予備校講師
 
 「文学と思想とは、ちょうど肉体と骨格のようなものだと思うんだ」とX氏は、その持論を展開しました。「文学者が意識しているか否かはともかく、時代精神がないことには、優れた文学は創造できない。ところで、近代日本にそれがあるかと問われれば、ないと答えざるを得ないわな。明治以降の小説はその大半が、西洋の名のある作家の気の利いた模倣でしかないだろ。それは多分、初期にサルトルの影響を強く受けたと告白している大江健三郎に至るまで、連綿と続いていると思う。
 そして、たとえば森鴎外なり、谷崎潤一郎なり、川端康成なり、あるいは小林秀雄なり、優れた文学者の軌跡を辿ると、必ず晩年に至って日本回帰を果たしているよね。その点、未完の『明暗』で最も英文脈のきつい文体を得た夏目漱石は、例外的に偉い。倒れても前のめりに倒れたその作家魂に、オレに限らず、感動する人は今もって多いんじゃないの?
 若い頃、一通り近代日本の小説を読んで、オレの得た結論はそういうことだった。要するに思想がないんだ。だから最後は自分に都合のいい日本回帰で手を打つことになる。それはある意味で、長い日本文学の伝統の流れの中で生きていた、幸せな人たちも知れないな。大江健三郎にせよ、逆説的な形でその伝統の末尾に位置していたというのが、オレの感覚だ。
 ところがその後となると、もう完璧に切り離されてしまっている。だから、公平な目で過去が振り返ることが出来るとも言えるわけだ。もっとも、それには大変な労力を要するけどね。
 別に仏教に関心があったわけじゃないが、古典を読む上で仏教は外せないと、その時、オレは感じたよ。小林秀雄は『平家物語』の仏教思想はうわべだけの飾りにすぎないと批判したけれど、当時は日本に仏教が伝わって700年もたっているんだぜ。700年たってもうわべの思想ならば、いったい本物の思想とは何なんだろう?.そもそも、鎌倉時代の仏教と昭和初期のプロレタリア文学運動をオーバーラップさせること自体に、無理がある。
 それにしても『源氏物語』は凄い。あれだけ長い物語にあれだけ多くの人物を配しながら、しかも時を追って作者の思想が深まっていき、それがまた作品に反映しているわな。そしてそこにもまた、仏教の影が深く射している。それは『源氏物語』を素直に読めば、誰にも分かることだろう。いずれにしても、『源氏』を知って以来、少なくともオレは西洋コンプレックスから解放されたよ」
 A河の川上にある高校の教師を対象にした進路講演会を依頼されたX氏は、その帰り、余りにいい天気だと言って、不意にわたくしの寺に立ち寄ったのです。予備校に勤めるX氏は、なかなかのおしゃれで、殊に手作りの、古代切れを使ったネクタイが趣味で、今日も青いスーツに合わせて濃紺の地に白い絣模様のネクタイが、早春の風になびいています。
 まだ登ったことがないとX氏が言うので、わたくしは車を駆ってK山の裏手の狭く曲がりくねった舗装道路からその頂上に至り、松林に半ば隠れた歴史資料館を訪れたあと、西に突き出した山城の跡に足を延ばしたのです。
 山頂の桜木立ちはまだ三分咲きと言ったところで、それでも強い風に白い淡い花びらが宙に舞い、光の中にウグイスの声が高く遠く響いていました。
 「この前、芥川賞をもらった『日蝕』という小説を読んだ?」と、芝生が冬枯れしたままの国旗掲揚台の下から平野の向こうに傾いた太陽に目を細めつつ、X氏。
 「ええ」とわたくし。
 「面白かった?」
 「ええ、一応」とわたくし。「小難しい漢字が多用されていたわりには、読みやすかったですね」
 「あれは作者の戦略だろう。まだ23才の学生と言うから、そりゃあ、1つの才能には違いない」
 「三島由紀夫の再来というキャッチフレーズですよね。Xさんは三島が好きですか?」
 「三島が好きかどうかが、その人の文学観を図る目安だとオレは考えているんだ。キミは好きか?」
 「あんまり好きじゃないんですよ」とわたくし。「どうもあの語彙のリズムに付いていけない」
 「どういう風に?」
 「『なめらかな』という形容が適当かどうか分かりませんけれど、そういう自然なリズムがないんじゃありません?」
 「まるでオルゴールのような?」
 「そうですね」とわたくしも賛成でした。「長く読んでいると、どこかイライラして来るんです。もっとも殆どの作品は呼んでいますけどね。『仮面の告白』とか『金閣寺』とか、そりゃあ、傑作とも思いますけど…」
 「今1つ信用できない?」
 「と言うか…」と、黄色い落日に煙る小さな平野の家々や田畑や、道路を走る車の群れの空に立ち上げる騒音を耳にしながら、わたくしは言葉を探しました。「あの人は小説という枠組みに何ら疑問を感じていないのではないかしら?.だから、本当の創造につながっていないような気がするんです」
