瞬、鳥の影のような翳りが射しました。
 「クローンは所詮、クローンだ。そりゃあ、クローン心臓とかクローン肝臓とかクローン肺臓とか、いずれ医療に役立つだろうし、ひょっとすればクローン人間も誕生するかも知れない。だけど、それはあくまで少数あるいは例外にとどまるだろうな。だって、現在でも50億以上の人間がいるんだぜ。そちらをどうこの1つの地球で養っていくかの方がはるかに大問題だよ」
 「それもあるけど、それはクローンほどわたしにはショッキングではないのよね。なぜかしら?」とあなたはわたくしの目を避けて言いました。
 「クローンは倫理上の問題が絡むからだろうなあ」とわたくし。
 「わたしは倫理的な人間じゃなんだけどな」
 「オレもだ」
 「ウソでしょ?」とあなたはイタズラっぽい表情でわたくしを仰ぎました。「だってJさんは宗教家じゃない」
 「それこそ偏見!」とわたくしは思わず指の先であなたの鼻の先を押さえても、あなたは、生まれたてのヒヨコのような曇りのない目を細めただけでした。「宗教は本質的に倫理の枠を超えたところがある。だから、オウムにしろ、あながち責め切れるものではないんだ」
 「それって自己弁護?」
 「イヤ、真実」
 「都合のいい真実ね」
 「もう止めよう」とわたくしは立ち上って、緑陰を作っている藤棚の藤の薄紫の花房を仰いだものです。「少し歩かないか?」
 横に置いていた小さなバッグを肩に掛け、すぐわたくしの目の前で立ち上がると、ニコリとして、
 「歩きましょう」とあなた。
 池に沿って整備された遊歩道は今、新緑が明るい日の光にその葉裏をヒラヒラと白く翻す季節なのです。その香が鼻を衝き、光の粒子が優しく頬を撫でるのを感じつつ、
 「粘っこい若葉の季節が好きだとは、イワン・カラマーゾフの言葉だけど、それを読んで以来、オレもそう感じるようになったなあ」とわたくしは言いました。「それは彼が子供を盾に神に反抗する精神にもつながるものだけどね」
 「すてきな名前の人ね」とあなたは無邪気に応えたものです。「どこの人?」
 「ロシア」
 「今いくつ?」
 「19世紀末の小説に出て来る人物だから、いま現実に生きていたとして、100才を越えてるわな」
 「そういう人物も作ることが出来るようになるかしら?」
 「?」
 「つまりね、遺伝子をいろいろ操作して、希望する人間を創造することも、ひょっとすると出来るようになるんじゃない?」
 「神の専売特許がなくなるわけか」
 「すると、今のこのわたしって何?.結局、両親の遺伝子の組み合わせに過ぎないし、両親はまた、その両親から生まれたわけでしょ。このわたしって、どこから来て、どこへ行くの?」
 それは半ば自問であり、半ばはむろん、わたくしに問うていたのです。並んで歩くと改めてその肩幅の華奢な印象が新鮮で、そんなあなたの発想もまた、とても新鮮でした。
 「束の間の自分ってことだろうね。だから、一期一会という生き方が大切になるんだと思う」と言いつつも、わたくしはその凡庸な返答に秘かに苦笑したものです。
 うつむいて黙ってわたくしと共に歩いていたあなたは、
 「ああ、きれい!」と突然、目を輝かせました。
 池の水を引き込んで作った浅い沼地は、一面に緑の葉の立つ中にアヤメの花が、白く青く咲き垂れているのです。右に左に板の掛け橋が渡され、東屋も建てられているのです。そのためだったのです、平日にも関わらず行き交う人が絶えなかったのは…。
 「これを見ただけで生きて来た甲斐があると思いたいけど、そうも思えないしね」と、あなた。「今日ここに来た甲斐はあるけど…」
 「まだ若い!」とわたくしは注意を促す調子でした。
 「年を取ると、そう思うようになる?」
 「多分、年を取ると、新鮮に感動する力を失ってしまう」
 「ふーん…」とうつむき、足元の小石を白いエナメルの靴の先で蹴飛ばすあなたの風情に、
 「むろん、例外もあるだろうけどね」とわたくしは今度は慰めないわけには行きませんでした。
 「Jさんは?」と風に絡まる幾筋かの髪を手で掻き分けて、日の光に眩しげに眼を細めつつ振り仰いだあなたは、確かにこの世でたった1つの生命体でした。
 「微妙な年代だ」
 「そして微妙な職業でしょ?」と笑いを含んだあなたに誘われるように、
 「その通り!」とわたくしは大笑いしました。「自分の子供のような女の子にいい具合にあしらわれるようになったってことは、年老いた証拠かな?」
 「わたしはもう子供じゃありません」とツツと寄り添うあなたに、さらに子供心を感じたわたくしは、
 「じゃあ、オレたちのクローン人間を作る気ある?」
 「もちろん!」とあなたの返事に何の屈託もありませんでした。