脳死は人の死か?
戸外の空気はピンと張りつめていました。庭一面に白く雪が漲り、歩を運ぶと、斜めに射し込む朝日にキラキラキラ、キラキラキラとプリズムに散る光のように、小さな宝石が音もなくあちらこちらに無数に輝き、妖精の哄笑のような明るさなのです。松葉の中にも固く白く凍結した雪の玉が大事に載せられています。また、こんもりと白く車の屋根にかぶさって、羽根箒ではたくと銀色の光を散らしながら宙に舞い立つ、まるで軽やかな塵でした。確かにその朝、温暖な瀬戸内海の地にも志賀高原の冬が訪れたのです。
「いやあ、参ったよ」と皿山先生は笑いつつ、登校途中、雪で凍結した下り坂でスリップして、前に停まっていた車に追突したのだと語りました。相手はジープのような頑丈な車でかすり傷だったけれど、自分の車はボンネットがたわんでエンジンが露出し、自動車修理店に連絡して引き取ってもらって、自身は歩いて登校したのだというのです。
「ええ!.歩いて?」とわたくしは驚きました。「どれくらいかかりました?」
「1時間はかかったかなあ。車のありがたさがよく分かったよ」
わたくしも家から学校まで雪の中を30分以上かけて歩いた経験がありますけれど、なるほど、先生の自宅からこのミッション・スクールまで歩くと、しかも雪の中となると、悠に1時間はかかるに違いありません。
「阪神・淡路大震災がありましたよね」とわたくしは言いました。「あの日も大雪だったんですよ」
「そうだったかな?」
「ええ。ちょうど文芸コンクールの表彰式の日だったんです。車に乗って2時間たってもまだ、F市に出られるメドが立たなくてね。あわてて引き返して電車に乗って出ると、今度は新幹線が不通でしょう。高速バスでやっと広島に着いて、会場に駆け込んだのは開始5分前でした」
「そうだったの?.いやあ、知らなかったなあ!」
「あの日はテレビを見る度に、神戸の街から火の手が上がり、煙が空を覆っているじゃありませんか。湾岸戦争の時もそうだったけど、どこか非現実的に映るんですよね。来賓の先生や事務の先生たちと一緒に式のあとで喫茶店でコーヒーを飲みながら見る現実としては、いかにもふさわしくなかった。自分の『今』と関係ない出来事は、ピンと来ませんよね」
「言ってみれば、バーチャル・リアリティーの世界だものな」
「観念の世界と言ってもいいでしょうけどね」
「いや、考えてみれば、いまボクたちは恐ろしい世界に住んでいるんだなあ」
「世の中は全て、表があれば裏があるということでしょうけどね」
「ホント、実感のない生活空間が身の回りに充満しているよね。たとえば、この温厚なボクでさえ、車に乗るとどこか人が変わってしまうもの。前をゆっくりと走っている車があると、『何をトロトロしてるんだ、バカ!』と心の中で叫んでいる時がある。いや、ホントに恐ろしいことだ」
確かに車の中は隔離された自我の小世界です。そして競争し続けるのです。しかも予め定められた道の上を…。ますます増加する車のために道路がますます広く多くなり、土の下に溶け込めない雨はコンクリートで固められた溝を流れ、そのまま海に追い出されて行く他ありません。
「お母さんの運転は怖い」と3人の娘が三様に口を揃えて言います。「『どけ、どけ』と楽しそうにつぶやきながら走るのよ」
なるほど、稀に妻の車の助手席に乗ると、急発進・急停車はむろんのこと、道沿いに伸びた夏草をザッザッザッとかき毟りつつ、それにまるで無頓着にメガネをかけた顔でまっすぐ前方を見ながらハンドルを握っているのです。
「車間距離を測ることがあるのか?」とわたくしが聞くと、
「さあ」と妻。
「停車するとき、後ろを確認している?」
「そんな器用な真似できないわ。あなたはするの?」
「当然だろ!」と、もう妻の車には乗りたくないと思いつつ、わたくしは叫んだものでした。
実際のところ、その前後の経緯が分からないまま、妻は道路端の交通標識にぶつかり、車が大破し、後部座席に乗っていた長女が右足を骨折したことがあるのです。そのとき長女は3才でした。幸いにも折れ所がよくて単純骨折ですみましたけれど、あれが頭蓋骨だったらと仮定すると、ゾッとします。子供にもまたその時の記憶があるのは確かです。運転に関しては、わたくしの方がはるかに子供たちの信頼を得ているのです。
「交通事故で脳死状態になることもあるからなあ」とわたくし。「若い人の場合、格好の臓器提供者になるはずだけど、実際にはなかなかそうも行かないらしい」
「もう回復する見込みはないのだから、困っている人に与えるのは頭の中ではいいことだと分かっていても、どこか抵抗感があるのよね」と妻。「なぜかしら?」
「脳死を人の死だと見なすこと自体、不遜なのさ」
「どうして?.もう意識は回復しないのよ」
「人は意識だけで生きているわけじゃない」
「その気持ちは分かるけど、ずっとベッドの上に寝たままの状態の人間を普通の意味で生きていると言えるかしら?」
「逆に考えて、脳だけ生きていればいいってものではないだろ」
「それも分かるけど、自分の子供に肝臓とか腎臓とか、あるいは心臓とかに障害があると考えたとき、臓器を提供してもらえれば本当に助かるわよ」
「それはまた別の問題だろ」
「どういうこと?」
「つまり、死んだ人の臓器だから移植できると考えることがそもそも間違いだとオレは思うな。まだ生きているんだよ。生きているけれど、その人の善意によって、臓器を提供されるんだよ。それは、要するに、命のやり取りだ。そう考える方が自然だし、敬虔に取り扱えるのじゃないかしら?.死んだ人間の臓器だと考えると、もうそれは『物』扱いになってしまう。怖いことだと思わないか?」
実際、まだ温かい人の肌に、冷たく鋭利なメスがスーッと入れられ、血の出る間もなく素速く、ドクドクドクと鼓動する心臓が、白いビニールの手袋をはめた手で取り出されるのです。白い頭巾をかぶり白いマスクをかけた医師の瞬きもしない目でその心臓は点検され、そのまま次の医師に手渡される間、ドクドクドクと、明るく清潔な病室で伸縮しているのです。赤い血管に通う赤血球が行き場を失って吹き出す前に、新たな人体が求められなければなりません。そして新たな人体で新たに蘇った心臓は、やはり、ドクドクドクと、新たに目覚めた人の掌の下で脈打つことになるのです。
「1人の人間の命は地球よりも重いというけれど、人間ばかりが地球に生存しているんじゃない。そのことを知る方が、はるかに大切なことじゃないかしら。わが子よりも大切なものがあると思う」とわたくし。
「それはあなたが今、わが子が生きるか死ぬかの瀬戸際にないからじゃない?」と妻。
「そうか?」
「きっとそうよ。またそうでないと、親の資格はないわ」
「そうかな?」
「わたしはそう思う」
「オレはそうは思わないけどね」と言いつつも、わたくしはどこか不安に感じていました。