ミスターX
 
 今生きているこのわたくしは、確かに自分の手足は自分でふつう自由に動かせるし、腹が減れば食事をし、怒れば悪口も出、感動の涙も出す、いわば自分の命を生きていると言えましょう。
 しかし、いつどこに生まれるか、いつ死ぬか思い通りにならないこともまた、この命の定めに違いありません。それは、この命が実は与えられた命でもあることを指し示しているのです。小さな自我、小さな命に囚われていては決して見えない大きな生命の海が、このわたくしのすぐ目前に、広々と横たわっているのです。
 また、掌を合わせることに、いわゆる意味はないことでしょう。掌を合わせることによって何か利潤が上がることもなければ、反対に災いを招くこともないのです。さらに、ナムアミダブツと唱えたところで、どこかの誰かが得するわけでもありません。
 それでも今以てそういう行為が行われているのは、たとえそれが形式だけであれ、たとえ葬式の場だけであれ、なにがしか人の心に響くところがあるからに違いありません。いかに旧習の残りがちな日本とはいえ、まるで無意味なものがこの変遷極まりない現代生活になお根を張り続けることは不可能でしょうから…。
 「風習としては残っていても、もう宗教意識としては残っていないのじゃないか?」とX氏は言います。「たとえばそこに宗教の意味を注ごうとすると、かえって人は反発するかも知れない」
 「そういう人もいるでしょうねえ」とわたくしも肯定せざるを得ません。「だからそこは、人を見て対応しなくちゃならない。対機説法が仏教の1つの方法論でもあるしね」
 「むしろ、そういう人間が大部分じゃないの?」
 「ふーん」と、そこまで言われると、わたくしは俄かに肯んずることは出来なくなるのです。「それはどうかなあ…」
 「浄土真宗の教義のイロハでも理解している人が、お宅にいくらいる?.5割もいないだろ?」
 「かも知れない」
 「個人の宗教じゃなくて、家の宗教だから仕方ないとも言えるけれど、それはもう宗教じゃなくて風習と見なした方が筋が通るんじゃない?」
 「そういう純粋な信仰を保持した人物は、たとえばキリスト世界やイスラム世界でも多くないと思う」とわたくし。「だって、そこでは相対的価値が否定されて、1つの絶対者が信仰の前提になっているから、純粋に見えるだけでしょう。それだけ、かえってタチが悪いかも知れない」
 「ウン、仏教だと誰でも仏になれると言うのが前提だからな」
 「誰でもなれるってことは、つねに『相対』的だってことで、『絶対』にはなりようがない。だから、『純粋』にもなりようがない」
 「しかし、それでは迫力に欠けるわな」
 「別に構わないでしょう」とわたくし。「競争しているわけじゃないんだから。家の宗教とは別に、神道はむろんのこと、四国の88カ所巡りやら新興宗教やら、大半のご門徒はいろいろ体験していますよ。それでいて、葬式は檀那寺で行なってもらうつもりでいる」
 「葬式仏教と言われるゆえんだ」
 「だけれども、葬式は大切な儀式でしょ。それを引き受けたことから、仏教が日本人に受け入れられたとも言えるわけだから」
 「それは分かる。だけど、それに安住していていいのかと言うことが、問われているわけだ」
 「いいわけがない」
 「だろ」
 「だけど、寺と門徒との基本はそこにあることは厳然たる事実であって、それを無視あるいは軽視して教義問答を試みたところで、空しい結果しか得られない」
 「だから何もしない、という結論にはならないだろ?」
 「それはそう」
 「そこをどう考えるかが問題だ」
 「ボクはそこはもう2つに割り切って考えた方が実りがあると思うな」
 「寺は寺、信仰は信仰と言うこと?」
 「そこは微妙な問題ですね」とわたくし。
 「ウン、微妙だろうな」と言うと、X氏はワインの瓶を手にしました。
 「もうこれ以上飲むと、帰れなくなりますよ」と言いつつも、わたくしはグラスを差し出しました。
 イスに寄りかかって背筋を伸ばして西の窓を振り仰いだX氏は、その明るい夕陽を顔に浴びながら、
 「まだ宵の口にもならないぜ」と言いました。「酔いを覚ます時間は幾らでもある。それにもう公務員じゃないんだから、検問に引っかかったって構わないだろう」