 「その気持ちは分かるなあ」とX氏もわたくしと同じ方向に視線を向けました。「その点、『日蝕』の作者には、本物の思想を感じたな。もちろん、まだ生硬だし、小説家としての思想だけど…」
 「知識は凄いですよね」
 「三島に傾倒して、彼がコミットメントしている作品や作者に親しんだ結果だと言ってるけれど、それがいちばん体系的に知識を広げる手段には違いないわな」
 「森鴎外もどこかでそんなことを述べていますね」
 「そうだな」とX氏は頷きました。「三島より鴎外を意識していると言うところも、なかなかいいじゃないか。確かに『日蝕』には意味を超えた文のリズムに敏感なところがある。たとえば接続詞とか副詞とかの置き具合に無自覚じゃない」
 「ええ、確かに」
 「しかし、彼の言う超越的体験というのはどうだろう?」
 「当然、宗教につながりますよね」
 「キミの専門だ」とX氏は笑います。
 ひょろりと背の高いX氏は、とかく長く立ちっぱなしになることを嫌い、振り向いて雨にさらされたベンチがあるのを目にすると、「よいしょ!」と腰を掛け、片手で風をよけつつライターでタバコに火を点けて、フッと白い煙を吐きました。そして立ったままのわたくしを西日を浴びて眩しげに眺めながら、
 「どう思う?」と問うのです。
 「作家は超越的体験に向かい、宗教家はそこから帰って来る、その違いがあるんじゃないでしょうか?」とわたくしは答えました。「つまり、作家にその体験は必ずしも必須じゃないれど、宗教家にとっては絶対条件でしょう。それが、たとえうわべだけのものに過ぎなくても…」
 「なるほどね」とX氏はニヤニヤしました。その細面の、目の細い表情は真面目かニヤケか、その両極端に傾きがちで、「そうなると聞きたくなるんだなあ…」と氏が言い終えないうちに、
 「『おまえはどうなんだ』でしょ?」とわたくしは先手を打ったものです。
 「ははは!.なかなか敏感だな」
 「だってミエミエじゃないですか」
 「で、どう答える?」
 「『たとえうわべだけでも』とボクは言いましたよね」
 「ウン」
 「だから、ボクも寺の住職としてはうわべだけでも、もちろん、取り繕っています。そこに安住しているわけじゃありませんけどね」
 「うまくかわされた感じだな」とX氏はタバコを捨てて靴の先で踏み消し、立ち上がると、大きく両手を広げて背伸びしました。「ま、いいか。人生、理詰めに行くものではないからね」
 「Xさんにとって文学とは何ですか?」とわたくしが反撃を試みると、
 「飯の種さ」とX氏は笑います。
 「?」
 「国語の問題文の材料だから、そりゃあ気を配って、いろいろ目を通しているよ」
 「でも、そこには超越的体験は必要ないんじゃありません?」
 「邪魔になるだけ!」と氏は遠く西の空に視線を遊ばせました。「日没前の日の光は実に明るいし、深いなあ…。確かに神を想わずにはいられない」
 「ボクは日没から夜にかけてのブルーな時が好きですね。あの透明な愁いの表情が何とも言えません」
 そう言いながらわたくしは、平野の向こうの山の麓を蛇行する、まだ空の色を映して時に青く光るA河を眺めました。その大きなカーブが曲がり切ったあたり、通勤帰りの車のヘッドライトの光が連なった橋の隣に(その橋も最近完成したばかりでしたけれど)、もう1つ、新たに橋が架けられている最中なのです。それは平野の真ん中を東西に走る4車線道路といずれ接続されて、南の街に出る幹線道路になるはずでした。
 「K町も変わりますよ」とわたくしが言っても、
 「放っておくさ」とX氏は空を仰いで、髪もネクタイも春の風に吹かれるままです。「予備校時代は一種の猶予期間だろうけど、予備校講師というのは一生、いわばその猶予期間の相手をしなけりゃならないわけだ。すれっからしの文学中年男にもなるわな」
 「今日はまたマゾヒスティックなんですね」とわたくしが冗談っぽく言うと、
 「オレはもともとマゾなんだ」とたちまちX氏の表情に先ほどのニヤケが戻りました。「だから女に持てない。僧籍を持つキミが妻帯者で、恋愛至上主義者のオレが独身というのも、考えてみれば変な話じゃないか」
 「それも、人生は理詰めに行かないという証しでしょう」
 「違いない!」と言って、X氏は改めてわたくしを振り返りました。「さあ、キミの好きなブルーな時刻になったから、これからゆっくりと宗教観を聞こうじゃないか」
 「イヤ、もう帰りましょう」とわたくしは断固、山の裏手にある駐車場に向かいました。「絶対的体験なんて口で語れるものじゃないですからね。それに、語れと言われて語れるほどには、ボクはプロじゃありません。法衣とか匿名とか何かにオブラートに包み込まないことには、ウソがばれる」