 「そういうものじゃないでしょうけどね」と言いつつも、わたくしはワインをあおって、フッと熱い吐息を洩らし、改めてX氏の書斎を眺めました。2階の西向きの窓に向かって机とコンピュータが並び、窓半ばまでブラインドが下りているとは言え、X氏の影が深く明るく縁取りされてわたくしの目に眩しく、北の窓に沿ったテーブルの上にはファックス、電話、旧式のコンピュータが並んでいるのです。
 その横及び東の壁一面が書棚で、フランス語や英語の原書、仏教書、日本の古典、世界文学全集等々、ぐるりと周囲を見回したわたくしの目に入ります。そしてすぐ入り口の脇に複写機があるのです。
 「ずいぶん本が少なくなりましたねえ」とわたくしが言うと、
 「3分の1になっただろうな」とX氏。「あとは全て処分した」
 「ちょっと勿体ないですね」
 「だけど、あれはかさばって困りものなんだ」
 「それは分かります」
 「本は読むもので読まれちゃならないからね」
 「つまり、要らない本は捨てる?」
 「そういうこと!」と笑顔を見せたX氏は、ワインをあおりました。「読書には目で読む目読と、心で読む心読と、体で読む体読があると思うんだ」
 「体読って何ですか?」
 「これが一番大切なんだ」とX氏はさも愉快げです。「目読は単に頭で読むだけだから、まあ記憶力のいい人間が有利だよな。いわゆる受験勉強って奴は、ふつう思考力を試すと言われている数学も含めて、基本的にこれだろう。心読は俗に言う感動して涙するような読書体験だ。気持ちの充実感が味わえるわな。ところで、体読だけど、これは人生に対する構えが変わるような読書体験のことを、オレはそう名付けているのさ。だから、何も格別なことじゃない」
 X氏によれば、体読であるか否か、そのあと空なり山なり、あるいは街なりを眺めれば分かるというのです。同じ空の青さでありながら確かにその本を読む前と違う青さが、体読のあとの空の青さにはあるというのです。
 「それはちょうど、映画館を出たあとと同じ現象じゃありません?」とわたくしは冷やかし半分に言ったものです。「視力を館内で猛烈に使ったあと表に出ると、街の光景が鮮明に目に映るじゃありませんか」
 「それとは違う」
 「どうして分かるんです?」
 「だって、本を読んだあと常にそうだとは限らないもの」
 「熱中したからじゃありません?」
 「熱中すれば常にそうなるわけでもない」
 「その度合いの違いとか?」
 「ハハハ!」とX氏はその細面の顔を崩して、ヒョロリとした体躯からは予想できない大きな笑い声を発しました。「どうもキミはオレが信用できないらしいね」
 「そういうわけじゃありませんけどね」とわたくしの口元からもつい笑みがこぼれました。「ただ、本だけで人生が変わるものだろうかと、そこを疑問に感じただけです」
 「変わる!」とソファから身を乗り出してわたくしの目をまっすぐに見つめながら、X氏。「道元だって看経を認めているだろ。親鸞にしろ、ナムアミダブツだけでいいと言いながら、教行信証のような看経作業を長年に渡って続けているじゃないか」
 「それはそうですけど…」
 「いくらコンピュータの時代だからと言ったって…」と言いながら後ろ向きに手を伸ばしたX氏は、コンピュータのスイッチを入れ、風にはためくWindowsの旗がメニュー画面に変わるまでの時間を黙ってわたくしともども待ちました。
 「イヤ、やっと変わった!」とX氏。「この機械も1年前には最新機だったんだけどなあ」
 「神話時代から歴史時代に入って文字が発明され、それが長らく続いたあと、現代のコンピュータ時代の文字はもう記号の1つ、あるいは抽象化されたグラフィクスだと言えません?」
 「コンピュータによって文字の意味が本質的に変わったと言いたいわけ?」
 「断言は出来ませんけどね」とわたくし。「だけど、その可能性は大いにあると思いますよ」
 「オレはそうは思わない」と意外にX氏は保守派でした。「コンピュータによって通信される文章にも、体読の余地は必ずある。そりゃあ、長編小説のようなものをコンピュータ上で読むのは、確かにしんどい。だけど、コンピュータだからこそ可能な文学もあるはずだ。そして、文学であるからには、心はもちろんのこと、人の細胞1つ1つにじかに訴える力があるはずだ」
 「それがグラフィクスかなとも思うんですけどね…」
 「いやあ、やはり文章だろう…」
 そのように2人が過ごしたのは、時折り窓の外の通りを車が行き来する、小さな町の夕暮れ時でした。窓に射す日の光が弱まるにつれて浮かび上がる、蛍光灯の下のX氏の表情はとても穏やかでした。そして、とても孤独でした。